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12/11/2011  アドヴェント第三聖日 Vol.18 No.50
あなたの魂は躍っていますか? (ルカによる福音書 1:39-56) 鈴木みどり

A 聖霊に満たされると… (39-45)
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

1) 計画の意味がわからなくても、喜んで従うことができる
今日は第三アドベントです。イエス様の誕生ストーリーの続きを見ていきましょう。 天使ガブリエルから突然「あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい」と言われ非常に驚いたおとめマリアは、天使にその大切なニュースを告げられた後、「いいえそんなの困ります!石で打たれて処刑されてしまいます!」とは言わず、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。それはもちろん嘘偽りのない、マリアの信仰に満ちた力強い宣言ですが、果たしてマリアにはこの時、ほんの少しの不安もなかったのでしょうか?私たちとは違う、たとえ何を言われても動じないほど強い信仰があったから、マリアがイエス様の母として選ばれたのでしょうか?  天使はその時さらに、年をとって不妊の女と言われていた親類のエリサベトも6ヶ月の男の子を身ごもっているという、マリアにとってかなり有益な情報も告げました。この時、もし私たちだったら、自分と同じように不思議な体験に遭遇している親戚の女性がいるなら、ぜひ確かめたい!と思わないでしょうか?ここには経験者の方もたくさんいらっしゃいますが、普通の妊娠であってもきっと、誰かに聞きたくなるような不安などが色々あるのではないでしょうか?エリサベトはもう6ヶ月ですから、マリアにとっては色々なことを教えてもらえる良き先輩でしょう。しかも、できるはずがないにも関わらず子どもができた、という点でも先輩なのです。とりあえず会いたい!と思うのが自然ではないでしょうか?電話もメールもfacebookもskypeもない時代です。手紙はあったとしても、人に託すわけにはいかない内容ですから使えません。結婚もしていない女が妊娠していると知れたら処刑されてしまう時代です。とにかくエリサベトと話すためには、実際に会いに行くしかないのです。  そこでマリアは、急いでザカリアとエリサベトが住んでいる、山岳地帯のユダの町に向かいました。ここで「そのころ」というのは直訳すれば「これらの日々に」ですから、むしろ「すぐに」という意味にとった方が、その後の時間の流れからするとより正確です。マリアは天使の話を聞くと最小限の準備をした後、すぐにエリサベトに会いに出発したのでしょう。つまり、マリアがどんなに信仰深かったとしても、少しの不安も戸惑いもなかったわけではないのだろうということが、この39節からわかるのです。  しかもそのユダの町というのは、場所が定かではないのですが、ナザレから女性が歩くと4日くらいかかる場所にあったという説があります。人にばれたら処刑されてしまうほどの秘密を抱えて、マリアはその山道を一人、歩いて行ったのです。不安があってもとにかく主の導きを信じ受け入れて歩み出す。それは自分の力ではできないことです。私たちは聖霊によって、初めてそうすることができます。自分の恐れや願望よりも、神様のご計画を優先して考えるなら、たとえそのあまりにも大きなご計画が見えなくても、従って、新たな一歩を踏み出すことができるのです。マリアのように、わからなくても不安でも、とにかく主に従おうとする時、「助け主」とも呼ばれる聖霊が、必ず働いて助けて下さいます。ですから躊躇する必要はないのです。理由は今日のお話を最後まで聞いてくださればわかります。
 
2) 主がどなたかわかり、魂がよろこびおどる (+ 1コリント12:3)
そしてマリアはザカリアの家につき、エリサベトと挨拶をしました。そして41節にあるように「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」のです。エリサベトのお腹にいる6ヶ月の男の子は、少し前の13節からわかるように、ヨルダン川でイエス様に洗礼を授けることになる、あのバプテスマのヨハネです。しかも15節には、彼は「母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」とあります。この「おどった」というのはダンスしたわけではなくて、「とび跳ねる」とか「とび越える」という意味の言葉で、族長ヤコブと双子の兄エサウが母リベカのお腹にいた時に、「押し合っている」様子を現した、勢いの強い言葉です。ここでこのみことばを思い出してください。お読みします。
コリントの信徒への手紙1 12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
マリアはまだ挨拶しかしていません。「実はお腹に子ができたと天使に言われたのですがまだよくわからなくて…」という本題は、まだ話してもいないのです。にも関わらず、胎児ヨハネは聖霊に満たされていたので、マリアの声をきいただけで「喜んでおどり」ました。次の瞬間エリサベトも聖霊に満たされたので、マリアが主イエスをお腹に宿した主の母であることを悟り、二人が祝福されていることを声高らかに告げ、マリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼びました。  人は、聖霊によって初めて、主イエスのことを認識することができ、彼の存在を喜び讃えることができるのです。くどいようですが、結婚なき妊娠が人に知れれば処刑されてしまうこの時代にあって、マリアについて「祝福されている」というのも、聖霊によらなければとても言えないことです。  ヨハネもエリサベトも、聖霊に満たされていたので、たとえ見えなくても、マリアのお腹に自分たちの待ち望んでいた主イエスがおられることがわかり、喜んで、讃えました。また、喜ぶということは、その主がどのような方かということもわかっている、ということです。それはこのあとのマリアの言葉によって明らかにされます。
 

B ただ憐れみによって…(46-56 + イザヤ41:8-10)

1) 決して憐れみを忘れない神様
マリアは、この似たような境遇に置かれたエリサベトを訪問できたことで、非常に心強くされ、励まされたのではないでしょうか?神様は、私たちがマリアのように信仰を働かせて、自分の理屈ではまるで理解出来ない神様のご計画に従いながらも、どこか戸惑っている時、あるいは、まだ信仰を持てずにどうしようかと悩んでいる時、私たちをそのまま放置されるような方ではありません。それどころか、自分自身でも気づいていないような不安まで見抜いてくださり、その時々に必要な慰めや励ましを、必ずくださる方です。1コリント10:13にも、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあるとおりです。ですからこの時マリアも、天使の言ったことが、自分だけでなくエリサベトにも本当に起きていたことを確認させていただけました。それだけでも、自分の頭がおかしくなったのではないことがわかり、ほっとします。しかもエリサベトだけでなく、お腹のヨハネまでもが、聖霊によって自分のお腹にいるはずの胎児を主イエスだと認め、喜び躍って讃え、正真正銘の主であることを証明してくれたのです。マリアの中にあったモヤモヤは何処かに消え、さらに確信が強められたことでしょう。主はご存じなのです。私たちには励ましが必要であることを。そしてこれは主の憐れみにほかなりません。  そもそも、主の母として選ばれたのは、なぜマリアだったのでしょうか。ここで、マリアが主をどのような方だと讃えているか、見てみましょう。
46そこで、マリアは言った。47「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。  
特に47節から55節までのこの箇所は、「マリアの讃歌」と呼ばれる有名な箇所です。ラテン語聖書で冒頭部分にある「あがめる」という言葉から、「マグニフィカート」とも呼ばれます。ヨハネ、エリサベトに続いてマリアも聖霊に満たされ、エリサベトの「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉への応答として語るのです。サムエル記上の2章にある「ハンナの祈り(讃歌)」が元になっているとも言われていますので、興味のある方は読み比べてみて下さい。  マリアの讃歌の48節を見ると、主が「身分の低い」「主のはしため」にも「目を留めてくださ」る方だと言われています。「身分の低い」というのは「へりくだり」や「悩み、苦しみ」とも訳される言葉です。「はしため」とは、「奴隷のような者」「召使い」という意味です。マリアは主の前に実に謙遜でした。そして実際あまり社会的地位の高い家には生まれていませんでした。劇の配役で言えば、「村人M」という感じでしょうか。つまり少なくとも、マリアが家柄の良いお嬢様で、頭も良く、町の人々の評判も申し分なかったから、神様が彼女を信頼してイエスの母に選んだわけではありません。神様は奴隷のような身分の者も顧みてくださる、憐れみ深い方なのです。そしてその憐れみがどのようなものかということを、マリアは引き続き述べています。それは「主を畏れる者に及」ぶ憐れみであり、「思い上がる者を打ち散らし」、「身分の低い者を高く上げ」、「飢えた人を良い物で満たし」て下さる憐れみです。たとえマリアと同じ身分の人でも、「主を畏れる」心を持たず驕り高ぶる者なら打ち散らされるでしょう。  マリアは、自分自身のことだけにとどまらず、神様の憐れみは社会全体に及ぶ大きなものであって、世の中のこれまでの価値観をすべて逆さまにしてしまうほどの影響力を持つものだと言うのです。つまりこのストーリーには私たち自身も含まれていると言うことです。では一体「憐れみ」とは何でしょう?しかも続きを読むと、その憐れみは、55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに 続くものだとあります。神様を畏れる者には永遠に続く憐れみということですから、私たちが神様を畏れる者である限り、未来までずっとお忘れにならない憐れみだということです。一体なんて「先祖におっしゃった」のか、気になりませんか?気になる方は次のみことばを読みましょう。
イザヤ書(41:8-10 8わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。9わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。  
神様はこのように仰ったのです。しかし大切なのは、「先祖たちに」だけ仰ったのではなく、「アブラハムの末」である私たち自身にも、今神様はこう呼びかけておられるということです。この9節で「固くとらえ」と訳されている言葉は、原語ではマリアの讃歌の54 その僕イスラエルを受け入れて、の「受け入れて」と同じ言葉です。私たちを僕として選び、愛し、受け入れ、呼び出し、決して見捨てないことも、また共にいてくださること、全て神様の憐れみです。10節に集約されているように、神様は、私たちを励まし、助け、支えてくださる方だということ、だから私たちは何を怖がる必要もないということ、これが神様の憐れみなのです。そして、約2000年前のクリスマス、罪人に過ぎない私たちのために、神様がイエス様という人となってこの地上に来て下さり、今も私たちの神様でいてくださるということ、それこそが、最も深い憐れみではないでしょうか。(どうぞみなさん、暖かいお風呂にでも入りながら、ぜひこの「イスラエル」と「ヤコブ」と「アブラハムの末」をご自分の名前に置き換えて、ここを読まれてみて下さい。癒される上に励まされること請け合いです。)
 
2) 魂と霊で、主をよろこびたたえよう  
そして、マリアから学びたい大切なことがもう一つあります。少し戻りますが、47節です。 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とあります。「魂」と「霊」とは何でしょうか?とりあえずは両方とも目に見えない、という点で共通しています。誰も「私の魂は☆の形なんです」とか、「私の霊はオバQみたいな形なんです」とは言えません。つまり誰もそれらを実体として見たり触ったりしたことがないので、少なくともこの、目に見える「体」とは違うのだろう、ということくらいしか説明できないものです。しかし神様が私たちに最も重要な掟だと言われたことの中に、「魂」という言葉が入っています。 申命記 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。  心を尽くし、魂(φυχη)を尽くし、ですから、心とはまた違うものだということはわかります。また聖書の他の箇所では「命」とも訳されている言葉ですから「命を尽くして」だと考えると、「魂」とは、「自分自身の全て」だとも言えるでしょう。また、 ヨハネ6:63  命を与えるのは“霊”(πνευμα)である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。  とあります。この「霊」というのは、「息」や「風」とも訳されている言葉で、旧約聖書では特に神様(創造主)を表す時に使われることが多い言葉です。ですから「霊」とは神様のようなものだとも言えます。人間である私たちは神様に似せて造られたのですから、私たちにも「霊」があって不思議ではありません。いずれにせよ神様も、目には見えない方なのです。ですから単純に考えて、今の私たちの目にはまだ見えない神様を礼拝し、喜び讃える時には、私たちも肉体とは違う、頭脳や知識や心の思いとも違う、もっと自分の奥深くにある、目には見えない何かによって、そうするべきではないでしょうか?それが「魂」と「霊」で神様を礼拝するということです。  マリアはここで、そうします、と宣言したわけです。しかし、マリア自身がその方法を知っているわけではありません。今お勧めしている私自身も、「それにはこうすればできます」とマニュアルのように説明することはできません。でも逆にそれは、胎児だったヨハネにもできたことなのです。先程お話したとおり、人は、聖霊によって初めて神様を認識し、自分でもわからないほどの心の底から喜び讃えることができるのです。  ですから私たちもぜひこのクリスマス、マリアのように、自分の全てで、私たちを永遠に励まし、助け、支えてくださるとおっしゃる神様であるイエス様のお誕生を喜び、礼拝しましょう。わからなくても、そうできるようにさせて下さい、と祈り求めるところから、共に一歩を踏み出してみましょう。
 

メッセージのポイント

いくら信仰の強いマリアであっても、突然目の前に天使が現れ、身に覚えのない懐妊を告げられた時には、少なからず不安に駆られたはずです。しかし神様は、聖霊に満たされた胎児ヨハネとエリサベトを通して事実を彼女に悟らせ、勇気づけました。そしてマリア自身も聖霊で満たし、励まして下さいました。聖霊によってこそ、人は神様を識り、心から喜び讃えることができるのです。そしてその魂は喜び躍り、勇気がわきます。また、マリアが救い主イエス様を授かったのは、彼女が育ちのよいお嬢様で、美しく頭脳明晰だったからというわけではありません。それはただ、神様の恵みと憐れみによるご計画です。私たちもまたマリア同様、ただ神様の恵みと憐れみによって、日々生かされているのです。

話し合いのヒント

1) 聖霊に満たされると、何ができ、何ができなくなりますか?
2) この時もしあなたがマリアだったらどうしたか、シェアしてみましょう