2017/4/2 親密さと開放性

永原アンディ


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親密さと開放性


 先週、池田牧師がカヴェナントについて話してくれました。先週来られなかった方は、2017年のカヴェナントにサインする前に是非先週のメッセージをウエッブサイトで見るか、聞くか、読むかして決めてください。今日は私たちの大切にしている、ユアチャーチに無くてはならない二つの特徴についてお話ししたいと思います。このことはメンバーにはいつも心に留めておいていただきたいことなので、先週のカヴェナントメッセージの続きとして聞いてください。お話しする二つのことは両方同時に保つことが難しいことなのです。けれどもメンバーがカヴェナントに忠実に歩むなら保つことができます。始めにそれぞれの大切さをお話ししてから、どうしたら両方を保ち続けることが出来るかを考えてゆきます。


a. 教会に必要な開放性 (ルカ 5:30-32, 1 コリント 9:19-23)

ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 (ルカ 5:30-32)

 イエスは当時の常識的な宗教者からすると、許せないほどぶっ飛んでいました。信仰的な人なら付き合ってはいけないと考えられていた人たちと平気で飲んだり食べたりしていました。食いしん坊で大酒飲み(glutton and a drunkard)と言われるほど、怪しげな人々とよく付き合っていたのです。教会について多くの人が持っている印象は、清く正しい人の集まり、真面目な人の行くところ、堅苦しいところ、気軽に入ってゆけないところ、神様に頼らないと生きてゆけない弱い人の集まり、といろいろですが、要は自分には関係のないところだと思われているようです。ほとんど誤解ですが正解が一つだけあります。どれでしょう?「神様に頼らないと生きてゆけない弱い人の集まり」です。でも本当は神様なしで生きられる人はいません。知らないか、そう思い込んでいるに過ぎないのです。イエスはそれまで見向きもされなかったような人々を招くために世にこられたのです。神様は全ての人を招きたいと思っているのに、宗教家たちが拒み続けていたからです。ところがそのイエスの体である教会も宗教家たちのようになる傾向を持っています。人には自分と同じような人々といることを心地よく思う性質があるからです。
イエスを知らない人なら誰にでもイエスを伝えたいと私たちは思っていますが、その気持ちとは反対に人々が近づきにくい姿になりやすいのです。日本語には「敷居が高い」という表現があります。色々な理由で入りにくいという意味の言葉です。教会とは建物でも集会でもなく私たちのことです、ですから、必要なのは建物の構造を変えることでも、魅力的なプログラムをすることでもありません。必要なのは、自分たちの態度を変えることなのです。イエスは神様なのに、人間となり、人々から相手にされないような人々と食べたり飲んだりしました。パウロはイエスのように振る舞うことを次のような言葉で勧めています。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 (1 コリント 9:19-23)

若者がこないと悩んでいる教会がたくさんあります。パウロによるならば、教会が若者のようになればいいのです。しかしそれには犠牲を伴います。例えば聖書は数十年ごとに新しい訳が出ます。新しい聖書学の成果とその時代にわかりやすい言葉に置き換えるためです。前の訳に親しんできた人にとっては、居心地の悪いものなので前のものを使い続けたいのです。個人的にならいいのですが、教会で読む聖書も古いままがいいと考えがちです。音楽も同じです。新しいワインが必要なら新しい皮袋を用意しなければなりません。

 


b. 教会に必要な親密さ (マタイ 18:18-20, ヨハネ 13:34,35, エフェソ 4:16)

もう一つ教会に必要なのは親密な人間関係です。イエスはこう言われました。

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

教会には神様の権威が与えられていることがわかります。それも、一人の代表者にではなく、人々に与えられているのです。イエスの名によって集う人々、つまり教会に与えられていることです。バラバラではいけないのです。では、どのような関係を勧められているのでしょうか?イエスはこう言われました。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

答えは互いに愛し合う存在となるということです。親密な関係を築くためにも、教会をオープンなものにするのと同様に自己犠牲を必要とします。これについてのパウロの説明はこうです。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

「ミニチャーチに参加して下さい」と勧める理由はここにあります。急に互いに愛し合うことなんてできません。互いに親しくなることから始めなければならないのです。毎週か月2回、どこでも都合のいい場所で、ぜひ誰かと繋がってください。


c. 親密さと開放性を両立する難しさ (ルカ10:38-42)

教会が保っていなければならない二つのことを紹介しました。しかし教会はどちらかを失いがちです。両方を保つ難しさは、先週聞いたマリアとマルタのエピソードの中のマリア、マルタ両方のあり方を同時に成り立たせなければならないところにあります。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 教会ではどちらかといえば親密さの方に重点が置かれ、開放性が失われ始めるという傾向を持っています。互いのことばかりで、新しく家族に加わる人たちのことを考えなくなってしまいます。そうするとせっかく興味を持って、高く感じられる敷居をなんとか乗り越えて入ってみると、そこにいる人々の態度は「私たちはすごく特殊な人間だけど、私たちと同じようにするなら、このサークルに入れてあげるよ」と言われているように感じさせてしまうのです。私たちが100%マリアさんだったら、初めてきた人が勇気を出してドアを開けても、良くて誰も振り向かないか、下手をすると「なんで今頃入ってきて大切な時間を邪魔するの?」風な視線を浴びせることになってしまいます。そこで反省した教会は、この反動で100%マルタさんを目指してしまいます。教会のミッションはなんとか人を連れてきて仲間に入れること。楽しいイヴェントをたくさんして、礼拝も様々な要素、できるだけCOOLで現代的なオーディオ、ビジュアル、アート、ミュージックを取り入れて、ビジターをもてなし、リピーターになってもらおうと努力します。しかしそこには残念ながら互いの親密さの点での成長は望めません。マルタ的ミッションは忙しすぎて、互いを知り合うどころか、イエスのそばで静かに聞くことさえなくなってしまう恐れがあります。


d. 結論:どのように親密さと開放性を両立するか? (使徒言行録 2:43-47)

どうしたら親密さと開放性の両方を持つことができるのでしょうか?使徒言行録の時代の教会はそれができていたようです。

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 彼らは特別なイヴェントによって人々を招いたのではありませんでした。ただひたすら礼拝すること、聖霊の働きを集まりの中で見ること、互いを愛し合うこと、与え合い、分け合うことをしていたら、人々からは好意を持たれ、日々仲間に加わるものが加えられたのです。私たちが敷居を低くするというのは、イエスのように人々のところに自分で出て行くということです。ここが教会ではないのです。あなたがユアチャーチなのだから、ウイークデーの間、あなたがいるところにユアチャーチはあるのです。あなたがそう考えるだけでユアチャーチの敷居は相当低くなっているのです。教会に連れてこようとしなくてもあなたとあっているということは、ユアチャーチを体験していることなのです。もちろんユアチャーチには誰の友達でなくても、日曜日の礼拝に突然訪ねてくれる人たちが多くいますから、その人たちが場違いな思いをしないで済むように配慮することは大切です。しかし私たちがこの礼拝で大切にしているのは、ビジターにとっての開放性でも、メンバーの間の親密さもありません。ビジターにとってもメンバーにとっても神様と会って、神様と親しく語り合う時とすることです。互いの親密さを高めることも、教会の敷居を低くすることも、日曜日の午後から土曜日の夜までの間に私たちがすることなのです。
最後のもう一度私たちの名前を心にとめましょう。カヴェナントメンバーとは「私はユアチャーチです」と言える者です。それは、私たちの主であり最高の友でもあるイエスを知らない人に対してオープンであることを意味します。また、ここで共に家族である人々に「私はあなたのために存在しています」と言えるような親密さを持つことを意味しているのです。そしてそれを可能にするための出発点はたった一つしかありません。それは、私たちすべてにとって根本的であり究極的なYOU = イエスに対して「私たちはあなたのものです」ということを態度で表すことです。つまり真心からの礼拝を捧げ続けることです。


メッセージのポイント

ユアチャーチが神様の働きをするためには親密であることとオープンであることの両方が欠かせないのですが、どちらかに偏ってしまいやすいものです。聖書に記されたイエスの言葉が、親密さとオープンであることを両立させてくれます


話し合いのために

1)極端な親密さ(開放性)によって教会はどうなりますか?
2)どうしたら親密さと開放性は両立できますか?


子供たちのために

ユアチャーチのユアについて考えさせてください。教会は誰のものでしょう?