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January 15th, 2012 Vol.19 No.3
憐れみで奇蹟を起こす (マルコによる福音書8:1-10)
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
A. そこで起きた出来事
1) 5000人の時との違い(マルコ6:3-44,マタイ14:13-21,ルカ9:10-17,ヨハネ6:1-14,列王記下4:42-44)
マルコとマタイ(15:32-39)だけが、この4000人をパンと魚で満腹させた奇蹟を記録していますが、イエス様はそれ以前に5000人に対して同じような奇蹟をなさったことがすべての福音書に記録されています。イエス様は同様の奇蹟をそれ以外にもなさったのかもしれませんが、聖書が記録しているのはこの2つです。これらはユダヤ人ではない私たちにとっては、唐突な奇蹟のように思われますが、当時の人々にとってみれば、それは旧約の預言者の再来、しかもそれをはるかに上回る方の登場を印象づけるものだったのです。列王記下4:42-44に預言者エリシャがパン20個を100人に与えて満腹させ、食べきれずに残したことが記録されています。なぜマタイとマルコは両方の奇蹟を記録したのでしょうか?それは、私達がその違いと共通することの両方から学ぶためでしょう。弟子たちは5000人の時、いままでに見たことのない奇蹟を見せられたのです。それまで、病の人を癒したり、死んだ少女をよみがえらせたりするイエス様の奇蹟を見てきましたが、そのような奇蹟を見せるような者は他にもいたのです。しかし、この出来事はあのエリシャの話でしか聞いたことのない、しかもそれをはるかに凌ぐものでした。ところが、弟子たちは、まだその記憶も新しいうちに、同じような状況に置かれたのに、イエス様が奇蹟を行うことを期待していません。「でも、イエス様、この近くには大きなスーパーどころかローソンもセブンイレブンもありません」的なことを言っています。5000人の時、人々は食べ物よりも神様の言葉に飢え乾いていたのです。それを憐れんでイエス様は、十分与えようとしていたのに 弟子たちは、その日の夕方には人々を解散して帰らせ、自分の町で食べ物を買わせましょうと、イエス様に提案しました。そこから、奇蹟は始まりました。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」「いえ、それは無理です。5000人分買える店はありません。それよりみんなが途中でコンビニに寄って家に帰ればいいじゃないですか」 しかし今回は、もう3日、人々はお腹が減るのも忘れてイエス様の言葉に聞き入っていたのです。弟子たちは、自分たちも夢中で聞いていたからか、あるいは自分の食べ物はちゃんと確保していたからかわかりませんが、人々が弱っていたことには気づいていません。イエス様の方からの弟子たちへの提案でした。
2) 憐れみという動機の重要性
弟子たちとイエス様との違いは、人々を憐れみの目を持って見ていたかどうかの違いです。イエス様にとって人々は、魂もお腹も飢え渇き、弱っている人々でした。人々が満たされていない状態を憐れみ、満たせずにはいられないのがイエス様なら、弟子たちはイエス様に、従って歩きたいと思うほどの魅力を感じながら、イエス様の本質である「憐れみの心」に気付かず、人々をオーディエンスとしかみていないのです。だから5000人の時の奇蹟を目の当たりにしても、単に、「すごいことを見たなー」と感心しただけで、出来事の本質には気付けませんでした。この事の本質について知ることは、イエス様に従ってゆきたいと願っている私達にとってとても重要なことです。
B. イエス様の奇蹟の担い手となろう
1) 私たちは、どのような奇蹟を期待するのか?
そこでまず考えたいことは、私たちは今でもイエス様に奇蹟を期待しているのか?そうであるならどのような奇蹟を期待しているのか?その動機はどのようなものか?ということです。私たちは奇蹟を期待する者です。憐れみの心、愛する心を持ったとしても神様の介入なしには、十分に人の助けとなることはできないからです。私たちはいろいろな人々のことを心配しますが、イエス様はあなた以上にその人のことを愛し、心にかけておられます。あなたがしてあげられることが少なかったとしても、イエス様に期待することができます。イエス様が奇蹟を起こされるのは、深い憐れみによるのです。自分を神と信じさせるためではありませんでした。グループを大きくするためでもありませんでした。私達がそのような奇蹟を求めたとしても、それは起こらないでしょう。しかし、憐れみは奇蹟を起こします。イエス様の憐れむ者を心から憐れむ時奇蹟は起こります。
2) 私たちに何ができるのか?
イエス様は手品のように、何もないところにパンと魚を出現させたのではありません。弟子たちが持っていたパンと魚を増やしたのです。イエス様は同じように、あなたの持っているものを奇跡的に用いられます。だから自分が持っているものを小さい、乏しい、価値がないと考えてはいけません。自分の持てるものすべてをイエス様に差し出せばそれを何千倍にもして用いて下さいます。 今日の出来事の舞台に、自分がいることを想像してみてください。あなたがイエス様を信頼できず何も期待していないとしたら、あなたはイエス様の回りにいる弟子たちの中でも、群衆の中でもなく、出来事を遠くから見ているのです。あなたが、ただ自分の人生に幸運な奇蹟を期待いるとしたら、あなたは群衆の中にいます。しかしあなたが自分に奇跡が起こることだけではなく、自分を差し出してイエス様と共に人々の人生に奇蹟を起こしたいと願うなら、あなたはイエス様の弟子です。12人の弟子たちと共にイエス様の近くにいるのです。あなたも、群衆の外からでも、群衆としてでもなく弟子としてイエス様の近くで生きて下さい。
メッセージのポイント
イエス様が奇蹟を起こされるのは、深い憐れみによるのです。私たちはいろいろな人々のことを心配しますが、イエス様はあなた以上にその人のことを愛し、心にかけておられます。あなたがしてあげられることが少なかったとしても、イエス様に期待することができます。イエス様は手品のように、何もないところにパンと魚を出現させたのではありません。弟子たちが持っていたパンと魚を増やしたのです。イエス様は同じように、あなたの持っているものを奇跡的に用いられます。だから自分が持っているものを小さい、乏しい、価値がないと考えてはいけません。自分の持てるものすべてをイエス様に差し出せばそれを何千倍にもして用いて下さいます。
話し合いのヒント
1) 5000人の時と今回とはどのような相違点がありますか?
2) イエス様の奇跡を見るために私たちは何をすればよいのですか?
憐れみで奇蹟を起こす (マルコによる福音書8:1-10)
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
A. そこで起きた出来事
1) 5000人の時との違い(マルコ6:3-44,マタイ14:13-21,ルカ9:10-17,ヨハネ6:1-14,列王記下4:42-44)
マルコとマタイ(15:32-39)だけが、この4000人をパンと魚で満腹させた奇蹟を記録していますが、イエス様はそれ以前に5000人に対して同じような奇蹟をなさったことがすべての福音書に記録されています。イエス様は同様の奇蹟をそれ以外にもなさったのかもしれませんが、聖書が記録しているのはこの2つです。これらはユダヤ人ではない私たちにとっては、唐突な奇蹟のように思われますが、当時の人々にとってみれば、それは旧約の預言者の再来、しかもそれをはるかに上回る方の登場を印象づけるものだったのです。列王記下4:42-44に預言者エリシャがパン20個を100人に与えて満腹させ、食べきれずに残したことが記録されています。なぜマタイとマルコは両方の奇蹟を記録したのでしょうか?それは、私達がその違いと共通することの両方から学ぶためでしょう。弟子たちは5000人の時、いままでに見たことのない奇蹟を見せられたのです。それまで、病の人を癒したり、死んだ少女をよみがえらせたりするイエス様の奇蹟を見てきましたが、そのような奇蹟を見せるような者は他にもいたのです。しかし、この出来事はあのエリシャの話でしか聞いたことのない、しかもそれをはるかに凌ぐものでした。ところが、弟子たちは、まだその記憶も新しいうちに、同じような状況に置かれたのに、イエス様が奇蹟を行うことを期待していません。「でも、イエス様、この近くには大きなスーパーどころかローソンもセブンイレブンもありません」的なことを言っています。5000人の時、人々は食べ物よりも神様の言葉に飢え乾いていたのです。それを憐れんでイエス様は、十分与えようとしていたのに 弟子たちは、その日の夕方には人々を解散して帰らせ、自分の町で食べ物を買わせましょうと、イエス様に提案しました。そこから、奇蹟は始まりました。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」「いえ、それは無理です。5000人分買える店はありません。それよりみんなが途中でコンビニに寄って家に帰ればいいじゃないですか」 しかし今回は、もう3日、人々はお腹が減るのも忘れてイエス様の言葉に聞き入っていたのです。弟子たちは、自分たちも夢中で聞いていたからか、あるいは自分の食べ物はちゃんと確保していたからかわかりませんが、人々が弱っていたことには気づいていません。イエス様の方からの弟子たちへの提案でした。
2) 憐れみという動機の重要性
弟子たちとイエス様との違いは、人々を憐れみの目を持って見ていたかどうかの違いです。イエス様にとって人々は、魂もお腹も飢え渇き、弱っている人々でした。人々が満たされていない状態を憐れみ、満たせずにはいられないのがイエス様なら、弟子たちはイエス様に、従って歩きたいと思うほどの魅力を感じながら、イエス様の本質である「憐れみの心」に気付かず、人々をオーディエンスとしかみていないのです。だから5000人の時の奇蹟を目の当たりにしても、単に、「すごいことを見たなー」と感心しただけで、出来事の本質には気付けませんでした。この事の本質について知ることは、イエス様に従ってゆきたいと願っている私達にとってとても重要なことです。
B. イエス様の奇蹟の担い手となろう
1) 私たちは、どのような奇蹟を期待するのか?
そこでまず考えたいことは、私たちは今でもイエス様に奇蹟を期待しているのか?そうであるならどのような奇蹟を期待しているのか?その動機はどのようなものか?ということです。私たちは奇蹟を期待する者です。憐れみの心、愛する心を持ったとしても神様の介入なしには、十分に人の助けとなることはできないからです。私たちはいろいろな人々のことを心配しますが、イエス様はあなた以上にその人のことを愛し、心にかけておられます。あなたがしてあげられることが少なかったとしても、イエス様に期待することができます。イエス様が奇蹟を起こされるのは、深い憐れみによるのです。自分を神と信じさせるためではありませんでした。グループを大きくするためでもありませんでした。私達がそのような奇蹟を求めたとしても、それは起こらないでしょう。しかし、憐れみは奇蹟を起こします。イエス様の憐れむ者を心から憐れむ時奇蹟は起こります。
2) 私たちに何ができるのか?
イエス様は手品のように、何もないところにパンと魚を出現させたのではありません。弟子たちが持っていたパンと魚を増やしたのです。イエス様は同じように、あなたの持っているものを奇跡的に用いられます。だから自分が持っているものを小さい、乏しい、価値がないと考えてはいけません。自分の持てるものすべてをイエス様に差し出せばそれを何千倍にもして用いて下さいます。 今日の出来事の舞台に、自分がいることを想像してみてください。あなたがイエス様を信頼できず何も期待していないとしたら、あなたはイエス様の回りにいる弟子たちの中でも、群衆の中でもなく、出来事を遠くから見ているのです。あなたが、ただ自分の人生に幸運な奇蹟を期待いるとしたら、あなたは群衆の中にいます。しかしあなたが自分に奇跡が起こることだけではなく、自分を差し出してイエス様と共に人々の人生に奇蹟を起こしたいと願うなら、あなたはイエス様の弟子です。12人の弟子たちと共にイエス様の近くにいるのです。あなたも、群衆の外からでも、群衆としてでもなく弟子としてイエス様の近くで生きて下さい。
メッセージのポイント
イエス様が奇蹟を起こされるのは、深い憐れみによるのです。私たちはいろいろな人々のことを心配しますが、イエス様はあなた以上にその人のことを愛し、心にかけておられます。あなたがしてあげられることが少なかったとしても、イエス様に期待することができます。イエス様は手品のように、何もないところにパンと魚を出現させたのではありません。弟子たちが持っていたパンと魚を増やしたのです。イエス様は同じように、あなたの持っているものを奇跡的に用いられます。だから自分が持っているものを小さい、乏しい、価値がないと考えてはいけません。自分の持てるものすべてをイエス様に差し出せばそれを何千倍にもして用いて下さいます。
話し合いのヒント
1) 5000人の時と今回とはどのような相違点がありますか?
2) イエス様の奇跡を見るために私たちは何をすればよいのですか?