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October 9th, 2011 Vol.18 No.41
差別する罪から解放される ヤコブの手紙2:1-13
A. 正しいものさし(価値観)を持つ
1) 地上の価値観による判断(1-4)
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。(1-4)
なぜイエス様を信じているなら、人を分け隔てしてはいけないのですか?イエス様が分け隔てなさらなかったからです。イエス様に従おうとするなら、今まで持っていた価値観によって人を差別していいとは思わないはずです。当時の社会では、地位やお金を持っていることは、神様の前に正しい生き方の結果と考えられていました。その日の食物に困る状態も汚らしい服装も、律法を守れない「罪深い」人々に対する当然の報いだとされていました。それに対してイエス様の価値観は当時でも革命的でした。だから、権力者や金持ちや宗教家から敵意を持たれたのです。イエス様が現代の社会を見て「さすがに私の弟子が多くいる時代だ。2000年前よりずっと良くなっている」と言ってくださるでしょうか? 40年ほど前、ある人が率直にイエス様を紹介することによって、汚らしい服装ではだしで歩きまわるような若者がよろこんで彼の始めた教会に多く集まるようになりました。ところが、元から教会にいた人々は、教会のカーペットが汚れると文句を言ったそうです。彼はどうしたと思いますか?「カーペットが汚れるのが嫌なら、カーペットをはがしてしまおう」と言ったのだそうです。「あなた達はカーペットと人とどちらが大切なのですか?」ということですね。 さて私たちの教会はこのヤコブの手紙の戒めを守れるでしょうか? これは、イエス様とは違う価値観に生きていたけれど、今は彼の弟子となった私達に対するチャレンジでもあるのです。イエス様は、私達にどのような人々を歓迎する教会になってほしいと願っておられるのでしょうか?
2) 神の国の価値観による判断 (5-7, マタイ25:31-40)
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。(5-7)
イエス様の弟子たちは、様々な階層の人々でした。お金持ちや、権力に近い者、学者はいませんでした。彼らは漁師や税金取立代行業、政治的過激派でした。そしてイエス様は政治家や、宗教家の宴会ではなく、弟子たちと同じようにあまり品の良くない人たちとの食事会を好まれました。共にいることを喜ばれただけでなくそのような人々と兄弟であるとさえ考えておられました。イエス様御自身の言葉を確認しておきましょう。マタイによる福音書25:35-40です。イエス様が大切にされるのは、私達が今までの価値観で、このような人と親しくなれればいいことがある、と思える人ではありません。古い「ものさし」をつい持ち出してしまわないように、イエス様にいただいたものさしで、まめに測る習慣を身に付けましょう。
B. 神様の基準で生きることができるのか?
1) 神様の律法は完全を求める (8-11, ルカ6:36-38)
もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。(8-11)
神様の律法が基準であれば、私たちは違反者以外の何者でもありません。相変わらず、罪人の性格をしっかり持っています。愛せない自分がいます。違反者です。無罪ではないのです。けれども私たちは、ただの罪人ではありません。神様の憐れみによって「赦された」罪人なのです。イエス様は、「赦された」罪人である私達に「憐れみによって赦されたのだから憐れみ深い者となりなさい」と勧められています。ルカによる福音書6:36です。そして、それに引き続いて、憐れむとは実際にどのようなことなのかが38節までに記されています。神様の基準は完全です。しかし、憐れみによって赦された私たちは、自分の不完全さを忘れずに、人に完全を求めなければ、罪人であることを忘れずに人を罪人と決めつけなければ、惜しみなく与えられた者として惜しまず与えれば、神様は私たちのそのような在り方を喜んでいて下さるのです。
2) やがて神様の前に立たされ問われること (12,13,マタイ25:31-46)
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。(12,13)
誰にでも人生の終わりが来ます。どのような形かは想像するしかありませんが、とにかく神様の前にたって問われることになるのです。このことに関して多くのクリスチャンが誤解しています。問われるのはクリスチャンになったかどうかではありません。どれだけ多くの人をクリスチャンにしたかでもなければ、どれほど熱心に教会活動をしたか、献金を捧げたかでもありません。マタイ25章のイエス様御自身の言葉によれば、問われるのは「イエス様に仕えて生きたのか?」ということです。それは、実際には、小さくてとるに足らない、とこの世界で思われているような人々を憐れみ、助けたかということです。
メッセージのポイント
この世界にはあらゆる差別が存在しています。あらゆることが差別の理由とされます。自分の利益を追求することを第一とする「地上の価値観」が力を持っている限り、差別はなくなりません。一つ一つ現状を変えてゆくことは大切です。法によって具体的な差別をなくすことはできます。けれども、別の新しい差別がすぐに誕生するのです。私たちの心の中に差別の種である自己中心という罪があるからです。この罪を解決するためにイエス様は来られました。彼に従うことが唯一の解決です。主イエス・キリストに従って歩み続けるのでなければ、顔を上げて神様の前に立つことはできません。憐れみによって生かされている私たちは、憐れむことのできる者です。地上にいても、神の国の価値観で生きることの出来る者なのです。
話し合いのヒント
1) 世界にはどのような差別が存在しますか?あなたの心の中では?
2) 自由の律法とは何ですか?
差別する罪から解放される ヤコブの手紙2:1-13
A. 正しいものさし(価値観)を持つ
1) 地上の価値観による判断(1-4)
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。(1-4)
なぜイエス様を信じているなら、人を分け隔てしてはいけないのですか?イエス様が分け隔てなさらなかったからです。イエス様に従おうとするなら、今まで持っていた価値観によって人を差別していいとは思わないはずです。当時の社会では、地位やお金を持っていることは、神様の前に正しい生き方の結果と考えられていました。その日の食物に困る状態も汚らしい服装も、律法を守れない「罪深い」人々に対する当然の報いだとされていました。それに対してイエス様の価値観は当時でも革命的でした。だから、権力者や金持ちや宗教家から敵意を持たれたのです。イエス様が現代の社会を見て「さすがに私の弟子が多くいる時代だ。2000年前よりずっと良くなっている」と言ってくださるでしょうか? 40年ほど前、ある人が率直にイエス様を紹介することによって、汚らしい服装ではだしで歩きまわるような若者がよろこんで彼の始めた教会に多く集まるようになりました。ところが、元から教会にいた人々は、教会のカーペットが汚れると文句を言ったそうです。彼はどうしたと思いますか?「カーペットが汚れるのが嫌なら、カーペットをはがしてしまおう」と言ったのだそうです。「あなた達はカーペットと人とどちらが大切なのですか?」ということですね。 さて私たちの教会はこのヤコブの手紙の戒めを守れるでしょうか? これは、イエス様とは違う価値観に生きていたけれど、今は彼の弟子となった私達に対するチャレンジでもあるのです。イエス様は、私達にどのような人々を歓迎する教会になってほしいと願っておられるのでしょうか?
2) 神の国の価値観による判断 (5-7, マタイ25:31-40)
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。(5-7)
イエス様の弟子たちは、様々な階層の人々でした。お金持ちや、権力に近い者、学者はいませんでした。彼らは漁師や税金取立代行業、政治的過激派でした。そしてイエス様は政治家や、宗教家の宴会ではなく、弟子たちと同じようにあまり品の良くない人たちとの食事会を好まれました。共にいることを喜ばれただけでなくそのような人々と兄弟であるとさえ考えておられました。イエス様御自身の言葉を確認しておきましょう。マタイによる福音書25:35-40です。イエス様が大切にされるのは、私達が今までの価値観で、このような人と親しくなれればいいことがある、と思える人ではありません。古い「ものさし」をつい持ち出してしまわないように、イエス様にいただいたものさしで、まめに測る習慣を身に付けましょう。
B. 神様の基準で生きることができるのか?
1) 神様の律法は完全を求める (8-11, ルカ6:36-38)
もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。(8-11)
神様の律法が基準であれば、私たちは違反者以外の何者でもありません。相変わらず、罪人の性格をしっかり持っています。愛せない自分がいます。違反者です。無罪ではないのです。けれども私たちは、ただの罪人ではありません。神様の憐れみによって「赦された」罪人なのです。イエス様は、「赦された」罪人である私達に「憐れみによって赦されたのだから憐れみ深い者となりなさい」と勧められています。ルカによる福音書6:36です。そして、それに引き続いて、憐れむとは実際にどのようなことなのかが38節までに記されています。神様の基準は完全です。しかし、憐れみによって赦された私たちは、自分の不完全さを忘れずに、人に完全を求めなければ、罪人であることを忘れずに人を罪人と決めつけなければ、惜しみなく与えられた者として惜しまず与えれば、神様は私たちのそのような在り方を喜んでいて下さるのです。
2) やがて神様の前に立たされ問われること (12,13,マタイ25:31-46)
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。(12,13)
誰にでも人生の終わりが来ます。どのような形かは想像するしかありませんが、とにかく神様の前にたって問われることになるのです。このことに関して多くのクリスチャンが誤解しています。問われるのはクリスチャンになったかどうかではありません。どれだけ多くの人をクリスチャンにしたかでもなければ、どれほど熱心に教会活動をしたか、献金を捧げたかでもありません。マタイ25章のイエス様御自身の言葉によれば、問われるのは「イエス様に仕えて生きたのか?」ということです。それは、実際には、小さくてとるに足らない、とこの世界で思われているような人々を憐れみ、助けたかということです。
メッセージのポイント
この世界にはあらゆる差別が存在しています。あらゆることが差別の理由とされます。自分の利益を追求することを第一とする「地上の価値観」が力を持っている限り、差別はなくなりません。一つ一つ現状を変えてゆくことは大切です。法によって具体的な差別をなくすことはできます。けれども、別の新しい差別がすぐに誕生するのです。私たちの心の中に差別の種である自己中心という罪があるからです。この罪を解決するためにイエス様は来られました。彼に従うことが唯一の解決です。主イエス・キリストに従って歩み続けるのでなければ、顔を上げて神様の前に立つことはできません。憐れみによって生かされている私たちは、憐れむことのできる者です。地上にいても、神の国の価値観で生きることの出来る者なのです。
話し合いのヒント
1) 世界にはどのような差別が存在しますか?あなたの心の中では?
2) 自由の律法とは何ですか?