理想と現実のギャップ?

池田真理

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理想と現実のギャップ?(ガラテヤ 3:26-4:11)

 

A. 神様の望まれる理想? (3:26-28)

26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

 イエス様を信じるなら私たちは神の子であり、そこにはどんな民族の壁も身分の差も性別もないと言われています。実はこのフレーズは聖書に何回か登場します。おそらく、当時の教会で歌や詩のように読まれていたフレーズです。

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(1コリント12:12-13)

そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。(コロサイ3:11)

 少しずつ違いはありますが、とても似ています。キリストの体は一つ、キリストの霊は一つ、私たちはそれに連なる大きな神様の家族の一員であるという宣言です。ガラテヤの人たちもコリントの人たちもコロサイの人たちも、このフレーズを聞けば、洗礼を受けた時のことをすぐに思い出せたのかもしれません。私たちが「これは私の体である」と聞くと、すぐに聖餐式を思い出せるようにです。私たちはイエス・キリストを信じ、神様の愛を知りました。そして、神様の家族となりました。私たちはイエス様が愛してくださったように互いに愛し合い、あらゆる差別を捨てました。そのはずです。でも、このフレーズが繰り返し言われているということは、実際は差別があったからです。ガラテヤでもコリントでもコロサイでもです。そして、現代でも実現されたとは到底言えません。人種差別、貧富の差、性差別、全て、今まさに毎日私たちが耳にする問題です。教会が例外かと言えば、とてもそうとは言えません。むしろ、性差別に関して言えば、LGBTQに対する差別という意味で、教会が先頭に立っています。
それでは、パウロが繰り返し使っているこのフレーズは、決して実現することのない、虚しい理想に過ぎないのでしょうか?そうではありません。続きを読んでいきましょう。


B. 神様の理想が現実となった (3:29-4:7)

29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

1. イエス・キリストがこの世界に来られたという現実

 4-5節だけもう一度読みます。

4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。

神様が2000年前にイエス様として、人間となってこの世界に来られたこと。マリアという女性から生まれ、ユダヤ人の家系に生まれたこと。それは歴史的事実です。4節に「時が満ちると」という言い方がされているように、それは神様が決めた時であり、神様の起こした出来事でした。イエス様は、私たちの罪を赦すためにこの世界に来てくださいました。私たちのために苦しんで死なれることが、イエス様の目的でした。私たちが神様を知らず、神様から離れていても、イエス様が私たちのために死なれたという事実は変わりません。私たちが私たちのこの世界を、自分の現実を考える時、この事実をまず思い出しましょう。イエス様がこの世界に来られ、私たちのために死なれたという事実、それが神様の実現された現実です。私たちの世界は、イエス様が死ななければならなかったほど罪深いと同時に、それほど神様にとって大切な存在だということです。
ではイエス様によって、私たち一人ひとりはどう変えられたのかというと、私たちは神様の子とされたのです。

2. 私たちは神の子であるという現実

3節には「私たちも未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」とあります。これは、時間的に、イエス様が来られる前の時代のことでもありますし、私たち一人ひとりのイエス様に出会う前のことでもあります。私たちはイエス様に出会う前は、神様以外の何かを信じて生きてきました。それはここで「世を支配する諸霊の奴隷だった」と言われているように、実は私たちは奴隷だったということです。聖書は、この世界には様々な霊的な力が働いているということを教えています。そして、神様の霊、つまり聖霊様以外は全て、悪魔からの力です。私たちは自分が悪魔の奴隷になっていたという自覚はありませんでしたが、それが真実です。私たちは神様を信じて生きるか、悪魔を信じて生きるか、どちらか一方しかありません。どちらも信じないでいることはできません。神様を信じないということは、悪魔の喜ぶことだからです。自覚的に悪魔を崇拝していなくても、神様を拒むなら、悪魔を喜ばせているということです。私たちは誰も、神様なしには生きられません。この世界を作り、私たちを作られた方を知らずに、自分は何のために生きるのか、どうして分かるでしょうか。生きることが辛くなった時に、あるいは大切な人が死に直面する時に、最後の瞬間まで生きる希望を与えるのは神様以外にありません。私たちが絶望するなら、悪魔を喜ばせるだけです。生きることが虚しいと感じる私たちを、悪魔は喜ぶでしょう。私たちは、イエス様が私たちのために死なれたと知るまでは、そういう悪魔の思惑にすっかりはまっていました。
でも、イエス様によって、悪魔の力はもう私たちを支配できません。私たちは悪魔の奴隷ではなく、神様の子供とされました。6節でこう言われています。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」私は今回このメッセージを準備していて初めて気がついたのですが、神様を「父よ」と呼ぶ例は、旧約聖書にはありません。旧約聖書の神様への呼びかけはいつも「神よ」か「主よ」です。「私たちの父である神よ」という呼びかけもありません。それは新約聖書に入って初めて出てきます。イエス様がそうしなさいと言ったからです。なぜなら、イエス様が神様の子であるように、私たちも神様の子とされたからです。だから私たちは主の祈りで「天におられる私たちの父よ」と祈ります。また、前にもお話ししましたが、「アッバ」という言葉は、アラム語で父親を呼ぶ子供の言葉だそうです。「お父さん(お父ちゃん)」「パパ」でもいいのかもしれません。それまで「神よ」と「主よ」としか呼びかけられなかった神様を、そんなふうに「お父さん」と呼ぶことは大きな変化です。それは神様をそんな親しみを込めて呼んでもいいのだという信頼がなければできません。そうしていいと教えてくれたのが、イエス様の十字架と復活です。私たちは、イエス様を通して神様の愛を知り、自分は神様に愛されている子供であるということを知りました。大人であっても、神様の前では一人の子供です。私たちはもう悪魔の奴隷ではなく、死を恐れて虚しく生きる必要はありません。この世界を造られた大いなる神様に愛されている子供として、安心して誇りを持って生きることができます。それが、神様が実現してくださった私たちの真実の姿です。

それでは、最初の問いに戻りますが、この世界の現実が神様の望まれる世界とは程遠いという事実をどう考えればいいのでしょうか?8-11節を読みます。


C. 実現された理想を信じよう(8-11, ローマ8:14-17)

8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。

  私たちは、神様の子とされているにもかかわらず、自らまた元の悪魔の奴隷に戻る性質を持っています。悪魔の奴隷でいる方が魅力的に思えてしまう性質です。それは、このガラテヤ書でずっと取り上げられているガラテヤの人たちの問題でもありました。律法を守る生活の方が、律法のない自由な生活よりも魅力的に思えたという問題です。律法というルールに従って生きることはとても分かりやすく、自分たちはうまくやっているのかどうか、お互いを評価しやすくなります。また、ユダヤ人という社会的に認知されたグループに加わって生きることは、キリスト者というマイノリティーとして生きるよりも安心な感じがしました。私たちも同じです。しなければいけないことをただ守って生きる方が、何をするべきか自分で選ぶよりも簡単だし、マイノリティーでいることには不安を感じます。そして、いつの間にか神様よりも大切なものができています。神様よりも大切なものがあるということは、それが自分の神様になっているということで、それは悪魔を喜ばせるだけです。それが「無力に頼りにならないもの」だとは分かりません。その結果、最初にお話ししたように、この世界の現実は神様の望まれる姿から程遠いものになっています。私たちの罪の結果です。
では、どうすれば良いのかというと、それは振り出しに戻るようですが、ただ神様の霊の導きに従うことです。私たちが神様の子供とされたのは、イエス様の霊を受けたからでした。私たちは、いつもこの神様の霊、聖霊様に満たされる必要があります。パウロは別のところでこのようにも言っています。ローマ8:14-17です。

14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

私たちは、世界で起こっている様々な不正義に怒りを感じ、自分の身にふりかかる突然の不幸に慌てます。でも、聖霊様によって導かれるなら、それでも私たちは神様に助けを求め、希望を失うことはありません。私たちは聖霊様によって、神様を「お父さん」と呼び、神様がこの世界を愛し、私を愛しておられるという真実を忘れることはありません。聖霊様は、神様の国が確かに私たちの間で実現しつつあるということを必ず教えてくれます。
ただし、それは聖霊様に満たされているなら、理想と現実のギャップに苦しむことはないというわけではありません。苦しんでいる間は聖霊様がいなくなってしまっているというわけではありません。今読んだローマの最後の言葉には、私たちがキリストと共に苦しむということが言われています。私たちは神様の子供として、神様の国がこの世界に実現されることを求めて生きていますが、時にその完成はあまりに遠く、不可能であるかのように思ってしまう時があります。神様の国はすでに来ているけれど、まだ完成していないというギャップがあるからです。その苦しみは生みの苦しみであり、間違っていません。私たちはただ、目の前の状況や自分自身の状態に左右されるのではなく、聖霊様を求める点においてだけ、全力を注ぎましょう。神様の真実を信じるということは、苦しみをともなう戦いです。私たちが目の前の現実に神様の真実をもっとよく見ることができるように、聖霊様を求めましょう。


メッセージのポイント

イエス様によって神様の理想(=神の国)はすでにこの世界に実現しました。そして、私たちはイエス様を信じることによって、すでに神様の子供にされました。でも、それはまだ不完全で、私たちは日々、神様の理想とはかけ離れた現実に苦しんでいます。でも、どちらが本当の「現実」なのでしょうか?私たちは、神様がすでに実現された理想という現実を信じましょう。

話し合いのために

1) 理想と現実のギャップだと感じることは何ですか?
2) 神様が実現した理想とは具体的にあなたにとってどういうものですか?

子供たちのために

みんなが「神様の子」だということについて、考えてみてください。私たちは誰も、神様の子供とされるほど優秀ではありません。大人も子供も同じです。誰でも間違えることもあるし、傷つけあうこともあります。それでも、そんな私たちをイエス様は許してくださったので、私たちは安心して、自分はそれでも神様に愛されていて、大切にされている子供なのだと信じることができます。聖書読むとしたら26節だけでいいと思います。