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October 30th, 2011 Vol.18 No.44
弟子たちのようにシンプルに  宗教改革記念日をおぼえて

A. 人々の「離れようとする罪」と神様の「引き戻そうとする恵み」

1) 旧約時代の宗教改革(列王記下22:8-23:25)

イエス様の生まれる約700年前、旧約聖書の時代にも宗教改革が起こりました。ユダ王国のヨシア王による改革です。当時のイスラエルは、聖書の教えからすっかり離れ、社会全体が神様の言葉に背を向けていました。神様がモーセを用いて民をエジプトから解放した記念として、守るよう教えられていた過ぎ越しの祭りさえ行われていませんでした。ヨシアは今、申命記として私達が読むことのできる巻物を発見し、その時代が、いかに神様の言葉からかけ離れてしまっていたかを気付かされ大きなショックを受けました。そして、もう一度、神様の言葉に忠実な社会を再建しようとしたのです。人の心は、ほっておけば神様から離れてゆく傾向を持っています。それは私達も同じです。教会にも同じ危機が訪れます。ヨシアが改革することができたのは、書き記された神様の言葉があったからです。ですから改革といっても、教会の改革は新しくするのではなく原点に立ち戻ることなのです。
 

2) 何故宗教改革は起こったのか? (1テモテへの手紙4:1-5)

しかし、
は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

実際に教会にも大きな改革の必要が起こりました。その代表的な出来事が、今から500ほど年前に起こった。「宗教改革」と呼ばれる出来事です。1517年10月31日ヴィッテンベルク大学神学部教授だったルターは、イエス・キリストの福音にまとわりついた、教会の伝統が人をイエス様から引き離してしまっていることを警告する文書を大学のチャペルの門に張り出しました。当時の教会は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われること、神様の言葉である聖書だけが(教会の伝統や教皇ではなく)権威であること、教会は権威の組織ではなく、神様から呼び出された者の平等の交わりであることを忘れてしまっていたのです。けれども、ペンテコステで始まった教会はそのようなものではなかったはずです。それはイエス様の言葉やその他の新約聖書によってわかることです。ヨシュアが申命記を再発見して改革がなされたように、ルターも聖書の中に真理を求めました。
 

B. 今私たちはどう変わるべきなのか? (ルカによる福音書10:38-42)

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


1) こだわってはいけないこと( Iコリント; テトスへの手紙3:9)

兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
(Iコリント2:1,2)

今あの宗教改革から500年が経とうとしています。ユアチャーチも宗教改革によって誕生したプロテスタントと呼ばれる教会です。人間の作った伝統によって見失われていた良い知らせを、聖書の原点に戻って再発見した人々に連なる私達です。しかし、私たちの新しい500年の伝統が、再び良い知らせを見えにくくしているのが今の状況です。私たちの伝統は500年前に破られなければならなかったものとはすこし違います。イエス様と私たちの間に立って仲介してあげようというおせっかいな人はいません。聖書が唯一の権威だと信じています。階級制度も見られません。けれども、まずい伝統は確かに出来上がっています。確かにピラミッドのような権威的な組織はないけれども、反対に沢山のグループに分かれて、互いにばらばらで自分のグループが最高だと思っています。私たちは、イエス様を紹介することより、自分たちの神学がいかに他のグループより優れているかを証明することとか、バプテスマはこういう方法でなければ有効ではありません。この教会でのバプテスマ以外は有効ではないので、あなたはもう一度バプテスマを受ける必要があります。というどうでも良い論争に忙しいのです。あるいは、終りの日はどういう形で来るのかとか、天国はどのようなところかを宣伝することに忙しくしています。何より残念なことは、イエス様を自分の一番大切な友として紹介するという、ワクワクするような楽しいことを(だから、福音=良い知らせ=グッドニュース=ゴスペルと呼ぶのです)、地獄に行きたくなければクリスチャンにならなければならない、という恐怖の宣伝に変えてしまっていることです。イエス様を紹介することではなく、クリスチャンの数を増やすことに関心があります。そのためにするべきことは、教会に熱心ではない(イエス様にではなく)人を教会員にすること、他宗教の人を改宗させることだと思っています。そこには愛はありません。多くの人はそのような人々の友達にはなりたくないと考えるでしょう。だから私たちは、イエス様を紹介することに集中したいのです。

愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。
(テトスへの手紙3:9)
 

2) こだわらなければいけないこと(ヨハネによる福音書13:34,35)

イエス様はユダヤ教に反対して新しい宗教を造った方ではありません。ただ「私は道、真理、命です。」といわれました。またイエス様は私について来なさいと言われました。なぜこんな非常識なことをいう人物に人々は従ったのでしょうか?それは十字架と復活の事実を自分の目で確認したからです。使徒言行録時代の弟子たちは、私達のような知識を持ってはいませんでした。ただイエス様に従ってゆくことの正しさを喜んで伝えただけです。私達が取り戻さなければならないのはこのシンプルさなのです。ヨハネによる福音書13章を開きましょう。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


互いに愛し合うのが弟子のしるしです。愛し合いたいと思うなら、イエス様のように考え、語り、行動するしかありません。それがどんなに喜ばしいことなのかは、私たちの自然な喜びでしか伝わらないのです。
 

メッセージのポイント

人の集まりである教会は、必ず堕落してゆきます。しかし神様は私達を見捨てず、あまりにも遠くに来てしまったときに助けの手をさしのべて下さいます。約2000年に誕生した教会は、およそ500年ごとに大きな節目を迎えました。その中でも今から500年前のルター、カルバンらの宗教改革は教会をもう一度信仰の原点に引き戻しました。しかし、それから500年がたった今、教会は様々な面で原点から遠ざかってしまいました。宗教改革には大きな功績がありましたが、そこが私達の目指す原点ではありません。私達が目指すのはイエス様御自身です。私達にとって一番大切なことは教理を知っていることでもキリスト教的道文化を守ることありません。イエス様の親友になること、この親友をまだ知らない人に紹介することです。

話し合いのために

1) 何故宗教改革が起こったのですか?
2) ユアチャーチ(わたしたち)はどう変わるべきですか?