<MP3 音声>
<ビデオ>
August 14th, 2011 Vol.18 No.33
聖なる生活? ヘブライ人への手紙 23 (12:14-29)
1) 気をつけるべき堕落 (14-17,創世記25-28章)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。(14) 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。(15) また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。(16) あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。(17)
イエス様が、自分たちの生きる時代に再び来られると、多くの人が思っていた時代です。それだから、平和に、そしてもっと聖く生きることを「追い求めなさい」、そうでなければやがて来られるイエス様を見ることはできませんよ。イエス様にあなたのことは知らないと言われてしまいますよ、と警告されています。そんなに終りの日が切迫していると感じられていた社会だったのにもかかわらず、堕落してゆく者がいたのですから、イエスさまが再び来られるという切迫感をあまり持たない、現代の教会ではイエス様に背を向けて去ってゆく者がもっと多くいることは不思議なことではありません。私たちの心には、私たちを神様から引き離す、苦い根と表現されている思いが簡単に発生します。それは美しい芝生にはびこる雑草のように、初めは小さく目立たないのですが、ほっておけば芝を覆い尽くし、やがて消滅させてしまいます。勝利するのは、毎日コツコツと諦めずに草取りをする人、忍耐を持って平和と聖さを追い求め続けている人が、いつか主の前に立ち、よくやったと言われるのです。「十分に平和を保ち、清く生きた人」でいなさいとは書かれていません。追い求めなさいと書かれています。どこにいるかではなく、どこに向かっているかが重要なのです。もっと平和に、もっと聖く、と祈り求めて進んでゆくのです。ところで「清さ」cleanと「聖さ」Holyは違います。私たちはどんなに努力してもcleanではありません。しかしイエス様と共に歩むことでHolyとされているのです。筆者はその違いをエサウとヤコブの例を引いて教えてくれます。イサクとリベカの間に生まれた兄弟、エサウとヤコブは対照的な兄弟でした。アウトドア派ではなく草食系男子で、母リベカに可愛がられた弟ヤコブは、狡賢く嫌な性格のように見えます。クリーンではありません。しかし「神様にもっと近づきたいという思い」という点で見るならば、一見アウトドア派、肉食系で、父イサクのお気に入りの長男エサウは完全に失格でした。創世記25章27-34節を読んでみましょう。エサウは神様の与えた秩序より、自分の欲望を優先する人だったのです。神様から与えられた祝福である長子の権利を、空腹を理由に軽んじ、弟に譲ってしまいました。クリーンではなかったけれどホーリーを求めたヤコブがアブラハム、イサクの後継者とされました。私たちはすべての人と平和を保つことは困難ですし清くもありませんが、平和を求め続ける歩み、神様のきよさを求め続ける歩みを続けることはできます。そのように歩むことを神様は求めておられるのです。
2) 知るべき置かれている事態の深刻さ (18-25, 出エジプト19章)
あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。(18-19) 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。(20) また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。(21) しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、(22) 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、(23) 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。(24) あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。(25)
モーセの時代の人々の目には、神様は恐るべき存在と写っていました。人との仲介者として「地上で神のみ旨を告げる人」として立てられたモーセでさえ、神様は、ちょっとした間違いでも自分を滅ぼしかねない怖い存在と思えたのです。しかし新約聖書以降の私達にとって、神様は恐ろしいだけの存在ではありません。主イエスキリストとして来て下さり、その本質が「愛」であることをはっきり示してくださったからです。あれほど超越していて、絶望的に近づきがたいと思われていた神様が人として、しかも全ての人の犠牲となるために来てくださったのです。イエス・キリストの十字架は、私達が大胆に神様に近づくことができるようにしてくれました。それではこのイエスさまが、平和を保つこと、聖い生活を送ることについてどう勧めておられるか、マタイによる福音書5章43-48節で確かめておきましょう。 ここでわかることは、私たちはイエス様に何の恐れもなく近づくことができるけれども、それはイエス様が、平和について、聖さについて基準を下げてくださったからではありません。この点については全く、イエス様は妥協しておられません。命じておられるのは全ての人との平和であり、聖さの基準は天の父の完全です。 テロリストの思想としてイスラム原理主義が知られていますが、原理主義はもともとキリスト教社会の中にあったものです。キリスト教国も戦争を聖戦と考えるのです。先日アメリカ空軍の訓練基地で核ミサイルの発射をする将校向けに、アメリカの行う戦争は聖戦なのだからためらわずにボタンを押せるようにと、多くの聖句を用いて聖書が戦争を肯定していると20年間教え続けてきたことが発覚して中止したそうです。アメリカの良いところは、軍の中でさえこのような良心的な内部告発が可能だということです。残念なのは、自分たちが最も聖書の権威に忠実だと誇る人々ほど、聖戦という感覚が根強く、戦争好きの指導者を支持する傾向があることです。 イエス様は、どうお考えなのでしょうか?マタイ26:52では剣を取るものは皆、剣で滅びると言われました。先ほど読んだ5章の直前の個所は「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」という有名な言葉です。いまの私にはできない、それでもいいのです。けれどもイエス様が求める完全な平和のレベルはそれほどのものなのだということです。今できない、自信がないことをイエス様は責められません。しかし、自分を正当化するために、イエス様の考えを曲げて伝え、自分こそイエス様に近いと言い続けるなら、その人こそ罰を免れないということです。
3) 守るべき聖なる生活 (26-29)
あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(26) この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。(27) このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。(28) 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。(29)
3月の大震災以来、余震が続きます。地震の揺れは私達を大変不安にさせます。しっかりしていなければ立っていられない足元がグラグラするのですから、たまったものではありません。この地上には、揺り動かされないものは何一つ、ありません。精神的な土台も同じです。たったひとつの場所を除いて揺り動かされないものは一つもないのです。それがここで御国と紹介されている神の国です。国というと土地を思い浮かべますが。領土があるかどうかが問題なのではありません。神様の支配のもとにあるということが、神の国に属しているということになります。地面は揺れても、私たちは揺り動かされることのない土台の上に立っているのです。だから、揺り動かされているように思えてもそれは、目にみえることに影響されて、揺れているように感じられる錯覚です。騙されてはいけません。 神様はひとり子を与えてくださるほどに愛してくださる方ですが、同時に焼き尽くす火のように不正義を憎まれます。そこで神様は私達に愛すること、正しいことを行うことを求められているのです。自分の力ではできないことです。だから神様と共に歩むのです。平和を求めることと、神と共に過ごす聖い生活とは切り離すことのできない一つのことです。聖さのない平和も、平和のない聖さもありえません。 だから、わたしたちの歩みは、ただ感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えてゆくということです。
メッセージのポイント
聖なる生活とは、道徳的な生活ではありません。それは感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕える生活です。エサウのように神様の祝福を軽んじるなら、祝福を受け継ぐことはできません。私たちは神様が正義については全く妥協されない方であることを知っています。しかし罪深い私達にとっても、もはや神様は「燃え尽くす火」であるだけではありません。イエスキリストの流された血は、神様が「燃え尽くす火」であると同時に、「愛」であることを教えてくれているのです。神様は私達にも、徹底的に愛すること、徹底的に正しいことを行うことを求められているのです。それは私達の能力では不可能なことですが、感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えてゆくことで可能になります。
話し合いのヒント
1) 神様が望まれる聖なる生活とは?
2) どうしたら神に喜ばれるように仕えてゆけるでしょう?
聖なる生活? ヘブライ人への手紙 23 (12:14-29)
1) 気をつけるべき堕落 (14-17,創世記25-28章)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。(14) 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。(15) また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。(16) あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。(17)
イエス様が、自分たちの生きる時代に再び来られると、多くの人が思っていた時代です。それだから、平和に、そしてもっと聖く生きることを「追い求めなさい」、そうでなければやがて来られるイエス様を見ることはできませんよ。イエス様にあなたのことは知らないと言われてしまいますよ、と警告されています。そんなに終りの日が切迫していると感じられていた社会だったのにもかかわらず、堕落してゆく者がいたのですから、イエスさまが再び来られるという切迫感をあまり持たない、現代の教会ではイエス様に背を向けて去ってゆく者がもっと多くいることは不思議なことではありません。私たちの心には、私たちを神様から引き離す、苦い根と表現されている思いが簡単に発生します。それは美しい芝生にはびこる雑草のように、初めは小さく目立たないのですが、ほっておけば芝を覆い尽くし、やがて消滅させてしまいます。勝利するのは、毎日コツコツと諦めずに草取りをする人、忍耐を持って平和と聖さを追い求め続けている人が、いつか主の前に立ち、よくやったと言われるのです。「十分に平和を保ち、清く生きた人」でいなさいとは書かれていません。追い求めなさいと書かれています。どこにいるかではなく、どこに向かっているかが重要なのです。もっと平和に、もっと聖く、と祈り求めて進んでゆくのです。ところで「清さ」cleanと「聖さ」Holyは違います。私たちはどんなに努力してもcleanではありません。しかしイエス様と共に歩むことでHolyとされているのです。筆者はその違いをエサウとヤコブの例を引いて教えてくれます。イサクとリベカの間に生まれた兄弟、エサウとヤコブは対照的な兄弟でした。アウトドア派ではなく草食系男子で、母リベカに可愛がられた弟ヤコブは、狡賢く嫌な性格のように見えます。クリーンではありません。しかし「神様にもっと近づきたいという思い」という点で見るならば、一見アウトドア派、肉食系で、父イサクのお気に入りの長男エサウは完全に失格でした。創世記25章27-34節を読んでみましょう。エサウは神様の与えた秩序より、自分の欲望を優先する人だったのです。神様から与えられた祝福である長子の権利を、空腹を理由に軽んじ、弟に譲ってしまいました。クリーンではなかったけれどホーリーを求めたヤコブがアブラハム、イサクの後継者とされました。私たちはすべての人と平和を保つことは困難ですし清くもありませんが、平和を求め続ける歩み、神様のきよさを求め続ける歩みを続けることはできます。そのように歩むことを神様は求めておられるのです。
2) 知るべき置かれている事態の深刻さ (18-25, 出エジプト19章)
あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。(18-19) 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。(20) また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。(21) しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、(22) 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、(23) 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。(24) あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。(25)
モーセの時代の人々の目には、神様は恐るべき存在と写っていました。人との仲介者として「地上で神のみ旨を告げる人」として立てられたモーセでさえ、神様は、ちょっとした間違いでも自分を滅ぼしかねない怖い存在と思えたのです。しかし新約聖書以降の私達にとって、神様は恐ろしいだけの存在ではありません。主イエスキリストとして来て下さり、その本質が「愛」であることをはっきり示してくださったからです。あれほど超越していて、絶望的に近づきがたいと思われていた神様が人として、しかも全ての人の犠牲となるために来てくださったのです。イエス・キリストの十字架は、私達が大胆に神様に近づくことができるようにしてくれました。それではこのイエスさまが、平和を保つこと、聖い生活を送ることについてどう勧めておられるか、マタイによる福音書5章43-48節で確かめておきましょう。 ここでわかることは、私たちはイエス様に何の恐れもなく近づくことができるけれども、それはイエス様が、平和について、聖さについて基準を下げてくださったからではありません。この点については全く、イエス様は妥協しておられません。命じておられるのは全ての人との平和であり、聖さの基準は天の父の完全です。 テロリストの思想としてイスラム原理主義が知られていますが、原理主義はもともとキリスト教社会の中にあったものです。キリスト教国も戦争を聖戦と考えるのです。先日アメリカ空軍の訓練基地で核ミサイルの発射をする将校向けに、アメリカの行う戦争は聖戦なのだからためらわずにボタンを押せるようにと、多くの聖句を用いて聖書が戦争を肯定していると20年間教え続けてきたことが発覚して中止したそうです。アメリカの良いところは、軍の中でさえこのような良心的な内部告発が可能だということです。残念なのは、自分たちが最も聖書の権威に忠実だと誇る人々ほど、聖戦という感覚が根強く、戦争好きの指導者を支持する傾向があることです。 イエス様は、どうお考えなのでしょうか?マタイ26:52では剣を取るものは皆、剣で滅びると言われました。先ほど読んだ5章の直前の個所は「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」という有名な言葉です。いまの私にはできない、それでもいいのです。けれどもイエス様が求める完全な平和のレベルはそれほどのものなのだということです。今できない、自信がないことをイエス様は責められません。しかし、自分を正当化するために、イエス様の考えを曲げて伝え、自分こそイエス様に近いと言い続けるなら、その人こそ罰を免れないということです。
3) 守るべき聖なる生活 (26-29)
あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(26) この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。(27) このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。(28) 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。(29)
3月の大震災以来、余震が続きます。地震の揺れは私達を大変不安にさせます。しっかりしていなければ立っていられない足元がグラグラするのですから、たまったものではありません。この地上には、揺り動かされないものは何一つ、ありません。精神的な土台も同じです。たったひとつの場所を除いて揺り動かされないものは一つもないのです。それがここで御国と紹介されている神の国です。国というと土地を思い浮かべますが。領土があるかどうかが問題なのではありません。神様の支配のもとにあるということが、神の国に属しているということになります。地面は揺れても、私たちは揺り動かされることのない土台の上に立っているのです。だから、揺り動かされているように思えてもそれは、目にみえることに影響されて、揺れているように感じられる錯覚です。騙されてはいけません。 神様はひとり子を与えてくださるほどに愛してくださる方ですが、同時に焼き尽くす火のように不正義を憎まれます。そこで神様は私達に愛すること、正しいことを行うことを求められているのです。自分の力ではできないことです。だから神様と共に歩むのです。平和を求めることと、神と共に過ごす聖い生活とは切り離すことのできない一つのことです。聖さのない平和も、平和のない聖さもありえません。 だから、わたしたちの歩みは、ただ感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えてゆくということです。
メッセージのポイント
聖なる生活とは、道徳的な生活ではありません。それは感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕える生活です。エサウのように神様の祝福を軽んじるなら、祝福を受け継ぐことはできません。私たちは神様が正義については全く妥協されない方であることを知っています。しかし罪深い私達にとっても、もはや神様は「燃え尽くす火」であるだけではありません。イエスキリストの流された血は、神様が「燃え尽くす火」であると同時に、「愛」であることを教えてくれているのです。神様は私達にも、徹底的に愛すること、徹底的に正しいことを行うことを求められているのです。それは私達の能力では不可能なことですが、感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えてゆくことで可能になります。
話し合いのヒント
1) 神様が望まれる聖なる生活とは?
2) どうしたら神に喜ばれるように仕えてゆけるでしょう?