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August 7th, 2011 Vol.18 No.32
鍛えられて強くなろう ヘブライ人への手紙 23 (12:1-13)

A 罪に対する厳しい戦い (1-4)


1) イエス様を見つめて、自分に定められている競走を走りぬく (1,2)

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。(1,2)


先週、旧約聖書の中に記されている、信仰を持って人生を歩み通した人々のことをお話ししました。これらの人々は、私達を取り囲む大勢の証人の群れだと筆者は言うのです。自分の歩みについて確信が持てなくなるとき、心強いのは、その歩みが間違っていないことを証言してくれる人々がいることです。手紙の読み手たちは、その社会にあってまだ少数派でした。今の日本の教会と同じです。少数派が信念を貫くことは容易ではありません。この社会の中で、私たちの歩みに確信を与えてくれる証人は少ないかもしれません。しかし私たちの証人は、同じ社会に生きている人だけではありません。聖書の中の信仰者、歴史の中の信仰者、同時代の他の国々にいる信仰者が私たちの歩みの確かさを証言してくれているのです。 ここではその歩みが、過酷なマラソンのようなレースに例えられています。このレースを困難にするのが「全ての重荷」であり「絡みつく罪」です。「すべての重荷」と抽象的に言った後で、具体的に「罪」をあげているのは、それが様々な重荷の中でも、はっきりと意識して遠ざけなければならないものだからです。「絡みつく」という言葉と「かなぐり捨てる」という言葉が罪の、しつこくまとわりついてくる性質とそこから自由になることの困難さをよく表しています。だから、荒々しく投げ捨てるようにしなければならないのです。一回追い払えば良いようなものではありません。かなぐり捨てると訳された言葉の元の直訳は「完全に、はっきりと、死ぬ。死に別れる」です。私達の罪、神様に背いた自己中心的な生き方を捨てなければ走り通すことはできないし、罪を捨てる事は、死ぬ気になるどころか本当に死ななければ不可能だということです。ほとんど勝つ見込みのないレースです。にもかかわらず、忍耐して走り続けなさいと筆者が勧めるのは、多くの既に走り終えた証人や共に走る仲間の応援があるからだけでなく、私達の信仰の土台でありゴールでもあるイエス・キリストが十字架にかかって死なれた後に、天の玉座の右にお座りになっているからです。この方が、ご自身の死の苦しみを持って、私達を罪から引き離してくださる約束をされているので、私たちは依然として絡みついてくる罪を振り払いながら走り続けることができます。苦しくても走り続けることの秘訣はただイエス様から目を離さないことです。
 

2) 弱いままでは気力を失い疲れ果ててしまう (3,4)

あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。(3,4)


それでも気力を失い疲れ果ててしまいそうになったとき、筆者は、そうなってしまわないようにイエス様のことを考えなさいと勧めます。正しい行為、言葉が通じない、実を結ばないと諦めてしまう前に、イエス様でさえ、罪のひとかけらもない愛に満ちた言葉、行動、彼の人生のすべてが、死刑に値する犯罪であると世に裁かれ、血を流し殺されたことを考えましょう。人間から見た十字架は最悪の犯罪者を死刑にする道具です。けれども、神様から見た十字架は、正反対に私たちを死から勝利の導く神の国の入口です。今私たちの回りには実際に「罪と戦って血を流すまでに抵抗する」というような現実は起きていません。しかしこの国でもかつて起こり、他の国では今も起きていることです。また、私たちの罪との戦いは、私たちの内面的な戦いとしては日々、現実に起きています。イエス様が共におられて、共に戦っていてくださることを覚えて進んでゆきましょう。
 

B 神様は私達を鍛えて強くする (5-10)

1) 神の子とされているからこそ (5-8)

また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。(5-8)


困難にはもうひとつの面があります。それは、強くなるための神様からのトレーニングという側面です。神様は、ただトレーニングとして、鍛える以外には意味のない苦しみを思いつきで与えるわけではありません。それぞれの人生を歩んでゆく力を蓄えることが出来るように、必要な訓練を実生活の中で、つまり実際の働きの中での困難として与えてくださるのです。神様は決して私達が耐えることのできない試練を与える方ではないということが1コリント 10:13に記されています。同じことが起こっても、ある人は神様にいじめられていると感じ、ある人は鍛えられていると受け取ります。この違いは重要です。前者は成長できません。心には平安がなく、密かに神様を呪っています。成長できないどころか、いつの間には再び神様のことは考えない人生に逆戻りです。後は虚しさを様々な人工的な快楽でごまかしながら生きてゆくしかありません。後者は、一つずつ試練を乗り越えながら着実に成長し強くなってゆきます。感謝と平安もその強さに比例して大きくなります。自信(本当は神信なのですが!)も大きくなって行き、その余裕はあなたを、愛することにおいてもっとイエス様に近い者としてくれます。
 

2) 肉の父に優って (9,10)

更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。(9,10)


ここには肉の父親との類比で、神様がどのような目的で私達を鍛えられるのかが教えられています。その違いは、鍛える目的の違いです。肉の父親は自分の思うままに鍛えるけれど、神様は「私たちの益となるように、御自身の神聖にあずからせるために」鍛えてくださいます。人間の父親には限界があり、ベストを尽くすにしても十分には与えられなかったり、間違って接してしまったりすることもあるのです。また子供が大人になる前に父親としての責任を果たせなくなってしまうことも起こるのです。それは子供にとって大きなハンディーキャップではあるかもしれませんが、私たちには天の父がおられます。それは母親にもいえることです。聖書は伝統的に神様を父と表現していますが、神様は男性ではありません。男も女も神に似せられて造られたものです。いわば、神様は完全な父であると共に完全な母です。あなたが母であれ、父であれ、配偶者を失ったとしても、神様は子供を育てるのに必要なことは全て与えてくださいます。また、神様に従うなら、私たちは肉の父、母がいなくても良い父、母になることができます。私たちは自分のこどもに対する神様の計画の全容がわかりませんから、子育てをする中で、失敗や回り道もするものです。しかし子供の主は 私たちではなくイエス様ですから、私たちには申命記で最近学んだように、私達が勧められていると同様に、イエス様を見つめ続けることの大切さを、自分の態度と言葉で教え続けること期待されています。
 

C つらい鍛錬によって獲得する強さ (11-13)

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。(11-13)


筋肉は鍛えなければつきません。心を強くすることも同じです、辛かったり、退屈だったり、悲しかったり感じられる鍛錬を通して、私たちの心は強くされます。敵は誘惑する者ですか、悪魔ですか?いいえ、これは自分自身との戦いです。悪魔に付け入れる隙を作らないように自分自身と戦うのです。完走するのに必要なのは才能や努力ではなく忍耐です。苦しみがあることは分かっているのです。だからこそ、神様は沢山の証人たちというサポーターを備え、信仰の仲間たちというティームを与え、信仰のスタートラインから送り出して下さり、ゴールを備え、今、あなたと伴走していてくださる聖霊様を送ってくださっているのです。
 

メッセージのポイント

人生とは罪との果てしない戦いであるともいえます。誰もこの戦いを勝ち抜く強さをもってはいません。神様は、人生という戦いに勝利する方法をすべての人に伝えたいと願っておられます。クリスチャンは、イエス・キリストを主と信じ、従う事によって、多くの人々よりも先に勝利を確信した者です。しかし罪はクリスチャンにも戦いを挑み続けます。クリスチャンであるあなたの戦いに勇気を得て、人々もまた勝利の道を歩み始めます。彼らのお手本となるのがあなたの役割です。そのためにあなたがもっと強くなれるよう、神様はあなたを鍛錬されます。鍛錬には苦しみが伴いますが、鍛え上げられた人は、豊かな実を結びます。

話し合いのヒント

1) クリスチャンはどのような戦いを戦っているといえるでしょう?
2) なぜ神様は私達を鍛錬なさるのですか?