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October 23rd, 2011 Vol.18 No.43
口で失敗しないために  ヤコブの手紙3:1-12

A. 言葉は重く強い

1) 責任の重さ (1,2)

わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。(1,2)

8節に書かれているとおり、言葉で過ちを犯さない、という人はいません。完全な人は一人もいないということです。しかしそれは、努力しても仕方がない、気を付けなくてもいいですよということではありません。少しでも口の過ちを減らす姿勢は必要です。ここで言われている教師とは神の言葉:聖書を教える者のことですが、教師にならなければ裁かれないということではありません。人に、神様の言葉を教えるという以上、その人の言葉が人を害するのであればより厳しい裁きとなる。だから簡単に教会の指導者になるなんてことは考えないほうがいいということです。イエス様に従う者は、言葉を単なる人間同士のコミュニケーションの道具だと考えるべきではありません。ヨハネの福音書は冒頭でイエス様を言と紹介しています。言葉とは第一に、イエス様として表わされた、神様からの呼びかけなのです。そして2000年前歴史の中に来られたイエス様は完全な人だったのです。言葉で過ちを犯してしまうことのある私たちであっても、イエス様に従い続けることは出来ます。

2) 良くも悪くも強力な口から出る言葉 (3-7)

馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。
(3-7)

イエス様は、口に入る物の汚れにひどくこだわる宗教家たちに、鋭い皮肉を浴びせました。

口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。
(マタイ15:11)

しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
(18-20)

心の中の悪い思いが、呪い、うそ、傷つける言葉、暴言として口から出てきます。その言葉を受けた人は大きなダメージを受けます。あなたはダメだと聞かされ続けて育てば大人になってもなかなか自信をもつことはできません。言葉は物理的な暴力なしに人を殺してしまうこともできるのです。 一方で、愛の心と行動を伴った人の言葉は慰めを与え、癒しをもたらします。特にイエス様と共に歩んでいる皆さんの言葉には、力強く人を活かす力があります。私達にとって言葉は第一にイエス様です。神様の言葉によって生かされている私達が、心に蓄えられたイエス様の愛の言葉を発するならば、聞く人にとって何よりも大きな力となるのです。
 

B. 父である主を賛美する器官なのに

1) 毒を持つ(8)

しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
(8)

しかし問題はイエス様の愛を知る前からの私たちの性質にあります。私たちはもちろん、誰かに電話をかけて、巧みなうそでお金を振り込ませるような犯罪に手を染めているわけではありません。しかし確かに、人を悲しませ、がっかりさせる言葉を吐いてしまうのです。それも、悪気はなく、誤解や説明不足でそういう結果になってしまうということだけではありません。確かに悪意や利己心から来る、決して内に住んでくださっているイエス様からではない言葉が口について出てしまう私達です。蜂を怖がり、毒蛇を恐れる私達ですが、地上の生き物の中で最も恐ろしい毒を持っているのが人間だとも言えるでしょう。しかもその猛毒は、同じ神様に造られた人間に向けられるのです。完全にはなれなくても、失敗することがあっても、自分の発する言葉に毒があることを知っていることは役に立ちます。思い返すことができるからです。それを制するように、神様に願い、努力を続けることはできるからです。
 

2) 人を呪う (9-12)

わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。
(9-12)

口から出る悪い言葉の中で最悪なのが「呪い」です。呪いとは、とても強く恨んで、その人に不幸が訪れることを願う言葉です。美しく、心励まされる詩編ですが、その中にはダビデの敵を呪う歌も記録されています。今でも、これを根拠に、異教徒や、自分の国の大統領の死を神様に祈る牧師がいます。イスラムは邪悪な宗教で地獄的な兵器や大量破壊兵器を使うことをためらってはならないと発言する伝道者がいます。私はそのような人々こそ、イエス様の前に立つとき、主よ、主よと呼んでも、あなたのことを私は知らないと言われてしまう人だと思います。どうか皆さんは、このような人々と同じにならないで下さい。「死ね」と「地獄に落ちろ」とか口にしないのは当然ですが、口に出る以前に、誰かに対して、死んでしまえ、苦しめばいい、不幸になってほしいなどという思いが心に湧いたら、すぐに「私を赦してください」と祈って下さい。イエス様は、決して人を呪われませんでした。十字架にかけられ殺される時でさえ、呪いではなく赦しの言葉を残されました。私たちは旧約聖書を読む時、イエス様というフィルターを通して読まなければなりません。そうでなければ、適当に理由をつけて、神様の名前まで持ちだして、戦争することも略奪することも人を殺すこともできてしまいます。イエス様は、私たちの敵とは、他の国でも、他の宗教でも、他の誰かでもなく、私たち自身の罪だということを教えてくださった方です。私達が心を砕かなければならないのは、この内なる敵との戦いです。既に勝利は十字架によって確定済みです。しかし内なる敵はまだ抵抗を続けるのです。それに対して私たちは無防備であってはなりません。せっかく勝利したのに、無駄な怪我をしないように、懸命に慎重に、しかし楽しく元気よくイエス様について行きましょう。
 

メッセージのポイント

イエス様ご自身が言葉だとヨハネによる福音書の始めに書かれています。言葉は神様と人、人と人を結ぶものなのです。イエス様は神様と人を結ぶ完全な言葉です。その言葉に従って生き、その言葉をできるだけ多くの人に伝えるように命じられている私達にとって、その言葉を担う責任の重さ、正しく用いれば神様の栄光を表すことができるけれど、使い方を誤れば人生を焼き尽くすほどの大きな力を持つことを、よく知らなければなりません。言葉で過ちを犯さなかった人間は、歴史の中でイエス・キリスト一人だけです。完全な人は他にはいません。それでも、ヤコブが「同じ口から賛美と呪いが出て来るようなことがあってはなりません。」というのは、あくまでも満点の基準はイエス様だということを私達が知るべきだからです。イエス様の基準以下の、この程度でいいという人間的基準は与えられていないのです。

話し合いのヒント

1) 何故多くの人が指導者になるべきではないのでしょうか?
2) どうしたら自分の口をもっと清く保てるでしょう?