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11/20/2011 Vol.18 No.47
主の御心であれば ヤコブの手紙9(4:13-5:12)
A. なすべき善を行うために
1) 明日の命はわからない (4:13-15, ルカ12:13-21)
よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
昨日、まだ若い友人のお葬式に行きました。イエス様と共に歩み続けた方です。日本人の平均寿命から言えばその半分にも満たない生涯でした。それでも彼は、後悔なしに天国に移されたはずです。生涯を、イエス様を若い人達に紹介することに献げ、家族を愛し、半年以上の闘病生活でも人々に希望を与え続けて帰って行きました。神様を信頼していない人は言うでしょう。「残された家族がかわいそう。神様はなんてひどい事をするのか?神様なんていないのではないか?」あなたもそう思うなら、あなたは神様の素晴らしさをまだわかっていません。神様は永遠の命を与えられる方です。人生は、この世界で終りなのではありません。残されたものには悲しみがあります。当然です。けれども、彼が生涯仕えたイエス様は、その家族に慰めを与え、悲しみを癒し、十分な糧で養い、天国で再会するその日まで、喜びを与え続けて下さいます。 私たちは、誰も地上での歩みが終わる時を知りません。それは神様の恵みです。そんなことを知っていたら、落ち着いて生活できる人はいません。ただ、生涯の終わりに近づいたときには、それを知ったほうが良い場合もあります。心や、身の回りを十分整理することができるからです。しかし医師がだいたいこれくらいでしょうと言っても、実際には、ずっと永らえることも、短くなることもあるのです。 「いつお呼びがかかっても、後悔は全くありません。」といえるほどの毎日を生まれてからずっと続けている人は一人もいません。しかしその日は来るのです。今日、天使が迎えに来て、ちょっと待ってくださいと慌てないで良い方法があるのでしょうか?それが「主の御心であれば」という考えです。但し、そう思えるのは、イエス様を心の底から主と信じ、日々主と共に歩いている人だけです。私たちは死ぬ準備としてだけイエス様を信じているわけではありませんが、イエス様が友だちでいてくれれば、その日も感謝して受け入れることができます。
2) 自分が儲けることに忙しければ、善を行う時間はない (16,17)
ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
「もし神様がいるなら、自分のしていることは喜ばれないだろう。」ということは悪人でも知っています。自分の欲望を最優先するなら、人と争い、悲しませ、傷付けことはわかりきっているからです。全ての人をつくった神様がいるとしたら、人が互いに傷つけ合うことを喜ばれはしないだろう、と知っているのです。しかし残念ながら、「では、悔い改めて、神様に従う人生を歩もう」とは思わないで、神様に背を向け続けることを選ぶ。それが罪の本質です。善を行う人になるためには、自分を主とすることをやめなければなりません。イエスを自分の主に迎えることです。そうすれば、あなたは、全てのことに対して、「主の御心であれば」という条件をつけて考えられるようになれます。永かろうと短かろうと後悔のない人生を歩む第一歩です。「私は道です。真理です。命です。」と言われたイエス様をあなたもぜひ、自分の主としてお迎え下さい。
B. 主の日を待つ態度
1) 正義を行う(5:1-6)
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。
正義とは何かを論じるアメリカの大学の授業がテレビで紹介されて話題になりましたが、普通の人にとっては、正義なんて、縁遠いか、全く自分には語る資格なんてないと感じるものです。正義の基準は時代、文化、地域によって大きく異なります。普遍的な正義はあるのか?聖書はそれを神の義だとします。神様は不正義を憎まれます。主の日は正義を行う者には喜びの日となり、不義を行う者にとっては耐え難い裁きの日となるのです。神の義は、クリスチャンの義でも、教会の義でもありません。十字軍は聖戦ではなく恥ずかしい行いであったことを歴史は証明していますが、21世紀のクリスチャンを自称する人々も同じ過ちを続けています。神様の正しさの基準は、全ての人間に当てはまるものです。問題は他人の不正義はよく見えるのに、自分の不正義は見逃してしまう私たちの罪です。他人のことはともかく、自分の行いが神の義にかなっているか、思い返し、従うことができるように祈り求めましょう。
2) 忍耐する (7-11)
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
私たちは忍耐を必要とする状況に置かれています。主の日はいつになるかわかりません。苦しみはいつまで続くのかわかりません。祈りが聞かれるのはいつなのかもわからないのです。それでも私たちは忍耐することができます。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。私たちはヨブの忍耐について聞き、主が彼に最後にどのようにしてくださったかを知っています。しかし忍耐できるのは結果が分かっているからではありません。ヨブ自身も結果を知っていたわけではありません。ただ真剣に神様と取り組んだのです。それが忍耐の鍵です。旧約聖書のヤコブも神様と真剣に取り組んだ人でした。それは盲従ではありません。わからなければ、神様になぜですか、教えてくださいとくいさがって良いのです。ヨブ記は正に神様との真剣勝負によって恵みを得た人の物語です。
3) 責任を果たす (12,マタイ5:33-37)
わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。
ヤコブはここでイエス様が命じられたことを繰り返しています。神様のオリジナルの命令は「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」(レビ記19:17)というものです。そこで人々は、抜け道を考えだしたのです。天にかけてとか地にかけてとか、自分の頭にかけてといえば、神様に対して誓った事にはならないので果たさなくても良いという理屈でした。イエス様はこれが詭弁であることを指摘されたのです。そして、「守るつもりのない誓いを立ててはいけない」という意味で言われたのです。この一切が、すべての誓いを指しているわけではないことは、イエス様ご自身が大祭司の前で誓われた(マタイ26:63,64)ことや、パウロがその手紙の中で誓っている(2コリント1:23)ことで明らかです。競技会では、力を尽くして頑張りますと代表が誓いますが、八百長をするつもりであるにもかかわらず偽りの誓いをするのでもない限り問題ないのです。裁判でも同じ事です。大切な事は、自分の言葉に責任をもって、その時の最大の誠実さをもって、イエス、ノーと言いなさいということです。誤魔化す言葉、偽りの約束は雪だるまのように大きくなってゆきます。オリンパスという会社が素晴らしい製品を持ちながら、社会的には全く信用を失ってしまったようなことになるのです。たとえ終りの日まで持ちこたえたとしても、ひどい後悔の念を抱きながらこの世の旅を終えることになります。最初から、ちょっと言いにくいことでも、イエスはイエス、ノーはノーと言っていれば、嘘偽りは大きくなりません。神様の子供として、責任を果たし続けることができます。私たちは、「御心であれば」という基本を忘れずに、イエス様の助けを得て、これらの三つの態度を終わりの日まで保ち続けましょう。
メッセージのポイント
誰にも、いつ自分のこの世での歩みが終わるのかはわかりません。それなのに、あたかも自分の人生の主導権を自分が握っていると考えるので、自分の力でできるだけ財産を増やそうと考えます。財産といってもお金だけではありません。地位、名誉、人間関係どのようなものであれ今以上を目指します。計画や目標を立てることは良いことです。しかし、それが神様の意思(みこころ)にかなわなければ得ることはできないということを喜んで認めなければ、調子が良い時には高慢になり、悪ければひどく落ち込むことになります。それは、そのこと自体が悪いばかりでなく、なすべき良いことをする時間を奪うことになるのです。それは、主の日を待つ者にとって大切な3つの態度(正義を行う、忍耐する、責任を果たす)を失うことを意味しています。
話し合いのヒント
1) 「主のみ心であれば」という言葉にどんな印象を持ちましたか?
2) スポーツ大会の選手宣誓や裁判での宣誓もするべきではないのでしょうか?
主の御心であれば ヤコブの手紙9(4:13-5:12)
A. なすべき善を行うために
1) 明日の命はわからない (4:13-15, ルカ12:13-21)
よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
昨日、まだ若い友人のお葬式に行きました。イエス様と共に歩み続けた方です。日本人の平均寿命から言えばその半分にも満たない生涯でした。それでも彼は、後悔なしに天国に移されたはずです。生涯を、イエス様を若い人達に紹介することに献げ、家族を愛し、半年以上の闘病生活でも人々に希望を与え続けて帰って行きました。神様を信頼していない人は言うでしょう。「残された家族がかわいそう。神様はなんてひどい事をするのか?神様なんていないのではないか?」あなたもそう思うなら、あなたは神様の素晴らしさをまだわかっていません。神様は永遠の命を与えられる方です。人生は、この世界で終りなのではありません。残されたものには悲しみがあります。当然です。けれども、彼が生涯仕えたイエス様は、その家族に慰めを与え、悲しみを癒し、十分な糧で養い、天国で再会するその日まで、喜びを与え続けて下さいます。 私たちは、誰も地上での歩みが終わる時を知りません。それは神様の恵みです。そんなことを知っていたら、落ち着いて生活できる人はいません。ただ、生涯の終わりに近づいたときには、それを知ったほうが良い場合もあります。心や、身の回りを十分整理することができるからです。しかし医師がだいたいこれくらいでしょうと言っても、実際には、ずっと永らえることも、短くなることもあるのです。 「いつお呼びがかかっても、後悔は全くありません。」といえるほどの毎日を生まれてからずっと続けている人は一人もいません。しかしその日は来るのです。今日、天使が迎えに来て、ちょっと待ってくださいと慌てないで良い方法があるのでしょうか?それが「主の御心であれば」という考えです。但し、そう思えるのは、イエス様を心の底から主と信じ、日々主と共に歩いている人だけです。私たちは死ぬ準備としてだけイエス様を信じているわけではありませんが、イエス様が友だちでいてくれれば、その日も感謝して受け入れることができます。
2) 自分が儲けることに忙しければ、善を行う時間はない (16,17)
ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
「もし神様がいるなら、自分のしていることは喜ばれないだろう。」ということは悪人でも知っています。自分の欲望を最優先するなら、人と争い、悲しませ、傷付けことはわかりきっているからです。全ての人をつくった神様がいるとしたら、人が互いに傷つけ合うことを喜ばれはしないだろう、と知っているのです。しかし残念ながら、「では、悔い改めて、神様に従う人生を歩もう」とは思わないで、神様に背を向け続けることを選ぶ。それが罪の本質です。善を行う人になるためには、自分を主とすることをやめなければなりません。イエスを自分の主に迎えることです。そうすれば、あなたは、全てのことに対して、「主の御心であれば」という条件をつけて考えられるようになれます。永かろうと短かろうと後悔のない人生を歩む第一歩です。「私は道です。真理です。命です。」と言われたイエス様をあなたもぜひ、自分の主としてお迎え下さい。
B. 主の日を待つ態度
1) 正義を行う(5:1-6)
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。
正義とは何かを論じるアメリカの大学の授業がテレビで紹介されて話題になりましたが、普通の人にとっては、正義なんて、縁遠いか、全く自分には語る資格なんてないと感じるものです。正義の基準は時代、文化、地域によって大きく異なります。普遍的な正義はあるのか?聖書はそれを神の義だとします。神様は不正義を憎まれます。主の日は正義を行う者には喜びの日となり、不義を行う者にとっては耐え難い裁きの日となるのです。神の義は、クリスチャンの義でも、教会の義でもありません。十字軍は聖戦ではなく恥ずかしい行いであったことを歴史は証明していますが、21世紀のクリスチャンを自称する人々も同じ過ちを続けています。神様の正しさの基準は、全ての人間に当てはまるものです。問題は他人の不正義はよく見えるのに、自分の不正義は見逃してしまう私たちの罪です。他人のことはともかく、自分の行いが神の義にかなっているか、思い返し、従うことができるように祈り求めましょう。
2) 忍耐する (7-11)
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
私たちは忍耐を必要とする状況に置かれています。主の日はいつになるかわかりません。苦しみはいつまで続くのかわかりません。祈りが聞かれるのはいつなのかもわからないのです。それでも私たちは忍耐することができます。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。私たちはヨブの忍耐について聞き、主が彼に最後にどのようにしてくださったかを知っています。しかし忍耐できるのは結果が分かっているからではありません。ヨブ自身も結果を知っていたわけではありません。ただ真剣に神様と取り組んだのです。それが忍耐の鍵です。旧約聖書のヤコブも神様と真剣に取り組んだ人でした。それは盲従ではありません。わからなければ、神様になぜですか、教えてくださいとくいさがって良いのです。ヨブ記は正に神様との真剣勝負によって恵みを得た人の物語です。
3) 責任を果たす (12,マタイ5:33-37)
わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。
ヤコブはここでイエス様が命じられたことを繰り返しています。神様のオリジナルの命令は「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」(レビ記19:17)というものです。そこで人々は、抜け道を考えだしたのです。天にかけてとか地にかけてとか、自分の頭にかけてといえば、神様に対して誓った事にはならないので果たさなくても良いという理屈でした。イエス様はこれが詭弁であることを指摘されたのです。そして、「守るつもりのない誓いを立ててはいけない」という意味で言われたのです。この一切が、すべての誓いを指しているわけではないことは、イエス様ご自身が大祭司の前で誓われた(マタイ26:63,64)ことや、パウロがその手紙の中で誓っている(2コリント1:23)ことで明らかです。競技会では、力を尽くして頑張りますと代表が誓いますが、八百長をするつもりであるにもかかわらず偽りの誓いをするのでもない限り問題ないのです。裁判でも同じ事です。大切な事は、自分の言葉に責任をもって、その時の最大の誠実さをもって、イエス、ノーと言いなさいということです。誤魔化す言葉、偽りの約束は雪だるまのように大きくなってゆきます。オリンパスという会社が素晴らしい製品を持ちながら、社会的には全く信用を失ってしまったようなことになるのです。たとえ終りの日まで持ちこたえたとしても、ひどい後悔の念を抱きながらこの世の旅を終えることになります。最初から、ちょっと言いにくいことでも、イエスはイエス、ノーはノーと言っていれば、嘘偽りは大きくなりません。神様の子供として、責任を果たし続けることができます。私たちは、「御心であれば」という基本を忘れずに、イエス様の助けを得て、これらの三つの態度を終わりの日まで保ち続けましょう。
メッセージのポイント
誰にも、いつ自分のこの世での歩みが終わるのかはわかりません。それなのに、あたかも自分の人生の主導権を自分が握っていると考えるので、自分の力でできるだけ財産を増やそうと考えます。財産といってもお金だけではありません。地位、名誉、人間関係どのようなものであれ今以上を目指します。計画や目標を立てることは良いことです。しかし、それが神様の意思(みこころ)にかなわなければ得ることはできないということを喜んで認めなければ、調子が良い時には高慢になり、悪ければひどく落ち込むことになります。それは、そのこと自体が悪いばかりでなく、なすべき良いことをする時間を奪うことになるのです。それは、主の日を待つ者にとって大切な3つの態度(正義を行う、忍耐する、責任を果たす)を失うことを意味しています。
話し合いのヒント
1) 「主のみ心であれば」という言葉にどんな印象を持ちましたか?
2) スポーツ大会の選手宣誓や裁判での宣誓もするべきではないのでしょうか?