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August 28th 2011 Vol.18 No.35
私たちはなぜこのような礼拝を献げるのか?
わたしたちを造られた方主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。(詩編 95:6) しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネによる福音書 4:23) 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書 4:24)
A. 礼拝とは
1) 礼拝の本質と概念
聖書における礼拝という概念はとても広いものです。「礼拝する」と現代の聖書で訳されている言葉はヘブライ語もギリシャ語も多くあります。それらの元々の意味は「奉仕するworking voluntarily」「おじぎをするbowing」「求めるseeking」「仕えるserving 」「ひざまずくkneeling」、さらには、歌う、楽器を奏でる、手を挙げる、手を叩くといったことまでが含まれています。つまり、礼拝とはとても広く豊かな概念を持っているということです。私が、その本質をできるだけ広く簡潔に表現するなら「神様の前に進み出て、神様との親しい時を過ごすこと」と言いたいと思います。何万人も入ることの出来るスタジアムで人々と共に神様に向かって歌うことも、たった一人自分の部屋で、心の中で神様に語りかけていることもどちらも「礼拝」なのです。神様に向かって、ひれ伏してごめんなさいと謝ることも、神様に向かって、バンドの音楽に合わせてジャンプして踊ったり、歌ったりすることもどちらも「礼拝」なのです。 神様は礼拝することを何よりも大切にしなさいと命じておられますが、それは「私を拝め」という強制なのではありません。礼拝は、神様が私たちに与えてくださった、本当に豊かな人生を歩めるようになるためのプレゼントです。私達が礼拝について、狭く限定的に考えるなら、神様が与えようとしておられる豊かさを十分に受け取ることができません。つまり、日曜日の朝に聖書のお話を聞いて、少し元気になることが礼拝だと考えているなら(実は多くのクリスチャンがこの考えに囚われていると思います)、礼拝の恵みの多くを受け取りそこねているのです。一人で神様との時を過ごすことも、家族や友達と祈っていることも、聖餐式も、日曜日のメッセージの前や後の歌う時間も、みんなであいさつする短い時間も「礼拝」として他の事々をわきにおいて、大切に過ごすなら、あなたはもっと豊かに神様の恵みをいただくことができます。
2) 公同礼拝(週に一度の共にささげる礼拝)の在り方
殆どの人が、礼拝という言葉で思い浮かべるのは、日曜日の朝の礼拝です。それは正解です。広い概念の中でも中心となるのが、週の初めの共に集まるこの礼拝だからです。今日は特にこの日曜の礼拝のことについてお話ししますが、最初にお話ししたように、個人的に、家族で、小さな集まりでの礼拝を大切にすることもどうぞ忘れないで下さい。 私たちはなぜ日曜の朝に集まるのでしょうか?午後ではいけませんか?あるいは平日ではいけませんか?日曜日の朝には特別な意味があります。それは、十字架で死なれたイエス様がよみがえった朝だからです。マルコによる福音書16章2節には「週の初めの日の朝」と記されています。それまでは、神様に礼拝を捧げるのは安息日つまり週の6日目、土曜日でした。初代教会では、それまでのユダヤ人の習慣にならって土曜日に礼拝を捧げていましたが、やがて、イエス様の復活を祝う日曜日の朝に礼拝をするようになっていったのです。もちろん規則として「日曜の朝でなくてはならない」と主張するなら、それは、私たちを取り巻く社会的な環境の中では守り切れない規則主義、律法主義となってしまいます。ユアチャーチも様々な理由でメインの礼拝を日曜の朝以外に持っていた時期がありました。今は金曜の夜にも礼拝がありますが、私の一つの夢は、ユアチャーチがどの日に来ても誰かと共に礼拝を捧げられる。つまり、毎日礼拝のある教会になるということです。みんなの休みが日曜とは限らないからです。ただその集まる意味の中心は、イエス様の復活を祝い喜ぶことであることは、心にとめておきましょう。そう、歓びにあふれた祝祭(celebration)というのが日曜の礼拝です。キリスト教の礼拝とは厳粛なものであるべきだという考えから、厳粛すぎてお葬式のようになってしまったり、週の初めの折角の休みの朝の最初に牧師から、ああしなさい、こうしなさいと説教されるときとなってしまったりしているなら、それは一番大切な要素の欠けている礼拝となってしまいます。ユアチャーチの礼拝は、誰もが、心も体もありのままの状態で来て、そこで癒され、慰められ、励まされ、力を与えられ、喜びを与えられて一週間の旅に出てゆく船の母港でありたいと願っています。
B. 礼拝の諸要素
1) 最初に二曲ほど歌う意味は?
日曜日の礼拝は、同じ神様を信じる人々が集まって過ごす祝祭ですが、礼拝に慣れているいつものメンバーばかりでなく、始めての人もいます。また、先週神様の素晴らしい恵みを体験して、始まる前から喜びで体が震えそうな人もいれば、大変つらい目にあい、打ちのめされ、それでもやっとの思いで来た人もいるのです。 喜びであれ、悲しみであれ、それは自分の内面のことです。私たちは、普通最初に神様を讃える明るい歌を歌います。心を自分の内側から、神様に向け直す時です。しばらく自分の思いをわきにおいて、神様に期待します。神様あなたが私の必要を誰よりもご存知で、今日、その必要を満たして下さることを確信してあなたを讃えます。また、人々に目を向ける時でもあります。多くの友達や初めて合う人達がいます。喜んでいる人、悲しんでいる人、自分だけでなく、ここにいるすべての人が、神様の恵みに満たされて一週間を始められるように共に心を合わせて、神様に向けるのです。
2) なぜユアチャーチでは、礼拝の中で献金、聖餐式がないのか?
多くの教会では、礼拝の中で献金の時間があります。また聖餐式も礼拝の中で行われます。確かに献金も聖餐式も礼拝の一部です。しかしそれはクリスチャンがするべきことであって、そうではない方には求められてはいません。クリスチャンでない方も招かれている礼拝時間の中でそれらをするなら気まずい思いを与えてしまいます。ある教会では、そのために聖餐を誰にでも与れるものとしてしまいました。 しかしそれは間違っています。なぜなら、聖餐は「イエス様の裂かれた体は私の罪のためです。私はイエス様の血によって立てられた新しい契約の当事者です」という表明だからです。信じていなくてもとってくださいというのは、契約の内容を知らせずにサインさせるような無責任な行為なのです。
3) メッセージとは
伝統的に日本では説教と言われて来ました。元々仏教で使われてきた言葉です。最近ではメッセージといわれることが多いようです。取り上げられた聖書の言葉が神様の言葉として、どのような意味を持って語りかけられているのか真剣に受けとめ、自分の歩みに活かすのです。語る者は、口だけを神様に貸して話す霊媒psychic mediumのようなものではありません。神様は語る者の人格を通して御自身の言葉を告げるのです。修辞rhetoricや例えparableは全て、聖書の真理が正しく伝わるための道具です。 プロテスタント教会では永く説教が共に集まる礼拝の中心だと考えられてきました。もちろん神様の言葉が語られることは重要ではありますが、その他の要素が忘れられれば、講演会のような礼拝となってしまいます。
4) メッセージのあとで何曲か歌う意味は?
特に忘れられていたことが、主に向かって表現するという要素です。歌う、叫ぶ、手を叩く、踊る、楽器を奏でることです。この要素を再発見して教えてくれたのがヴィンヤードという教会です。この春、子供たちがメンバーとなっているボストンのヴィンヤードを訪ねましたが、そこではこの時間を「歌を通して神様と出会う時」と紹介していました。私はむしろこの時こそ、日曜礼拝の頂点だと信じています。最初に紹介した礼拝の言葉の意味の中には「静かの牧師のお話を聞く」というのはありませんでしたが、紹介した多くのことをワーシップタイムに神様に向かって表現できるのです。そして神様は、それには応えず黙っておられる方ではありません。あなたの心に豊かに語りかけ、その霊を満たしてくださいます。
5) 祝祷(祝福の祈り)
共に集まって捧げる礼拝は、祝祷Benedictionとよばれる特別な祈りで閉じられます。一人一人の一週間の歩みを祝福する祈りです。それは、皆さん一人一人を、この社会の中のそれぞれが派遣されている場所に送り出す祈りでもあります。私たちは皆 この礼拝の場から世界に送り出されている者なのです。イエス様に委ねられた愛を行う者として、私たちは月曜日から土曜日まで働いています。この礼拝は、私たちが一週間歩み通すための、霊的な栄養を得るための食事会ともいえます。ここで私たちは、霊的な健康、基礎体力、ここぞという時の瞬発力と知恵をいただくことが出来るのです。
C. 礼拝の中での私達の役割
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマの信徒への手紙 12:1)
私たちの役割は、自分自身を献げものとして携えて進み出て、神様との親しい時を過ごすことです。そこには一方的なものではなく双方向のコミュニケーションがあります。大切なのは形ではなく、献物としての私たちの心です。感情も、知性も、動作もフルに働かせて献げるのです。神様は礼拝の場を時として、主の前にひれ伏すしかない畏れを起こされ、また時として、大きな声であるいは手を打ち鳴らして喜びを表現するしかないような、祝祭的な雰囲気をお与えになります。もし私達が鈍感であれば、退屈で平板な礼拝風の時間を過ごす事になるか、あるいは人工的な興奮、厳粛さを作り上げてしまい、いずれにしても神様不在の虚しい時になってしまいます。大切な事は、神様から注意深く聴くこと、大胆に素直に表現することです。
メッセージのポイント
三位一体の神様を信じ、イエス・キリストの十字架を唯一の救いと信じ、イエス・キリストを主と告白するキリスト教の礼拝といっても、一つ一つの教会ではずいぶん違うものです。文化や教派の違いに寄るものですが、その本質が失われていなければ、それぞれの教会の個性が豊かに発揮されることは素晴らしいことです。本質は神様の前に自身を献げものとして携えて進み出て、神様との親しい時を過ごすことです。そこには一方的なものではなく双方向のコミュニケーションがあります。大切なのは形ではなく、献物としての私たちの心です。感情も、知性も、動作もフルに働かせて献げるのです。神様は礼拝の場を時として、主の前にひれ伏すしかない畏れを起こされ、また時として、大きな声であるいは手を打ち鳴らして喜びを表現するしかないような祝祭的な雰囲気をお与えになります。もし私達が鈍感であれば、退屈で平板な礼拝風の時間を過ごす事になるか、あるいは人工的な興奮、厳粛さを作り上げてしまい、いずれにしても神様不在の虚しい時になってしまいます。大切な事は、神様から注意深く聴くこと、大胆に素直に表現することです。
話し合いのヒント
1) あなたは友達に、礼拝ってなんですか?と聞かれたらどう答えますか?
2) なんでユアチャーチの礼拝はこうなのですか?と聞かれたらどう答えますか?
私たちはなぜこのような礼拝を献げるのか?
わたしたちを造られた方主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。(詩編 95:6) しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネによる福音書 4:23) 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書 4:24)
A. 礼拝とは
1) 礼拝の本質と概念
聖書における礼拝という概念はとても広いものです。「礼拝する」と現代の聖書で訳されている言葉はヘブライ語もギリシャ語も多くあります。それらの元々の意味は「奉仕するworking voluntarily」「おじぎをするbowing」「求めるseeking」「仕えるserving 」「ひざまずくkneeling」、さらには、歌う、楽器を奏でる、手を挙げる、手を叩くといったことまでが含まれています。つまり、礼拝とはとても広く豊かな概念を持っているということです。私が、その本質をできるだけ広く簡潔に表現するなら「神様の前に進み出て、神様との親しい時を過ごすこと」と言いたいと思います。何万人も入ることの出来るスタジアムで人々と共に神様に向かって歌うことも、たった一人自分の部屋で、心の中で神様に語りかけていることもどちらも「礼拝」なのです。神様に向かって、ひれ伏してごめんなさいと謝ることも、神様に向かって、バンドの音楽に合わせてジャンプして踊ったり、歌ったりすることもどちらも「礼拝」なのです。 神様は礼拝することを何よりも大切にしなさいと命じておられますが、それは「私を拝め」という強制なのではありません。礼拝は、神様が私たちに与えてくださった、本当に豊かな人生を歩めるようになるためのプレゼントです。私達が礼拝について、狭く限定的に考えるなら、神様が与えようとしておられる豊かさを十分に受け取ることができません。つまり、日曜日の朝に聖書のお話を聞いて、少し元気になることが礼拝だと考えているなら(実は多くのクリスチャンがこの考えに囚われていると思います)、礼拝の恵みの多くを受け取りそこねているのです。一人で神様との時を過ごすことも、家族や友達と祈っていることも、聖餐式も、日曜日のメッセージの前や後の歌う時間も、みんなであいさつする短い時間も「礼拝」として他の事々をわきにおいて、大切に過ごすなら、あなたはもっと豊かに神様の恵みをいただくことができます。
2) 公同礼拝(週に一度の共にささげる礼拝)の在り方
殆どの人が、礼拝という言葉で思い浮かべるのは、日曜日の朝の礼拝です。それは正解です。広い概念の中でも中心となるのが、週の初めの共に集まるこの礼拝だからです。今日は特にこの日曜の礼拝のことについてお話ししますが、最初にお話ししたように、個人的に、家族で、小さな集まりでの礼拝を大切にすることもどうぞ忘れないで下さい。 私たちはなぜ日曜の朝に集まるのでしょうか?午後ではいけませんか?あるいは平日ではいけませんか?日曜日の朝には特別な意味があります。それは、十字架で死なれたイエス様がよみがえった朝だからです。マルコによる福音書16章2節には「週の初めの日の朝」と記されています。それまでは、神様に礼拝を捧げるのは安息日つまり週の6日目、土曜日でした。初代教会では、それまでのユダヤ人の習慣にならって土曜日に礼拝を捧げていましたが、やがて、イエス様の復活を祝う日曜日の朝に礼拝をするようになっていったのです。もちろん規則として「日曜の朝でなくてはならない」と主張するなら、それは、私たちを取り巻く社会的な環境の中では守り切れない規則主義、律法主義となってしまいます。ユアチャーチも様々な理由でメインの礼拝を日曜の朝以外に持っていた時期がありました。今は金曜の夜にも礼拝がありますが、私の一つの夢は、ユアチャーチがどの日に来ても誰かと共に礼拝を捧げられる。つまり、毎日礼拝のある教会になるということです。みんなの休みが日曜とは限らないからです。ただその集まる意味の中心は、イエス様の復活を祝い喜ぶことであることは、心にとめておきましょう。そう、歓びにあふれた祝祭(celebration)というのが日曜の礼拝です。キリスト教の礼拝とは厳粛なものであるべきだという考えから、厳粛すぎてお葬式のようになってしまったり、週の初めの折角の休みの朝の最初に牧師から、ああしなさい、こうしなさいと説教されるときとなってしまったりしているなら、それは一番大切な要素の欠けている礼拝となってしまいます。ユアチャーチの礼拝は、誰もが、心も体もありのままの状態で来て、そこで癒され、慰められ、励まされ、力を与えられ、喜びを与えられて一週間の旅に出てゆく船の母港でありたいと願っています。
B. 礼拝の諸要素
1) 最初に二曲ほど歌う意味は?
日曜日の礼拝は、同じ神様を信じる人々が集まって過ごす祝祭ですが、礼拝に慣れているいつものメンバーばかりでなく、始めての人もいます。また、先週神様の素晴らしい恵みを体験して、始まる前から喜びで体が震えそうな人もいれば、大変つらい目にあい、打ちのめされ、それでもやっとの思いで来た人もいるのです。 喜びであれ、悲しみであれ、それは自分の内面のことです。私たちは、普通最初に神様を讃える明るい歌を歌います。心を自分の内側から、神様に向け直す時です。しばらく自分の思いをわきにおいて、神様に期待します。神様あなたが私の必要を誰よりもご存知で、今日、その必要を満たして下さることを確信してあなたを讃えます。また、人々に目を向ける時でもあります。多くの友達や初めて合う人達がいます。喜んでいる人、悲しんでいる人、自分だけでなく、ここにいるすべての人が、神様の恵みに満たされて一週間を始められるように共に心を合わせて、神様に向けるのです。
2) なぜユアチャーチでは、礼拝の中で献金、聖餐式がないのか?
多くの教会では、礼拝の中で献金の時間があります。また聖餐式も礼拝の中で行われます。確かに献金も聖餐式も礼拝の一部です。しかしそれはクリスチャンがするべきことであって、そうではない方には求められてはいません。クリスチャンでない方も招かれている礼拝時間の中でそれらをするなら気まずい思いを与えてしまいます。ある教会では、そのために聖餐を誰にでも与れるものとしてしまいました。 しかしそれは間違っています。なぜなら、聖餐は「イエス様の裂かれた体は私の罪のためです。私はイエス様の血によって立てられた新しい契約の当事者です」という表明だからです。信じていなくてもとってくださいというのは、契約の内容を知らせずにサインさせるような無責任な行為なのです。
3) メッセージとは
伝統的に日本では説教と言われて来ました。元々仏教で使われてきた言葉です。最近ではメッセージといわれることが多いようです。取り上げられた聖書の言葉が神様の言葉として、どのような意味を持って語りかけられているのか真剣に受けとめ、自分の歩みに活かすのです。語る者は、口だけを神様に貸して話す霊媒psychic mediumのようなものではありません。神様は語る者の人格を通して御自身の言葉を告げるのです。修辞rhetoricや例えparableは全て、聖書の真理が正しく伝わるための道具です。 プロテスタント教会では永く説教が共に集まる礼拝の中心だと考えられてきました。もちろん神様の言葉が語られることは重要ではありますが、その他の要素が忘れられれば、講演会のような礼拝となってしまいます。
4) メッセージのあとで何曲か歌う意味は?
特に忘れられていたことが、主に向かって表現するという要素です。歌う、叫ぶ、手を叩く、踊る、楽器を奏でることです。この要素を再発見して教えてくれたのがヴィンヤードという教会です。この春、子供たちがメンバーとなっているボストンのヴィンヤードを訪ねましたが、そこではこの時間を「歌を通して神様と出会う時」と紹介していました。私はむしろこの時こそ、日曜礼拝の頂点だと信じています。最初に紹介した礼拝の言葉の意味の中には「静かの牧師のお話を聞く」というのはありませんでしたが、紹介した多くのことをワーシップタイムに神様に向かって表現できるのです。そして神様は、それには応えず黙っておられる方ではありません。あなたの心に豊かに語りかけ、その霊を満たしてくださいます。
5) 祝祷(祝福の祈り)
共に集まって捧げる礼拝は、祝祷Benedictionとよばれる特別な祈りで閉じられます。一人一人の一週間の歩みを祝福する祈りです。それは、皆さん一人一人を、この社会の中のそれぞれが派遣されている場所に送り出す祈りでもあります。私たちは皆 この礼拝の場から世界に送り出されている者なのです。イエス様に委ねられた愛を行う者として、私たちは月曜日から土曜日まで働いています。この礼拝は、私たちが一週間歩み通すための、霊的な栄養を得るための食事会ともいえます。ここで私たちは、霊的な健康、基礎体力、ここぞという時の瞬発力と知恵をいただくことが出来るのです。
C. 礼拝の中での私達の役割
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマの信徒への手紙 12:1)
私たちの役割は、自分自身を献げものとして携えて進み出て、神様との親しい時を過ごすことです。そこには一方的なものではなく双方向のコミュニケーションがあります。大切なのは形ではなく、献物としての私たちの心です。感情も、知性も、動作もフルに働かせて献げるのです。神様は礼拝の場を時として、主の前にひれ伏すしかない畏れを起こされ、また時として、大きな声であるいは手を打ち鳴らして喜びを表現するしかないような、祝祭的な雰囲気をお与えになります。もし私達が鈍感であれば、退屈で平板な礼拝風の時間を過ごす事になるか、あるいは人工的な興奮、厳粛さを作り上げてしまい、いずれにしても神様不在の虚しい時になってしまいます。大切な事は、神様から注意深く聴くこと、大胆に素直に表現することです。
メッセージのポイント
三位一体の神様を信じ、イエス・キリストの十字架を唯一の救いと信じ、イエス・キリストを主と告白するキリスト教の礼拝といっても、一つ一つの教会ではずいぶん違うものです。文化や教派の違いに寄るものですが、その本質が失われていなければ、それぞれの教会の個性が豊かに発揮されることは素晴らしいことです。本質は神様の前に自身を献げものとして携えて進み出て、神様との親しい時を過ごすことです。そこには一方的なものではなく双方向のコミュニケーションがあります。大切なのは形ではなく、献物としての私たちの心です。感情も、知性も、動作もフルに働かせて献げるのです。神様は礼拝の場を時として、主の前にひれ伏すしかない畏れを起こされ、また時として、大きな声であるいは手を打ち鳴らして喜びを表現するしかないような祝祭的な雰囲気をお与えになります。もし私達が鈍感であれば、退屈で平板な礼拝風の時間を過ごす事になるか、あるいは人工的な興奮、厳粛さを作り上げてしまい、いずれにしても神様不在の虚しい時になってしまいます。大切な事は、神様から注意深く聴くこと、大胆に素直に表現することです。
話し合いのヒント
1) あなたは友達に、礼拝ってなんですか?と聞かれたらどう答えますか?
2) なんでユアチャーチの礼拝はこうなのですか?と聞かれたらどう答えますか?