2017/1/29 神様に迫る死と敗北

池田真理
(ルカによる福音書 22:35-38, 47-53)

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神様に迫る死と敗北

ずっとルカによる福音書を読んできましたが、今日読む箇所から、いよいよイエス様が十字架で死なれる出来事が始まっていきます。今年はイースターが4/16ですが、ちょうどその頃に復活の出来事を読むことができそうです。ですから、今日から3ヶ月ほどかけて、イエス様の逮捕から十字架での死、復活の出来事を読んでいくことになります。私たちは3ヶ月かけますが、実際は3日間で起こった出来事です。今日は最初に35-38節と47-53節を続けて全体を読んでいきたいと思います。

35 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、36 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。37 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

35-38節でイエス様が何を言おうとされているのか、理解するのが少し難しい箇所です。そこで、一番分かりやすいところからまず確認しておきましょう。それは「剣」に関することです。弟子たちは剣の使い方を誤解していました。


1. 弟子たちの誤解

 49-51節には、弟子たちの一人が、イエス様を捕まえにきた人々の一人に剣で切りかかり、その耳を切り落としたというエピソードがあります。このエピソードはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つすべての福音書に記録されています。それほど有名でよく知られた話だったということでしょう。イエス様の弟子たちが武器で人を傷つけた唯一の例です。イエス様を捕まえようとしてやってきた人たちを前に、弟子たちは今こそ戦わなければいけないのだと勘違いしていました。それは、35-38節で、イエス様に服を売って剣を買いなさいと言われた時から始まっていた誤解です。イエス様は、財布と袋と剣を持って行きなさいと言われたのであって、剣だけを持ちなさいとは言いませんでした。でも、弟子たちの返事は「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」でした。今こそ剣を取って戦うべき時が来たのですね、と弟子たちは勇んでいたということです。その弟子たちに対して、イエス様は否定せずに「それでよい」と言われたので、弟子たちはイエス様の真意を誤解したままでした。そして、現れた人々に切りかかるという行動に出ました。でも、イエス様は彼らの期待を裏切り、「やめなさい。もうそれでよい」と言って、傷つけられた人を癒してしまいました。イエス様は弟子たちに剣を買いなさいと言いましたが、それはイエス様を守るために戦うためではなかったということです。イエス様は、自分を捕まえるためにやってきた、いわば自分の敵であっても、攻撃することはありませんでした。
今日最初に確認したいのは、このことです。イエス様は弟子たちに戦わせるために剣を持ちなさいと言われたのではないということです。特に、イエス様に危険が迫る中で、イエス様を守るために戦わせるためではありませんでした。イエス様が逮捕されて処刑されるということは、起こらなければならなかったのであって、弟子たちが阻止できるものでもありませんでした。では、なぜイエス様は剣を買いなさいと言われたのでしょうか?そのイエス様の真意を次に考えていきたいと思いますが、その答えの鍵は、剣だけに焦点をあてないことにあります。そこでもう一度35節からのイエス様の言葉を振り返ってみましょう。。


2. イエス様の真意

a. 別れが近付いている

 35節でイエス様は、「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と弟子たちに聞いています。この「財布も袋も履き物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき」というのは、ルカによる福音書では9章と10章にある出来事のことです。12人の弟子たちを遣わし、次にその他に72人の弟子たちを派遣したという出来事です。イエス様は、なぜこの話をここで出したのでしょうか?それは、自分と弟子たちの別れが近いことを知っていたからです。9章と10章の時は、弟子たちは宣教のためにイエス様に送り出されてイエス様と一時的に別れました。今回は、イエス様が逮捕され、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ出して、イエス様と別れることになります。イエス様はそうなることを知っていました。状況は全く違いますが、イエス様にとっては自分を離れる弟子たちが心配であることには変わりなかったということです。それはこの直前の箇所で、ペテロが自分を否定することを知っていて、それでもペテロを励ましているのと同じ気持ちでしょう。この35-38節のイエス様の言葉は、自分から離れることになる弟子たちに対する、別れ際の最後の指示だということです。

 では、その指示はどういうものだったのか、内容を見ていきましょう。

b. 弟子たちを守ることができなくなる

35-36節をもう一度読みます。

それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。

ここではっきり分かるのは、9章と10章の時と今では、状況が変わっているということです。9章と10章の時は、何も持たずに旅に出ても、弟子たちは何も困ることはありませんでした。でも今は違う、ということです。どういうことか、少し9章と10章を思い出してみたいと思います。
9章と10章では、イエス様は弟子たちを送り出すにあたって、何も持って行ってはいけないと命じました。何も持っていかなくても大丈夫、ではなくて、持って行ってはいけない、無防備にならなくてはいけない、という命令です。それは「狼の群れに子羊を送り込むようなものだ」(10:3)と言われましたが、だから注意しなさいという意味ではなくて、狼の群れの中であえて子羊になりなさいという意味でした。人々の病気を癒し、悪霊を追い出し、神様の愛を伝えるためには、狼の中で同じ狼になって戦うのではなく、あえて弱い無防備な子羊にならなければいけないということです。弟子たちはこの命令に従って旅に出ましたが、何も困ることはありませんでした。喜んで帰ってきた弟子たちに、イエス様はこう言われました。
10:18-19「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」
弟子たちが旅で困ることがなかったのは、ずっとイエス様が弟子たちを守っていたからだったということです。
でも、今日の22章に戻ると、イエス様は「しかし今は」と続けています。しかし今は、財布も袋も持って行きなさい。剣も持っていなければ買いなさい。これは、以前はイエス様が弟子たちを守っていたけれども、これからは守ることができなくなるから、必要なものは自分たちで持って行きなさい、という意味にしか考えられません。ということは、9章と10章の時は特別で、やっぱり現実はもっと厳しいから、自分の身は自分で守るしかない、とイエス様は言っているということでしょうか?そうなると、私たちの生き方も変わってしまいます。狼の中で羊になれれば理想的だけれども、現実では、やはり狼の中で狼になるしかないのだということになってしまいます。それでは、9章と10章で教えられていることは単なる理想論で、イエス様がこの世界に弟子たちとともに生きていた、たった数年間だけ可能だったということにもなってしまいます。そうではないはずです。
ではどういうことなのかというと、特別なのはこの22章の方だということです。イエス様が「しかし今は」と言われている「今」というのは、この時から3日間だけに限定された特別な時です。イエス様が逮捕され、十字架に架けられ、復活されるまでの3日間です。それは、歴史上一度きりの、十字架の3日間です。その時、イエス様は旧約聖書の預言通り、「犯罪人の一人に数えられ」、処刑されました。それは、神様が死んでしまった3日間とも言えます。この3日間は、イエス様は神様が自分を助けてくださらないこと、守ってくださらないことを知っていました。そしてそれは、自分が弟子たちを助けられないこと、守れないことを意味しているとも知っていました。神様は沈黙し、イエス様は無力になり、弟子たちはただ逃げて隠れるしかない3日間です。
もう一度イエス様の言葉を読みます。
しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。
イエス様はここで、自分が無力になると宣言しているとも言えます。私はあなたたちを助けられなくなるから、自分たちの身を自分で守りなさいと言われているということです。それは、神様が死なれるという、歴史上一度だけの絶望に直面しなければならなくなる弟子たちを思っての言葉です。剣は、誰かを攻撃するために持つのではなく、この絶望的な3日間の中で自分たちを守るためです。最初に確認した通り、イエス様はここで剣だけを持ちなさいと強調しているわけではありません。剣だけに注目してしまうのは弟子たちの(私たちの)誤解です。でも、決して暴力を使わなかったイエス様が、弟子たちに剣を持ちなさいと言われたことは確かに普通ではありません。それほどこの3日間が暗黒の時だったからだと言えると思います。


3. 十字架:神様が悪魔に負けて死んでしまうという出来事

最後に、この十字架の出来事がどういう出来事なのかを、もう少しだけ付け加えて終わりにしたいと思います。今日これまでお話ししてきた通り、イエス様が捕らえられてから十字架で死なれ、復活するまでの3日間、神様は無力になり、弟子たちは絶望するしかなくなりました。その暗黒の3日間の始まりを意味する、イエス様逮捕の時、イエス様は53節の最後でこう言われています。「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」その時から復活まで、イエス様は何の力もなくなり、天の助けは決して得られず、イエス様は本当にただの人間の犯罪人であるかのように扱われました。それは、悪魔が神様よりも強くなってしまったかのようでした。そして、イエス様が十字架で息を引き取った時、それは本当に神様が死んでしまったことを意味し、悪魔は神様に勝利したことを喜びました。人間の罪は神様さえも殺してしまうという最悪の結果を招いたということです。だから、結局人間を支配するのは神様ではなく悪魔しかいないのだという絶望的な状態です。神様は悪魔に負け、人間の罪によって死んでしまいました。
これで十字架の物語が終わりだったら、私たちには何の希望もありません。でも、神様が悪魔に負けたままでいることはありませんでした。私たちの罪によって殺されたままでいることもありません。イエス様が三日後に復活されたことによって、悪魔の力も、私たちの罪も、神様を死なせることはできないということが証明されました。証明されたというよりも、それが最初から神様の計画しておられたことでした。イエス様の復活によって、神様の敗北は勝利になり、神様の死は永遠の命を約束するものになりました。
今日は、イエス様の逮捕から復活までの暗黒の3日間のことが中心だったので、神様の敗北と死をテーマにお話しました。私たちは復活の希望を知っているあまりに、この絶望の3日間のことを見過ごしてしまいがちです。でも、神様が私たちのためにここまでしてくださったということを、この暗黒の3日間のことを覚えて、もっと深く知ることができたらと願います。


メッセージのポイント

 神様は十字架の出来事の中で全く無力になりました。悪魔が力をふるうことを許し、罪の力によって殺されるまで、神様は自分の力を全く使いませんでした。それは全て神様の計画の通りで、イエス様の復活によって敗北は勝利になり、死も永遠の命に変えられることになりますが、十字架における神様の無力という事実は変わりません。イエス様はそれを知っていて、弟子たちとの別れを目前にした時、とても実際的な指示を出しました。十字架の死から復活までの三日間、つまり、神様が死んでしまった3日間を彼らが生き抜くためです。

話し合いのために

1) 36節の「しかし今は」とは、どのような時のことですか?何が特別なのですか?
2) 十字架で神様が無力になったこととあなたとは、どんな関係がありますか?

子供たちのために

35-37節に集中してみてください。イエス様は、人々に捕らえられて十字架に架けられる時、神様が自分のことを助けてくれない(助けられない)と知っていました。それが神様の最初からの計画で、イエス様はそのために生まれてきたからです。それまでは病気を治したり悪霊を追い出したり、いろいろな奇跡を行ってきましたが、十字架の出来事(十字架から復活までの3日間)では、イエス様を苦しみから救う神様の力は働きませんでした。神様はあえてその時だけは無力になり、悪魔の力(人間の罪)に負けてしまいました。イエス様は、その間はこれまでのように弟子たちを守ることもできなくなると知っていて、自分の身を自分で守るように、特別な命令を最後にしました。