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January 2nd, 2011 Vol.18 No.1
大胆に恵みの座に近づこう ヘブライ人への手紙4:14-5:10

A. 大胆に恵みの座に近づこう

1) 真の大祭司イエス様 (14,15)

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(14,15)

 
私たちが信頼し従っているイエス様は、最高の祭司であるという表現がされています。ユダヤ教の大祭司は祭司の中でも一人だけの最高位で、年に一度だけ神の箱の置かれた至聖所に入ることを許されていました。イエス様は人の手によって造られた象徴的な至聖所ではなく、本当に神様のおられる究極の王座におられます。神様はイエス・キリストとしてこの王座から一時的に離れ、私たちのところに来て下さり、私たちが背を向けたのに、もう一度神様の子供たちとするために、ご自身を犠牲として献げられました。私たちにはそのような大祭司となってくださった神様、イエス・キリストが与えられているのです。私たちはこのことを公に言い表し、バプテスマを受けてクリスチャンになりました。しかし、この信仰は自分で保つ努力がいるのです。神様は私たちを、自動的に神様の意思に従う動物や植物のようにではなく、自分の意志を働かせて従う者として、創造された万物の中で唯一、その似姿として創られました。ところが私たちは、神様の意思に従うことのできない、自分の意志の弱さをよく知っています。自分で信仰を保つことができるのかと自分を疑います。しかし、弱い自分の意志で保つことができるのです。なぜならイエス様がいてくださるからです。イエス様は、私たちの弱さ、みにくさを裁くのではなく、同情してくださる方です。ここでは、同情とは、誰かの苦しみの中に自分も入ってきて、それを自分のものにするという意味の新約聖書ではここにしか使われていない特別な言葉です。そのような方につながることのできたことを喜び、信仰を固く保ちましょう。そのために大切な事が次の16節に書かれています。

 
2) 時にかなった助けをいただくために(16)

だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(16)

神様の豊かな恵みと憐れみ、時にかなった助けを頂くために私たちがすべきことはたった一つです。それは恵みの座に大胆に近づくことです。恵みの座とはどこにあるのでしょうか?それは元来、神様の席ということですが、イエス様が大祭司として歩みその座に着かれたので、恵の座は今や私達にとって入ることのできない場所ではなく、進み出ることの出来る場所、礼拝の場です。今年は、今まで以上に大胆に恵みや助けを確信して恵みの座、礼拝の場で、感情を現し、知性を働かせて、思いを尽くし、霊を注ぎ出すように力の限りに礼拝しましょう。それが恵みの座に大胆に近づくということです。

 
B. 大祭司とは?

1) 大祭司の役割

大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。(5:1-5)

大祭司は任命されてその職に就きます。神様に選ばれなければなることはできません。その大きな役割は、人々のために供え物、いけにえを献げることです。歴史を遡ればアロンに至る歴代の大祭司は、毎年犠牲を献げなければなりませんでしたが、イエス様はただ一度だけ、十字架でご自身を完全ないけにえとして献げてくださいました。私たちの赦しはそれで十分なのです。昨日一月一日は日本人が一番宗教的になる日です。おそらく数千万人が毎年のようにどこかの神社に初詣に行きます。そして木や石でできた偶像に一年間の繁栄をお願いするのです。お金も必要です。それだけでは心配な人はお守りも買わなければ心が落ち着きません。ドライブスルーで車のお浄めをしてくれるところもあります。そして、一年間何もなければ神様のことは忘れていられるわけです。皆さんをそのような迷いの中から救い出すためにイエス様は来て下さいました。心配事や、問題に応じてあっちにいったり、こっちにいったりする必要はもうないのです。人間にとって必要なことは、恵みの座に大胆に近づくということだけなのです。

 
2) イエス様とメルキゼデクの共通点

また、神は他の個所で、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。(6-10)

ユダヤでは、メシアという言葉に宗教的なリーダー、政治的なリーダーの二重の意味がありました。イエス様がその再来と考えられたダビデは政治的なリーダーであり、宗教的なリーダーでもありましたが、アロンに連なる祭司の家系ではありません。大祭司がすべてこのアロンに連なる家系のものであるなら、ユダヤ人にとっては、イエス様が大祭司だという表現には説得力はなかったのです。けれども旧約聖書には、アロンよりずっと前にメルキゼデクという祭司、王がいてアブラハムが全ての十分の一を捧げたことが記されています(創世記14:17-20)。真のメシアは大祭司中の大祭司であると同時に、王の王なのです。そのような意味でメルキゼデクはイエス様を理解するのに最適な人物なのです。聖書はメルキゼデクについてそれ以上詳しくは記録していませんが、イエス様がどのようなお方だったのかは福音書に明らかです。神様でありながら、多くの苦しみを受け、それでも従順に歩まれ、父の神に祈り、叫び、私たちに地上での歩み方を教えてくださいました。だからイエス様は、私たちに同情でき、私たちを思いやり、なおかつ完全な者として、私たちのための完全な犠牲となってくださったのです。

 
<メッセージのポイント>
大祭司はすべての人の代表として神様の前に立って罪のための供え物やいけにえを献げる者として立てられたイスラエルの祭司の最高位です。イエス様が来られるまでその役割を完全に果たせる者はいませんでした。彼ら自身も完全ではなかったからです。けれどもイエス様は、私たちの弱さを経験しながら全く罪を犯さなかった者として、唯一の、完全な犠牲をささげた完全な大祭司とされました。私が道、真理、命と証されたイエス様だけが、神様の恵みの座に至る道です。この道をたどるということは、イエス様にもっと近づいて歩むということです。今年はもっと大胆に恵みの座に近づく歩みをしてゆきましょう。

<話し合いのためのヒント>
1) 大祭司はどのような働きを担っていましたか?
2) メルキゼデクとはどのような人ですか?