2016/12/11 ヨセフとマリアの旅

永原アンディ
(ルカによる福音書1:26-38, 2:1-7 )

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ヨセフとマリアの旅

A. 旅立ちへの招き (1:26-38)

26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
37 神にできないことは何一つない。」
38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

1. 彼らはどう聞き、どう応えたか?

 待ち望まれていた救い主の誕生の物語は、マリヤとヨセフが厄介な人生の始まりを受け入れたことから始まりました。まだ若い、結婚を約束した二人に対して、とんでもないニュースが天使ガブリエルによってもたらされます。それは、ヨセフの旅とマリアの旅がここからしばらく共に歩むものとなる始まりの時でもありました。ヨセフは、これを拒むこともできたのです。しかしヨセフは真相を信じない人々からは、陰口を叩かれ続けるであろう道を選びました。マリアもまた、不名誉な噂に苦しめられる位なら死を選んでしまってもおかしくないところから、ヨセフと共に歩き出すことを選びました。ヨセフの名はイエスの物語の最初の方にしか出て来ません。おそらく早くに亡くなったのだろうと考えられています。マリアの人生はずっとタフなものであったことが福音書からはうかがわれます。彼女は、ヨセフに先立たれてからもイエスと、イエスの誕生の後にヨセフとの間にできた子供たちを育て上げ、イエスの十字架に立ち会いました。ここまでだけなら、悲劇的な人生です。夫に先立たれ、頼りになる長男は十字架で殺される人生です。けれどもイエスは復活された救い主であったこと、自分の最も親しい人間であったイエスが、実は神、救い主であったことをマリアは知ります。その時彼女は、それまでのすべての苦しみ、叫び、涙が無駄なものではなかったことに気づきました。永遠の神様と共に生きて来たことを悟ったのです。ガブリエルの⌈おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。⌋ という唐突な挨拶と、意味不明な預言に、自分が反射的に⌈わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。⌋ と答え、実際にそのように生きて来たことを心から喜んだことでしょう。旧約聖書は主な登場人物について、その死に触れていますが、対照的に福音書は数人を除いて弟子たちの死について全く関心を持っていないようです。ヨセフの死にも、マリアの死にも触れてはいません。それはイエスの死に焦点を当てるためであり、またイエスによって死が力を失ったからです。私たちは、彼らの人生の旅から何を学ぶことができるでしょうか?

2. あなたはどう聞き、どう応えるか?

私たちの歩みにも、悩みや苦しみ悲しみは付き物です。望まないことをしなければならず、望むことはできず、失恋し、病気になり、自分の人生の先が長くはないことを知る時も来ます。自分では変えることのできない、例えば肌の色や、国籍や、性指向性のせいで憎まれ裁かれ迫害されます。しかし人生は出会いで良いものになるのです。ある出会いは最初は、ガブリエルに呼びかけられたマリアのように好ましくないものと思えるかもしれません。なぜこんな状態でヨセフと楽しく暮らすことができるだろうか?と悩んだはずです。しかし彼らには天使を通して与えられた神の約束の言葉がありました。⌈おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。⌋ これはあなたにも与えられている言葉です。ですから私たちもマリアのように ⌈わたしは主のしもべです。お言葉どおり、この身に成りますように。⌋ とあれこれ考える前に答えるべきでしょう。神の言葉は神様からのコミュニケーションです。先週聞いた通り、神様からのコミュニケーションは私たちの目に見える形で、イエスとして実現しました。先月お休みをいただいてカリフォルニアにいた時ブルーオーシャンフェースという教会のグループのカンファレンスに参加してきました。たくさんの大切なことを学びましたが、その一つは「私になぜこんなことが起こるのか?」という問いに対して必要なのは、答えではなく、“つながり”だということです。このなぜには答えは与えられません。しかし神様は答えよりも良いものを与えてくださいます。それが人々との“つながり”なのです。この“つながり”の中にイエスはいてくださいます。イエスに従って歩んでいる人同士の関係はもちろん、そうではない人との関係であっても、イエスはいてくださいます。イエスと共に歩むなら、どんな状況に置かれていても、旅は困難なものでも孤独なものでもなく良いものとなります。
ヘブライ人への手紙の著者はアブラハムやモーセの人生の旅を紹介した上で

 1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブル 12:1,2a)

と勧めています。あなたもここに共に集められた多くの恵みの証人の群れに囲まれてここにいるのですから、今がどうであっても世を去るその日には必ずいい旅だったと感謝することができます。

ヨセフとマリアの旅がひとつにつながって、二人で歩み始めた時、彼らは実際に人生の縮図のような旅に出なければなりませんでした。2章1−4節を読みましょう。

B. ヨセフとマリアのベツレヘムへの旅
1. 拒むことのできない旅 (2:1-4)

2:1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

 一連の想像を超えた厄介ごとに見舞われた二人にさらにもう一つの厄介が降りかかります。ナザレからベツレヘムへの旅です。ハネムーンでもなければい、私たちが楽しみに出かけてゆく観光旅行のようなものでもありませんでした。ローマ皇帝の命令による人口調査のために、町田からなら、甲府や前橋、富士くらいの距離の徒歩の旅をしなければならなかったのです。昔の人はこの距離を4、5日かけて歩いたようですが、ヨセフは身重のマリアを連れてどのくらいかけて行ったのでしょうか?絵やイラストでは必ずと言っていいくらいマリアはロバに乗っていますが、聖書には書かれてはいません。マリアも歩かなければならなかったかもしれません。
私たちは人生を自分で望んで始めたわけではありません。親を、国を、人種を、経済状態を選んで生まれたわけでもありません。パウロが言ったように「自分に定められている競走」が生まれた途端に始まっていたのです。誰かに比べて大きなハンディーキャップを負ってスタートしなければならなかったかもしれません。つい自分に定められた環境を呪いたくなり、人をうらやんでしまう私たちです。思い通りの環境に生まれ育つ人は一人もいません。欲望は人との比較から生まれるものです。他人と関係なく存在するものではありません。神のようになれると蛇にそそのかされるまで人はエデンの園の中央にある木の実を欲しいとは思っていませんでした。彼らの子カインは兄弟のアベルのように自分の捧げ物が神様に喜ばれなかったのを見てアベルを殺してしまうほど憎みました。私たちが皆持っている心の性質です。私たちは皆この困った性質に苦しみながら生きてゆきます。でもそれはあなただけではありません。だからこそ私たちは互いに助け合うことができるのです。私も弱く、あなたも弱い、しかし私たちの神様は強く優しい方だからです。

2. 危険と困難の伴う旅 (2:5-7)

5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 何日もかけてやっと辿り着いたベツレヘムには、もう彼らの泊まる宿屋は空いていませんでした。そしてイエスはこの状況で生まれようとしているのです。当時の出産は環境が整っていても命がけの営みでした。しかもマリアにとっては馴染みの産婆さんはいない旅先で、しかもいたのは客室ではなく馬小屋だったのです。人生にはたくさんの危機があります。私たちは守られて今生かされています。自分では避けることのできない危険から、神様は私たちを守り導いてくださる方です。苦難の時も少なくはありません。しかし耐える力を与えられています。神様は多くの場合私たちの危機や困難に直接介入することをしません。その代わりに人々を用います。あなたの危機や困難の時に、神様は誰かを神の人として派遣してくださいます。そして誰かのために、神様はあなたを用いるのです。イエスは私たちがこのような新しい人間関係、つながりを築くために来てくださったのです。ご自身が十字架にかかり苦しみしむことを通して、私たちが自分の罪深さに、弱さに気が付いて、イエスとの繋がりを求め、イエスにつながることによって新しく生きるためです。それは新しいといっても、実はそのような存在として神様が作ってくださった最初の「魂の健康な状態」に戻ることなのです。体の健康も、長寿も、財産も、能力もあなたの旅の成功を約束するものではありません。旅を成功させるかぎは一つだけです。それは⌈おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。⌋ という言葉を信じ、何があっても ⌈わたしは主のしもべです。お言葉どおり、この身に成りますように。⌋ と言って、イエスに従って、今共にいる人々と励まし合い助け合いながら歩み続けることです。

メッセージのポイント

イエス誕生の物語は、その両親のナザレからベツレヘムへの旅で始まります。それは私たちが思い浮かべるような楽しい旅ではなく、強制的に始まった危険と困難を伴う旅でした。マリアとヨセフの旅は私たちの人生という旅を暗示するものです。私たちは皆旅人。イエスは、あなたの旅の導き手であり同伴者です。

話し合いのために

1) 今までの旅の中で一番嬉しかったことは何ですか?
2) これからの歩みのためにどう祈りますか?

子供たちのために

もうすぐクリスマス、今回はマリアとヨセフのベツレヘムへの旅について想像してみましょう。強制された旅行、身重のマリアには困難な旅行。これは楽しい観光旅行のことではなく、人生という旅行です。子供達も、人生を始めている一人の人間として、木の向かないこともしなければならないこと、悲しみや苦しみや危険もあること、しかし、それが素晴らしい旅になるように、ガイドであり同伴者としてイエスが来てくれたことを伝えてください。