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12/25/2011  クリスマス礼拝 Vol.18 No.52
最も偉大な出来事 (ルカによる福音書 2:1-20)

A. もっとも偉大な預言が成就した

1) 歴史の中に起こった出来事として (1-3)
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。(1-3)
イエス様の物語は、むかしむかしあるところにという根拠のない昔話、ファンタジーではない実際に起った出来事でした。ローマ皇帝アウグストゥスと当時のシリア州の総督は紀元前後に生きた人です。イエス様は確かに歴史の中に人として生まれ歩まれたのです。当時のイスラエルは限定的な自治を認められてはいましたが、ローマ帝国の支配下にあったのです。イエスの父ヨセフはダビデに連なる血筋だったので、住んでいたガリラヤのナザレからダビデの町ベツレヘムに向います。
 
2) 私のような者となって来て下さった神 (4-7)
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(4-7)
ダビデに連なるという特別な家系とはいえ、ヨセフの代では、多くがごく普通の庶民の地位にありました。もうベツレヘムには近い親戚もいなかったのでしょう。彼らが着いた頃には泊まれる宿屋もなく、ようやく一軒の家の家畜を飼うスペースで夜を明かすことを許されたようです。私達が聞くクリスマスのお話は、色々なソースから脚色されていて、実はそれについて聖書が何も語っていないことまで思い込んでいることがあります。イエス様のお顔のイメージもそうですし、それが馬小屋だったということもそうなのです。聖書からわかるのは、イエス様の最初のベッドは飼い葉桶だったということです。「貧しい大工の息子としてうまれた」といった形容をしてしまうのですが、ヨセフの一家がどのくらいの生活水準であったかということも定かではありません。ただわかることは、イエス様が私のために来て下さったと言えない人は一人もいないということです。なぜなら誰であれ自分には居場所がない、と感じる時があるからです。自分の思い通りにならないことはいくらでもあるのです。ヨセフとマリアは神の子を宿し、それを受け入れたのだから特別な待遇が待っているかと思えば、全くそうではありませんでした。イエス様はあなたの虚しさ、苦しさ、寂しさを、御自身のこととしてよく知っておられる方なのです。
 
3) それで世界はどう変わるのか (8-14)
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(8-14)
私達のような者の代表として、羊飼いたちに、救い主の誕生は知らされました。王様や貴族や宗教指導者に知らされたのではありません。むしろ、その社会においては周辺に追いやられた人々である羊飼いに「あなた方のために救い主が今日生まれる」と知らされました。飼い葉桶の中にいる赤ちゃんが、あなた方へのしるしとありますが、見つけ出すための特長というだけにはとどまりません。弱い人、小さい人、貧しい人に喜びを与える方の象徴としての飼い葉桶なのです。御心に適う人に平和を与えるために来られた。御心に適う人、それは自分が弱い者、小さい者、貧しい者という自覚があり、弱い人、小さい人、貧しい人とともに生きようとする人のことです。高慢で、自分には神様など必要ないと思い続ける人にはいつまで経っても平和はやって来ません。神様は御心に適う人を用いて、御心に適う人々を増し加える、という方法でこの世界を変えようとなさっておられます。それでは残りの部分を見てゆきましょう。書かれているのは、マリアや羊飼いたちが、天使の呼びかけにどう応えたかということです。そこから私たちは「御心に適う人」として成長するプロセスを学ぶことができます。

B. この偉大な出来事に応答する

1) 確かめる (15,16)
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(15,16)
羊飼いたちは、自分たちに起こった不思議な出来事を思い過ごしとは思わず。確かめに行き、イエス様を見出しました。ここに来てくださった方の中には、イエス・キリストが神様だという確信を得ていない方もいると思います。けれども、聖書に関心があって、あるいは誰かに誘われてここにおられるのは、神様が、あなたに2000年前、あなたのために救い主がお生まれになったと、知らせるためです。どうか、それが本当かどうかしっかり確かめて下さい。聖書の教え、教会の活動、教会に集う人々の生き方、を通してイエス・キリストを見出して下さい。聖書はともかく、教会やそこに集う人々が立派だと言っているのではないのです。そこには全く自信がありませんが、イエス・キリストに従う生活がどれほど平安と喜びに満ちているかということは、わかっていただけると思います。 「私はイエス様を知って信じる決心をしました。だから確かめるプロセスは終了しました。」と思っている人!それは勘違いです。イエス様のことをもっともっと知る余地があなたにはあります。イエス様とは一生の付き合いです。イエス様ほど深く豊かな存在はありません。もっとよく知ることができます。もっと近づくことができます。そのことはあなたの内面を更に成長させてくれます。
 
2) 伝える (17,18)
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。(17,18)
羊飼いたちは、イエス様を見出した喜びを、自分たちのものだけにしておくことができませんでした。だから人々に知らせたのです。本当の喜びは、黙って隠してはおけません。そして分かち合えば合うほど大きくなります。
 
3) 思い続ける (19)
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(19)
ここで、今日のテキストでは初めてマリアの態度が記されています。10ヶ月前に突然知らされた出来事が、この日、イエス様の誕生として現実のことと成りました。自分の想像をはるかに超えた神様の計画がはっきり進んでいることが確認できました。41節以下にイエス様の子供時代の記録がありますが、聖書はそれ以外にはイエス様が福音を宣べ伝え始めるまでの間のことに全く触れていません。イエス様は全く普通の、しかし心が真っ直ぐな子供として育ち、青年となりやっと30歳を過ぎて宣教を始めるまで特別なことはなさらなかったのです。神様がなさることは、時に私たちにはその意味を理解することが不可能です。しかしひとつひとつのことを心に停めて覚えているならば、後でその意味を理解できる時が来るのです。日常生活で起こる様々な出来事には、私たちにはわからなくても神様の必然があるのです。一見災いと思えることでも、実は、あなたに対する神様の祝福の伏線と考え、信頼してゆきましょう。
 
4) 神様をほめたたる (20)
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(20)
羊飼いたちには自分たちの仕事が待っていました。彼らの現実の生活は、表面上は何も変わらなく続けられたことでしょう。しかし、根本が変わったのです。神様は私たちと共にいてくださるという確信が、彼らを変えたのです。神様をほめたたえながら戻っていった羊飼いたちの生活の原点にこの喜びが据えられたのです。この神様を賛美することが原点となったということです。あの、見出した赤ちゃんはやがて両親に連れられてナザレに帰ってしまいましたから、もう再び会うことはなかったでしょう。もしかしたら、パンと魚の奇蹟を体験した5000人、4000人の中にいたかもしれません。十字架に付けられたイエス様を見ていたかもしれません。残念ながら聖書はそのことについて何も語ってはいません。私たちの歩みも同じです。何も言わなければ自分がイエス様に従うものかどうかは誰にもわかりません。それでいいのです。あなたが主に従うものかどうか、見ず知らずの人に知ってもらう必要はありません。あなたの周りの人は既に知っているでしょう。その人達が、あなたが神様をほめたたえ、イエス様と共にいることを喜んでいるなら、それはいつかその人の喜びとなるでしょう。
 

メッセージのポイン

イエス・キリストの誕生日、クリスマスは神様が一人の人として、私たちの世界に来て下さった日です。平和の道が開かれた日です。私達が謙遜な心を持って神様に立ち返るなら世界は私たちの周りから変わり始めます。この道を歩むとは、もっとイエス様を知ろうとすること、イエス様を紹介すること、この出来事を(イスラエルが過ぎ越しを覚えているように)心に覚え、神様をほめたたえ続けることです。

話し合いのために

1) 生まれたばかりのイエス様は、なぜ馬小屋の飼い葉桶に置かれていたのですか?
2) 御心に適う人とはどのような人なのですか?