<MP3 音声>
<ビデオ>
November 6th, 2011 Vol.18 No.45
あなたの知恵はどこから? ヤコブの手紙7(3:13-18)
聖書には知恵という言葉が知識という言葉と共に多く使われています。この知恵と知識の違いについて、聖書では厳密に言い分けて使っている場合と同じような意味合いで使っている場合と両方が見られますが、ほぼ今私達が使い分けている意味で間違いありません。知識とは頭の中で理解され記憶されている情報です。それに対して知恵とは、知識を実生活で用いる能力のことです。
A. 知恵の二つの源
1) この世の知恵 (13-15,箴言2:28)
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(13) しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。(14) そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。(15)
どれほど多くの知識を持っていても、知恵がなければ実生活には役立ちません。そして知恵は神様が下さるものです。しかし15節で「この世の知恵」と表現されているような、本当のものではない知恵に頼って日々を過ごしている人が少なくありません。 箴 28:26 で「自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。」といわれているように、この世の知恵とは、自分の心、欲求に応じて出てくる知恵です。子供は、叱られそうになると何とか叱られないでも済むような言い分けを考えて、親の怒りをかわそうとします。大人になっても、その延長線上で、何とか少しでも自分に有利になるように、持っている知識を動員してことを運ぼうとする。それが、この世の知恵です。しかしその知恵は、本当の知恵ならそうなるはずの柔和な行いや立派な生き方には決してつながりません。むしろ、ねたみ高慢、嘘を積み重ね自己中心的な生き方をもたらすのです。
2) 上からの知恵(17)
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(17)
このような知恵こそ神様からの本当の知恵です。パウロはコリントの信徒への第一の手紙で 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(1コリ 1:22-24) 」と言っています。イエス・キリストこそ神の知恵なのです。知恵を求めるとはイエス・キリストを求めることにほかならないことがわかります。だからヤコブの手紙の17節の上からの知恵の性質についての説明は、そのままイエス様の当てはまるのは当然のことです。長い旧約の歴史は、人の知恵によって神様を知ろうとする努力の歴史でもありました。しかし人の知恵によって神様に到達することはができない、というのが真理です。イエス・キリストを知ることこそ知恵を知ること、イエス様を自分の主として持つことこそ、真の知恵を持つことなのです。
B. 上からの知恵で歩む
1) この世の知恵に振り回されない (16-18,コロサイの信徒への手紙2:20-23, ルカによる福音書 21:15)
ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。(16) 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(17) 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。(18)
この世の知恵は私たちの利己心やねたみを正当化し元気づけます。私たちの競争は知恵比べでもあるわけです。この戦いには終りがありません。エスカレートして混乱を起こし、皆が不幸になります。この世の知恵比べでは平安はやって来ません。自分はイエス様と共に歩んでいると思っている人でも、この競争に巻き込まれている人は多いのです。そして、イエス様を紹介しているつもりで、実は自分の価値観を押し付けてしまっています。パウロはそのような人々に対して、こう警告しています。
あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。(コロサイ2:20-23)
けれどもイエス様は、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける。」(ルカによる福音書21:15) とおっしゃっています。私達は、争い、利己心、妬みから自由になることができるのです。それは、世の知恵を駆使するのではなく、上からの知恵:イエス様と共に歩くことで実現します。
2) 上からの知恵を豊かに受ける (箴言1:7, 8:33, 13:20, 19:20 )
それではこの知恵を豊かにいただけるヒントとなる言葉を箴言から幾つか紹介します。
主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(箴言1:7)
自分の人生の中心に「主」を置くこと。この事なしに知恵を得ることはできません。第一のことです。人生で最も愚かなことは神様を無視して、自分を神様のようにして生きることです。自分の中心に主を置くということは、主に聞き従うということです。私たちは主の言葉を聞く機会をこのように週の初めの日に与えられています。この言葉を週日に行うことが、聞くだけではなく行うということになるのです。8:33と13:20を読んでみましょう。
諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない。(箴言8:33) 知恵ある者と共に歩けば知恵を得愚か者と交われば災いに遭う。(箴言13:20)
聞いて従う生活を続けることによって、知恵はもっと豊かになります。それは、心が豊かになる、成長するということです。イエス様と共に歩むことによって得られる成長とは、だんだんイエス様に似た者に変えられてゆくという成長です。そのために私たちはイエス様の体である教会に連なることが成長に欠かせないことがわかります。しかしそれは教会の交わりの中にとどまっているということではありません。成長するべきですが成長することが目的ではありません。目的は世界に出て行って愛することです。イエス様と一緒に働くことです。そうするために、もっと貪欲に知恵を、つまりイエス様を求めましょう。最後に紹介する一節です。ここまで聞いてきて、聞き従い、諭されてきたのになんて自分の成長は遅いのだろう。自分はなんで知恵がないのだろうと悲観的になっている人のための一節です。
勧めに聞き従い、諭しを受け入れよ。将来、知恵を得ることのできるように。(箴言19:20)
最初の弟子たちでさえ、「あなた方は私とずっと共にいるのに、なんでわからないのか」とイエス様を嘆かせています。時間がかかります。すぐに「知恵の人」になれるわけではないのです。でも知恵を与えられることはイエス様の約束でもあったことを、さきほど私たちは確認しました。早い、遅いが問題なのではありません。今知恵が深い浅いが問題ではないのです。いけないのは諦めてしまうことです。諦めたら与えられません。諦めずに聞き従ってゆきましょう。
メッセージのポイント
知恵には正反対の二つの源があります。神様からの知恵とこの世の知恵です。誰でもできるだけ賢く生きてゆきたいと願いますが、どちらの源に発する知恵に頼るかが問題なのです。それによって結果は大きく違ってくるからです。上からの知恵は、自分の欲求に即しているわけではないので、私達には回り道に見えるかもしれませんが、必ず義と平和に至る道を示します。この世の知恵は、私達の欲求にフィットしているので即効性がありそうに思えます。そして多くの人が、この世の知恵で上手くやっているように感じられます。しかしこの世の知恵が私達を導く先にはどこまで行っても偏見、偽善、不義、争いが絶えません。上からの知恵で歩めるように、いつも心はあなたの永遠の友イエス様と共に歩んでいるようにしましょう。
話し合いのために
1) 上からの知恵とこの世の知恵の違いはどのようなものですか?
2) この世の知恵を用いて失敗してしまった経験をシェアしましょう
あなたの知恵はどこから? ヤコブの手紙7(3:13-18)
聖書には知恵という言葉が知識という言葉と共に多く使われています。この知恵と知識の違いについて、聖書では厳密に言い分けて使っている場合と同じような意味合いで使っている場合と両方が見られますが、ほぼ今私達が使い分けている意味で間違いありません。知識とは頭の中で理解され記憶されている情報です。それに対して知恵とは、知識を実生活で用いる能力のことです。
A. 知恵の二つの源
1) この世の知恵 (13-15,箴言2:28)
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(13) しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。(14) そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。(15)
どれほど多くの知識を持っていても、知恵がなければ実生活には役立ちません。そして知恵は神様が下さるものです。しかし15節で「この世の知恵」と表現されているような、本当のものではない知恵に頼って日々を過ごしている人が少なくありません。 箴 28:26 で「自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。」といわれているように、この世の知恵とは、自分の心、欲求に応じて出てくる知恵です。子供は、叱られそうになると何とか叱られないでも済むような言い分けを考えて、親の怒りをかわそうとします。大人になっても、その延長線上で、何とか少しでも自分に有利になるように、持っている知識を動員してことを運ぼうとする。それが、この世の知恵です。しかしその知恵は、本当の知恵ならそうなるはずの柔和な行いや立派な生き方には決してつながりません。むしろ、ねたみ高慢、嘘を積み重ね自己中心的な生き方をもたらすのです。
2) 上からの知恵(17)
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(17)
このような知恵こそ神様からの本当の知恵です。パウロはコリントの信徒への第一の手紙で 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(1コリ 1:22-24) 」と言っています。イエス・キリストこそ神の知恵なのです。知恵を求めるとはイエス・キリストを求めることにほかならないことがわかります。だからヤコブの手紙の17節の上からの知恵の性質についての説明は、そのままイエス様の当てはまるのは当然のことです。長い旧約の歴史は、人の知恵によって神様を知ろうとする努力の歴史でもありました。しかし人の知恵によって神様に到達することはができない、というのが真理です。イエス・キリストを知ることこそ知恵を知ること、イエス様を自分の主として持つことこそ、真の知恵を持つことなのです。
B. 上からの知恵で歩む
1) この世の知恵に振り回されない (16-18,コロサイの信徒への手紙2:20-23, ルカによる福音書 21:15)
ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。(16) 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(17) 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。(18)
この世の知恵は私たちの利己心やねたみを正当化し元気づけます。私たちの競争は知恵比べでもあるわけです。この戦いには終りがありません。エスカレートして混乱を起こし、皆が不幸になります。この世の知恵比べでは平安はやって来ません。自分はイエス様と共に歩んでいると思っている人でも、この競争に巻き込まれている人は多いのです。そして、イエス様を紹介しているつもりで、実は自分の価値観を押し付けてしまっています。パウロはそのような人々に対して、こう警告しています。
あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。(コロサイ2:20-23)
けれどもイエス様は、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける。」(ルカによる福音書21:15) とおっしゃっています。私達は、争い、利己心、妬みから自由になることができるのです。それは、世の知恵を駆使するのではなく、上からの知恵:イエス様と共に歩くことで実現します。
2) 上からの知恵を豊かに受ける (箴言1:7, 8:33, 13:20, 19:20 )
それではこの知恵を豊かにいただけるヒントとなる言葉を箴言から幾つか紹介します。
主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(箴言1:7)
自分の人生の中心に「主」を置くこと。この事なしに知恵を得ることはできません。第一のことです。人生で最も愚かなことは神様を無視して、自分を神様のようにして生きることです。自分の中心に主を置くということは、主に聞き従うということです。私たちは主の言葉を聞く機会をこのように週の初めの日に与えられています。この言葉を週日に行うことが、聞くだけではなく行うということになるのです。8:33と13:20を読んでみましょう。
諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない。(箴言8:33) 知恵ある者と共に歩けば知恵を得愚か者と交われば災いに遭う。(箴言13:20)
聞いて従う生活を続けることによって、知恵はもっと豊かになります。それは、心が豊かになる、成長するということです。イエス様と共に歩むことによって得られる成長とは、だんだんイエス様に似た者に変えられてゆくという成長です。そのために私たちはイエス様の体である教会に連なることが成長に欠かせないことがわかります。しかしそれは教会の交わりの中にとどまっているということではありません。成長するべきですが成長することが目的ではありません。目的は世界に出て行って愛することです。イエス様と一緒に働くことです。そうするために、もっと貪欲に知恵を、つまりイエス様を求めましょう。最後に紹介する一節です。ここまで聞いてきて、聞き従い、諭されてきたのになんて自分の成長は遅いのだろう。自分はなんで知恵がないのだろうと悲観的になっている人のための一節です。
勧めに聞き従い、諭しを受け入れよ。将来、知恵を得ることのできるように。(箴言19:20)
最初の弟子たちでさえ、「あなた方は私とずっと共にいるのに、なんでわからないのか」とイエス様を嘆かせています。時間がかかります。すぐに「知恵の人」になれるわけではないのです。でも知恵を与えられることはイエス様の約束でもあったことを、さきほど私たちは確認しました。早い、遅いが問題なのではありません。今知恵が深い浅いが問題ではないのです。いけないのは諦めてしまうことです。諦めたら与えられません。諦めずに聞き従ってゆきましょう。
メッセージのポイント
知恵には正反対の二つの源があります。神様からの知恵とこの世の知恵です。誰でもできるだけ賢く生きてゆきたいと願いますが、どちらの源に発する知恵に頼るかが問題なのです。それによって結果は大きく違ってくるからです。上からの知恵は、自分の欲求に即しているわけではないので、私達には回り道に見えるかもしれませんが、必ず義と平和に至る道を示します。この世の知恵は、私達の欲求にフィットしているので即効性がありそうに思えます。そして多くの人が、この世の知恵で上手くやっているように感じられます。しかしこの世の知恵が私達を導く先にはどこまで行っても偏見、偽善、不義、争いが絶えません。上からの知恵で歩めるように、いつも心はあなたの永遠の友イエス様と共に歩んでいるようにしましょう。
話し合いのために
1) 上からの知恵とこの世の知恵の違いはどのようなものですか?
2) この世の知恵を用いて失敗してしまった経験をシェアしましょう