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September 18th 2011 Vol.18 No.38
二心の人 ヤコブの手紙1:1-8
A. ヤコブの手紙について(1)
神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。(1)
今日からヤコブの手紙を読み始めます。この手紙は一見すると、ああしなさい、こうしなさいと命令的で、行いではなく信仰によって救われるという福音とは異質な感じがします。けれどもヤコブは、律法的な信仰に戻りなさい!行いによって救われます、と言っているわけではありません。そうではなく、あなた方の信仰が本物なら行いが伴うはずだ、と言っているのです。聖書には何人かのヤコブが出てきますが、この手紙を書いたのは、エルサレムの教会の指導者の一人となっていた、イエス様の弟のヤコブか、その系統の人だというのが一番有力な説です。ヤコブがこの手紙を書かなければならなかった理由は、その時代のクリスチャンが陥っていた誤りを正さなければならなかったからです。その誤りとは「愛の神様」を信じているにもかかわらず、それが愛という行動として表われない教会、クリスチャンになってしまっていたということです。それではイエス様に従っていることにはなりません。しかしこのことは、私たちも陥りやすい罠なのです。教会を、愛するために出てゆくところから、居心地のいいクラブにしてしまいたくなる誘惑はいつの時代にもやってきます。手紙は、離散した12部族という言い方で、広範囲に広がって暮らしていた当時の全てのクリスチャンに向けて語られています。これからしばらく、信仰をどのように行動としてゆくかということをお話しします。ヤコブが手紙のはじめに取り上げる事柄は「忍耐」することによって成長しなさいということです。
B. 安定した生き方をするために
1) 試練→忍耐→完全 (2-4)
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。(2) 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。(3) あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
先週まで読んできたヘブライ人への手紙の中にも、試練と忍耐について書かれていたところがありましたが、ここでも、試練は私たちの成長に欠かせないものとして触れられています。ここでは、試練が「信仰の試されるとき」と言われています。私たちは自分の信仰が問われるような出来事を通して成長するのです。だから試練の時は喜びの時なのです。神様があなたの成長を期待しているしるしだからです。世の中はどんどん便利になりますが、便利になればなるほど忍耐力は低下します。最近の若者は忍耐力が無いと、よくいわれますが、私も散々、忍耐力が無いと言われて育ってきましたから、上の世代からみれば若い人に忍耐が足り無いというのはいつの時代も同じなのでしょう。しかし、自分より年若い人から「あなたには忍耐が足り無い」と言われれば恥なければなりません。忍耐力は試練を忍耐することでしか養われません。試練は、ただ頭を下げてひたすら通過するのをじっと待っていればよいものではありません。忍耐とは何もせず息を潜めて待ち望むことではありません。むしろ乗り越えて行くべきものです。一つ一つ乗り越えて行った先に待っているのは、完全な正義と平和が現実となっている神の国です。私たちにはこの神の国に入るという意味で完全で申し分なく、何一つ欠けているところのない者とされるのです。残念ながら、聖書は10年ほど修行すれば、この世界に中で人格が完成しますということを約束しているわけではありません。しかし、この世界でも信仰の成長を確認することはできます。同じような試練にあった時に、それに対する対処がもっと良いものに変わっていれば、成長したということがわかります。 実際に試練を乗り越えてゆく時に求める必要があるのが、次の部分で教えられている。「神様に知恵を求める」ということです。5-8節を読みましょう。
2) 知恵を求める信仰 (5-8)
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。(5) いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。(6) そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。(7) 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。(8)
神様に知恵を求め、いただき、それによって生きる人と、そうでない人とでは、ともに不完全であるということは変わらないにしても、その到達点は全く違ってしまいます。ただ願うのではなく、信仰を持って、疑わずに、と書かれています。みなさんはそれほどに、神様を信頼していますか?そうでなければ、風に吹かれて揺れ動く海の波のようだと言われています。人生を一歩一歩、着実に歩むためには、神様への信頼すなわち信仰が欠かせないのです。それは、ここで見てきたとおり、試練を乗り越えるたびに強くなるものです。神様は耐えることのできない試練を与える方ではないとパウロがコリントの教会への第一の手紙10章で言っていることは真実です。私たちは信仰の成長の度合いに相応しい試練を乗り越えてゆくことによって、さらに高いハードルを越えられるようになるということです。イエス様は最高の人生のコーチです。イエス様がなさることを倣い、言われたことを行ない、迷わずついていけば勝利は約束されています。ところが、疑いや、迷いが私たちの心を揺らします。それは思い通りに事が運ばない時です。そのような時、別の誰かの知恵、あるいは自分の知恵にたよろうとします。しかし、8-9節に何と書いてありますか?指導方針の異なる二人のコーチに指導を受ければ、より多く得られるどころから、かえって悪い結果を得る事になります。私たちのコーチ、イエス様をしっかりと見上げ、従ってゆくために何を大切にすれば良いのか、皆さんはもう何度も聞いてきました。心からの礼拝を捧げ続けること、イエス様を中心とした人間関係の中で互いに仕え合う、そして実際にこの世界に出てゆき自分に委ねられている働きを行うことです。このサイクルは順調に回る事がほとんどありません。試練の連続と言ってもいい位です。しかしその試練が、このサイクルを平面上で、ぐるぐる回るものではなく螺旋階段のように上に登ってゆくものにしてくれるのです。
メッセージのポイント
試練によって信仰が試されるとき、忍耐が生じます。忍耐力は私たちの様々な欠けをカバーして、まるで欠けのない者のようにしてくれるのです。また、自分に知恵が足りなければ神様に願うことが出来ます。知恵を願うことは良いことで、神様は必ずその願いに答えてくださったのだから、信頼して願いましょう。この事を疑うなら、得ることが出来るはずの知恵も身につきません。生きる知恵は神様が下さるものだということを疑わずに求める人に、神様は下さるのです。この事に関して疑う者はいただくことができないので、その生き方全体が安定を欠いた者になってしまいます
話し合いのヒント
1) なぜ試練にあったら喜びと思うべきなのでしょうか?
2) 知恵とは何ですか?
二心の人 ヤコブの手紙1:1-8
A. ヤコブの手紙について(1)
神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。(1)
今日からヤコブの手紙を読み始めます。この手紙は一見すると、ああしなさい、こうしなさいと命令的で、行いではなく信仰によって救われるという福音とは異質な感じがします。けれどもヤコブは、律法的な信仰に戻りなさい!行いによって救われます、と言っているわけではありません。そうではなく、あなた方の信仰が本物なら行いが伴うはずだ、と言っているのです。聖書には何人かのヤコブが出てきますが、この手紙を書いたのは、エルサレムの教会の指導者の一人となっていた、イエス様の弟のヤコブか、その系統の人だというのが一番有力な説です。ヤコブがこの手紙を書かなければならなかった理由は、その時代のクリスチャンが陥っていた誤りを正さなければならなかったからです。その誤りとは「愛の神様」を信じているにもかかわらず、それが愛という行動として表われない教会、クリスチャンになってしまっていたということです。それではイエス様に従っていることにはなりません。しかしこのことは、私たちも陥りやすい罠なのです。教会を、愛するために出てゆくところから、居心地のいいクラブにしてしまいたくなる誘惑はいつの時代にもやってきます。手紙は、離散した12部族という言い方で、広範囲に広がって暮らしていた当時の全てのクリスチャンに向けて語られています。これからしばらく、信仰をどのように行動としてゆくかということをお話しします。ヤコブが手紙のはじめに取り上げる事柄は「忍耐」することによって成長しなさいということです。
B. 安定した生き方をするために
1) 試練→忍耐→完全 (2-4)
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。(2) 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。(3) あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
先週まで読んできたヘブライ人への手紙の中にも、試練と忍耐について書かれていたところがありましたが、ここでも、試練は私たちの成長に欠かせないものとして触れられています。ここでは、試練が「信仰の試されるとき」と言われています。私たちは自分の信仰が問われるような出来事を通して成長するのです。だから試練の時は喜びの時なのです。神様があなたの成長を期待しているしるしだからです。世の中はどんどん便利になりますが、便利になればなるほど忍耐力は低下します。最近の若者は忍耐力が無いと、よくいわれますが、私も散々、忍耐力が無いと言われて育ってきましたから、上の世代からみれば若い人に忍耐が足り無いというのはいつの時代も同じなのでしょう。しかし、自分より年若い人から「あなたには忍耐が足り無い」と言われれば恥なければなりません。忍耐力は試練を忍耐することでしか養われません。試練は、ただ頭を下げてひたすら通過するのをじっと待っていればよいものではありません。忍耐とは何もせず息を潜めて待ち望むことではありません。むしろ乗り越えて行くべきものです。一つ一つ乗り越えて行った先に待っているのは、完全な正義と平和が現実となっている神の国です。私たちにはこの神の国に入るという意味で完全で申し分なく、何一つ欠けているところのない者とされるのです。残念ながら、聖書は10年ほど修行すれば、この世界に中で人格が完成しますということを約束しているわけではありません。しかし、この世界でも信仰の成長を確認することはできます。同じような試練にあった時に、それに対する対処がもっと良いものに変わっていれば、成長したということがわかります。 実際に試練を乗り越えてゆく時に求める必要があるのが、次の部分で教えられている。「神様に知恵を求める」ということです。5-8節を読みましょう。
2) 知恵を求める信仰 (5-8)
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。(5) いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。(6) そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。(7) 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。(8)
神様に知恵を求め、いただき、それによって生きる人と、そうでない人とでは、ともに不完全であるということは変わらないにしても、その到達点は全く違ってしまいます。ただ願うのではなく、信仰を持って、疑わずに、と書かれています。みなさんはそれほどに、神様を信頼していますか?そうでなければ、風に吹かれて揺れ動く海の波のようだと言われています。人生を一歩一歩、着実に歩むためには、神様への信頼すなわち信仰が欠かせないのです。それは、ここで見てきたとおり、試練を乗り越えるたびに強くなるものです。神様は耐えることのできない試練を与える方ではないとパウロがコリントの教会への第一の手紙10章で言っていることは真実です。私たちは信仰の成長の度合いに相応しい試練を乗り越えてゆくことによって、さらに高いハードルを越えられるようになるということです。イエス様は最高の人生のコーチです。イエス様がなさることを倣い、言われたことを行ない、迷わずついていけば勝利は約束されています。ところが、疑いや、迷いが私たちの心を揺らします。それは思い通りに事が運ばない時です。そのような時、別の誰かの知恵、あるいは自分の知恵にたよろうとします。しかし、8-9節に何と書いてありますか?指導方針の異なる二人のコーチに指導を受ければ、より多く得られるどころから、かえって悪い結果を得る事になります。私たちのコーチ、イエス様をしっかりと見上げ、従ってゆくために何を大切にすれば良いのか、皆さんはもう何度も聞いてきました。心からの礼拝を捧げ続けること、イエス様を中心とした人間関係の中で互いに仕え合う、そして実際にこの世界に出てゆき自分に委ねられている働きを行うことです。このサイクルは順調に回る事がほとんどありません。試練の連続と言ってもいい位です。しかしその試練が、このサイクルを平面上で、ぐるぐる回るものではなく螺旋階段のように上に登ってゆくものにしてくれるのです。
メッセージのポイント
試練によって信仰が試されるとき、忍耐が生じます。忍耐力は私たちの様々な欠けをカバーして、まるで欠けのない者のようにしてくれるのです。また、自分に知恵が足りなければ神様に願うことが出来ます。知恵を願うことは良いことで、神様は必ずその願いに答えてくださったのだから、信頼して願いましょう。この事を疑うなら、得ることが出来るはずの知恵も身につきません。生きる知恵は神様が下さるものだということを疑わずに求める人に、神様は下さるのです。この事に関して疑う者はいただくことができないので、その生き方全体が安定を欠いた者になってしまいます
話し合いのヒント
1) なぜ試練にあったら喜びと思うべきなのでしょうか?
2) 知恵とは何ですか?