<MP3 音声>
<ビデオ>
January 8th, 2012 Vol.19 No.2
祈りなさい/祈ってもらいなさい (ヤコブの手紙 5:13-20)
A. 癒しと赦し
1) 祈りの勧め (13,14)
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。(13,14)
ここには喜んでいる者もいれば、苦しんでいる者もいます。イエス・キリストの名によって集められたグループの素晴らしさは、置かれている境遇が違っても、互いを同じ主を頭とする体のそれぞれの部分として受け入れ合い、助け合うことが出来ることです。ここは泣く者と共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶところです。私たちは喜びが神様からの贈り物と知っているから、神様に向かって賛美の歌うのです。この世には苦しみもあります。なぜ神様は苦しみも与えるのでしょうか?いいえ、それは神様が与えたものではありません。苦しみの起源は、人の歴史の始めにさかのぼって説明することができます。私たちの祖先は神様の楽園の中で神様に従ってゆくより、そこを出て、神様に背を向けて自分で生きる事を選んだのです。聖書はこの事を「罪」と呼んでいます。それは私たちの中に利己心、自己中心性として残っています。それが神様の作った美しい世界に、苦しみや、悲しみをもたらしているのです。しかし、苦しみの中で私たちは祈ることができます。他に何もできることがなくても祈ることが出来るのです。それは罪を自覚し、イエス様と歩んでいる人に与えられている特権です。ところが、その苦しみが大きすぎて自分では祈ることもできない、ということも起こります。そのような時こそ、私達がこの共同体にいるすばらしさを実感できます。祈れなくても、祈ってもらうことが出来るということです。長老でなければならないのか、オリーブ油でなければ効果がないのか?それは全く本質的なことではありません。私たちが、主イエスの名によって祈り、祈られる事のできる共同体であることが大事な事なのです。
2) 病と罪の関係 (15,16)
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(15,16)
先ほど、「罪」が苦しみをもたらしたことに触れましたが、聖書でいう罪とは犯罪を犯すことだけを意味しているのではありません。心のあり方なのです。それはむしろ持って生まれた性質のようなものなので、犯罪を犯す事と区別して「原罪」という言葉を用います。苦しみの一つである病の起源も原罪です。つまり(殆どの場合)その人自身の不道徳や違反の反映ではありません。しかし、病がその人自身の罪の結果として現れている場合、祈りは赦しも同時に与えて下さいます。典型的な例は姦淫によって罹る感染症です。また、法に触れなくても、神様の悲しまれることを行い続ける事は病気につながります。自分の貪欲をコントロールしなければ体は悪くなる一方です。ダイエットも一人でするより、誰かと励まし合いながらする方が成功するし、リバウンドしにくいように、自分の弱い傾向を分かち合って、祈り合うなら、その祈りは力を発揮することになります。正しい人の祈りには大きな力があり、効果をもたらすとありますが、この正しい人とは、神様の前に正しい人です、厳密に言うなら正しい人はイエス様以外には一人もいません。しかしイエス様と共に歩んでいる人は、神様に正しいと認められている人です。あなたもそうです。だから、自分には経験や資格がないと思わないで、誰かのために祈りましょう。
B. 祈ることと祈られること
1) 祈りの力を信じる (17,18)
エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。(17,18)
祈りの力を信じるというと誤解されやすいのですが、祈りは神様への一方的なリクエストではないし、祈れば自分の願いが叶うという事ではないのです。列王記上17,18章に、この出来事と思われる記録がありますが、そこにはエリヤが祈ったからそうなったというより、神様がそのようになさることを知らされたというように記されています。つまり、祈りとは、ただ自分の願いを神様に伝えてその通りになることを期待するのではなく、神様の意思を知ることなのです。祈りとは、会話のように双方向のコミュニケーションなのです。神様は確かに私たちの祈りに耳を傾けて下さいます。しかしそれは、必ずしも物事が祈ったとおりになるということではありません。祈っても思い通りにならないのは、自分の願いよりも良い選択を神様がなさったということです。ですから、祈る時、口だけではなく耳も大きく開かなければなりません。祈る時、神様が心に語りかけてくださることも期待しながら祈ってゆきましょう。
2) 祈りは癒しと救いをもたらす(19,20)
わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。(19,20)
新約聖書の幾つかの手紙の末尾は、この手紙のように、聖書の教えから離れてゆく人に対してどのように対処したら良いのかということについての言葉で終わっています。既に初代の教会においても、聖書の真理から逸れてゆく人々が存在したのです。去ってゆく者は放っておいたら良いという考え方もありますが、ここでは「真理に連れ戻す」ということも、私たちの働きの一つであることを確認できます。そしてこの働きもまた、祈りがベースとなるものです。教会の一員として共に歩んでいた人が、信仰を捨て、神様を顧みない生活に戻ってしまうのには、理由があり、またある程度の長さのプロセスを経てそうなってゆくのですから、その人に関心を持って交わりを大切にしてゆくなら、いつの間にかいなくなってしまうということは防げます。神様との祈りの関係の上に人間関係を建て上げてゆきましょう。神様は祈りの中で、その人のためにあなたができること、また反対にするべきではないことを教えて下さいます。これらのことを日常的に心がけていられるなら、議論して説得しなければならないような事態にはならないことが多いはずです。自分のために、家族のために、神様を知らない人々のためにいのるとともに、この神の家族のためにも熱心に祈る年としてゆきましょう。
メッセージのポイント
苦しみの中にいる時、神様に助けを祈ることができます。自分で祈るだけでなく祈ってもらうことも大切な事です。祈りには大きな力がありますが、誰かに祈ってもらうことで更に大きな力が現れます。病の起源は原罪です。つまり(殆どの場合)その人自身の不道徳や違反の反映ではありません。しかし、病がその人自身の罪の結果として現れている場合、祈りは赦しも同時に与えて下さいます。祈りがどのように聞かれるのかを、聖書に登場する人々の体験を通して知ることができます。それを信じる時、その力をあなたも体験することが出来るのです。
話し合いのヒント
1) なぜ祈ってもらうことも大切なのですか?
2) 罪と病にはどのような関連があるのでしょうか?