2017/01/01 神様の約束

池田 真理
(イザヤ 55:8-13)

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神様の約束

今年はたまたま元旦が日曜日だったので、こうして皆さんと新しい年の最初の日から礼拝することができて嬉しく思います。去年一年も、私たちそれぞれに嬉しいことも辛いこともあったと思います。嬉しいことの方が多かった人と、辛いことばかりだった人両方いと思います。今日から始まる新しい一年も同じように、それぞれに良いことも悪いことも起こるでしょう。幸福を感じている人の一方で、人生の危機に直面する人もいるでしょう。私たちは大きな神様の家族として、互いに支え合うためにここに共に集められています。でも、そこにも限界があります。私たちは共に神様を見上げて、神様を信頼しようと励まし合うことはできますが、本当に神様が信頼に足る方かどうかは、やはり一人一人が自分で確認するしかありません。神様は私たち一人一人に喜びと平和の約束をして下さっています。そのことを、今日は旧約聖書の預言者イザヤの言葉から確かめたいと思います。イザヤ書55章、最初に8-9節です。

1. 私たちには計り知れない神様の思い(8-9)

8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
9 天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

a. 目に見えない良い計画

私たちの人生には時々予想外の出来事が起こり、私たちをあわてさせます。なぜこんなことが自分に起こるのか、こんなはずではなかった、と思うようなことは、私たちの心を暗くさせて、自分の人生がもうどうにもならないように重く感じてしまいます。自分の予定していた人生と実際の人生が違ってくるとき、それまで当たり前に描いてきた将来が断たれてしまい、今目の前にのびている道がとんでもなく暗く感じます。
ここ数年、この教会は結婚ラッシュとベビーブームです。独身の頃から知っている友人達が結婚し、父になり母になり、その姿をそばで見られることは本当に嬉しいことです。ここまで至るまでに様々な苦労があったことも知っているので、結婚や出産という形で神様がそれぞれを励ましてくださっていることを見て、私も励まされます。でも、十年前の私の予想では、私もその中にいるはずだったので、おかしいな、とも思っています。20代の頃は、勝手に30代の自分は結婚して子どももいると思っていました。自分の親友たちが結婚し、結婚していない友達の方が少なくなってきて、自分にはそんな可能性は今のところゼロなので、少し寂しくなります。そして時々、自分はこのまま孤独に老後を迎えて死んでいくのかしら、とまで思ったりしてしまいます。そんなとき、今読んだイザヤ書の言葉にはっとさせられます。私の思いと神様の思いは異なり、私の期待しているものと神様の用意しているものは違うということです。私が「こんなはずではなかった」と思うような状況でも、その背後には私には見えていない神様の計画があり、それは絶対に良いものです。私の結婚が5年後になるのか、10年後になるのか、それとももっと先か、それか結局結婚しないのか、分かりません。でもどうなるにしても、それが神様の目に一番よいことで、私にとってそれが一番幸せなことです。私は自分の願いを神様に正直にうち明けて、後は神様にお任せするだけです。「こんなはずではなかった」と思うような状況は、これまでにも他にもありました。その内のいくつかは、今となってはやはりそれで良かったのだと思えるものもあれば、今でも分からないままのものもあります。でも、すべては神様の計画のうちにあるのだと信じています。
皆さんにも、それぞれ「こんなはずではなかった」ということがあると思います。そんなときにどうぞこのイザヤ書の言葉を思い出してください。神様の計画と私たちの計画が違うとしたら、それは必ず、神様の計画が私たちの計画より良いからです。私たちは自分の計画がうまくいかないと不安になりますが、今は見えていないすばらしい神様の計画を信じましょう。
このことは、このイザヤ書の言葉が書かれた時代の人たちにとってはどういう意味があったのでしょうか。少し歴史背景を振り返ってみたいと思います。そうすると、神様は、イスラエルの人々の歴史を通して、良い時も悪い時も、忍耐強く導いてこられたことが分かります。

b. 想像より広い救い

 イザヤ書は、紀元前8〜5世紀の約300年にわたるイスラエルの歴史に基づいて書かれています。ですから、イザヤという一人の預言者の言葉というわけではなく、イザヤの言葉に基づいて、イザヤの思想を受け継いだ何代か後の人たちがまとめたものと言われています。イザヤの生きた時代は、イスラエル民族の王国の北半分が既に滅亡し、残された南半分も危機にあるという激動の時代でした。イザヤは、生き残った南王国の人々に向けて、王国を脅かす国々を恐れずに、神様を信頼せよと呼びかけました。でも結局、イザヤの死後に王国はバビロニアBabyloniaに滅ぼされ、エルサレムの貴族達はバビロニアに捕虜として連行されてしまいました。その時代の人々は、それが自分たちの罪に対する神様の裁きだと嘆きました。でも、バビロンでの生活が50年も続く頃には、世代交代も進み、バビロンでの生活もそれなりに良いものになっていました。すると、エルサレムに帰って良いという王の許しが出されても、帰ろうとしない人々もいました。それは、イスラエルの人々のうちに新たな対立を起こしました。片方は、エルサレムに帰ってもう一度イスラエル民族だけの純粋な血統に基づいた王国を再興しようとする人々。もう一方は、異民族との融合や異文化との調和を優先する人々です。王国再建を夢見る人たちから見れば、異民族との調和を重んじる人々は、神様を忘れて、宗教的に堕落しているように思いました。反対に、異民族の中で生きようとしていた人々からすれば、王国を再建したい人々は民族主義的で宗教的には原理主義者だと思えたでしょう。そして、この混乱は民族の歴史全体を解釈し直すきっかけにもなりました。自分たちが神様に選ばれた民だというのはどういうことのなのか。サウルを選び、ダビデを選び、王を持ちたいと望んだことから、すでに神様を裏切っていて、間違っていたのではないか。
今日とりあげているイザヤ書の言葉は、そんな状況の中で生まれたものです。何が正しいのか、何が神様の思いなのか、意見は割れていました。それまでの民族の歴史を神様がどう思われてきたのかの解釈にも、混乱が生じました。でも、目の前にあるのは、囚われの身分からの解放という、神様の赦しでした。自分たちの間では価値観が対立し、信仰が揺るがされているのに、神様はすでに許してくださっているという事実がありました。それは、こんなはずではなかった、というより、こんな私たちでもいいのですか、という戸惑いです。
ここから分かるのは、神様の赦し、救いというのは、人間の態度によって振り回されるような小さなものではないということです。また、状況が良いか悪いかによって判断できるものでもありません。神様は、忍耐強く私たちに付き合ってくださる方です。神様と私たちでは、文字通り、天と地の差があります。だから、「こんなはずではなかった」と思うような状況でも、希望があります。そして、神様の救いは、「こんなことで本当にいいのですか」と私たちが戸惑うほど広く、大きいものです。完全には理解することができない神様を、どうして私たちが信じることができるのか、次の10-11節を読みましょう。

2. 取り消されることのない「神様の言葉」 (10-11)

10 雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

 天と地ほど離れている神様と私たちをつなぐものは、神様の言葉です。神様の言葉が何かというお話は、クリスマスに何回か聞く機会がありました。神様の言葉とは、神様がどういう方かを示すもので、神様がどういう方かを一番よく示してくれるのはイエス様です。このイザヤ書が書かれたのはイエス様が生まれるずっと前のことなので、もちろんこの言葉を記録した人がイエス様を知っていたわけではありません。でも、不思議なことに、このイザヤ書はイエス様のことを預言する言葉が旧約聖書の中で一番たくさんあると言ってもいいかもしれません。今日読んでいるこの55章の二つ前の53章は、苦難の僕の詩として、イエス様が私たちのために身代わりとなって死なれたということが言われています。ですから、今読んでいる箇所の「神様の言葉」というのも、イエス様のこととして読むことができます。また、そうでなければつじつまがあいません。神様と私たちをつなぐのはただイエス様だけです。私たちは神様のことを全て理解することはできませんが、神様はイエス様を与えてくれました。イエス様と出会って、私たちは神様の愛を知り、神様が良い方であると知ります。
イザヤの言葉に戻ると、この神様の言葉、イエス様、神様の愛は、雨や雪のようだと言われています。つまり、一方的に降ってきて、一度注がれたら取り消されることはなく、必ず目的を果たし、私たちを豊かにするということです。皆さんには、この神様の雨がすでに注がれています。イエス様をすでに知っている人はもちろん、知らない人も、イエス様と共に歩む身近な人を通して、その雨を感じているんじゃないでしょうか。一方的に降ってきて、私たちの人生を豊かにし、実を結ばせてくれる雨。それは一度降ったら取り消されることはありません。私たちの目に見えなくても、雨が止んでしまったように思えても、それは地下で栄養を蓄え、必ず私たちの前で芽吹くことになります。
最後に、神様の用意している計画の結末がどうなるのか、12-13節から確認しましょう。

3. 喜びと平和の約束 (12-13)

12 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち
平和のうちに導かれて行く。
山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い
野の木々も、手をたたく。
13 茨に代わって糸杉が
おどろに代わってミルトスが生える。
これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
それはとこしえに消し去られることがない。

 これは、直接的には、解放された人々がエルサレムに戻る時の喜びを預言しているものです。でも、私たち全てに対する神様の約束でもあります。それは、喜びと共に出かけ、平和のうちを歩むという約束です。私たちが今持っている様々な願いや悩みは、私たちの期待通りのタイミングや期待通りの答えで解決されるわけではないかもしれません。もしかしたら、私たちが生きているうちには叶わない願いもあるかもしれません。大切な人を亡くした悲しみや、大きすぎる苦しみは、一生未解決のままかもしれません。もし私たちが、この生きている間にだけ答えを求めていたら、この世界はあまりに不公平で、理不尽です。でも、私たちはイエス様と共に永遠に生きることができると知ったので、希望を持っています。そして、その希望が、今を生きる私たちにも、必ず喜びと平和をもたらします。問題は未解決のままでも、良い時も悪い時も、神様の良い計画を信じて、歩み続けることができます。13節には「茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える」と言われていますが、これは、荒地が豊かな土地になるということです。神様の計画の中では、私たちの目には悪いと映ることでも、のちに豊かな実をつけることに変わります。この約束を信じて、この1年間を共に歩んでいきましょう。

メッセージのポイント

私たちには、神様のすること全てを理解することはできません。私たちには悪いと思えることでも、神様の計画の中では必ず良いものに変えられます。私たちが良いと思っていることでも、神様はもっと良いものを与えたいと思われているかもしれません。自分に見えていることだけで判断して希望を失ったり、自分に予想がつく範囲だけで妥協したりせずに、神様に期待しましょう。イエス様と共に歩む人生には、喜びと平和が約束されています

話し合いのために

1) 神様の思いと自分の思いが違うと思う(思った)ことはありますか?
2) 神様は自分に良くしてくださると信じていますか?