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February 5th, 2012 Vol.19 No.6
ユアチャーチの一階、二階、三階
ユアチャーチは三階建ての家です。建物のことを指して言っているわけではありません。ユアチャーチつまり私たちの在り方が、三階建ての構造をしているということなのです。イエス様はたびたび、人生について家を建てることに喩えて教えられました。イエス様が最も強調なさったことは、イエス様の言葉を土台として建てなければ安全な家(幸せな人生)はできない、という事でした(ルカ6:46-49)、教会も同じです。 しかし神様は、私たちが完璧な土台の上に、テントを張って、あるいは簡単な小屋を建てて一生暮らすことは望んでおられません(1コリント3:9-16)。聖書は、私たちがこれからお話しする三階建の家を丈夫な建材で建てあげることを命じています。
A. ユアチャーチの構造
1) 神様ためのフロア(1F)-神様を愛し神様に仕える
三階建ての家の話をするのに二階や三階のことから話し始める人はいません。普通は一階から始めます。二階、三階がない家はあっても一階がない家はありません。私たちもそうです。ユアチャーチの1階は神様のためのフロアです。私たちが「これはあなたのための教会(ユアチャーチ)です。」と第一に言うべきお方は神様だからです。ここで私たちがすることは神様を愛し神様に仕えることです。教会としても、個人としても、一階に神様のフロアがなければ、正しい構造を持った家とは言えないのです。
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)
この一階がしっかりあってこそ、よい二階、三階を持つことが出来ます。多くの人は、神様とは関係(一階)なしに、よい人間関係を持ちたい(二階)、社会に貢献したい(三階)と考えます。それは幻想に過ぎません。99%の人がこのような幻想を抱いて生きているのがこの国なのです。良い人生を望むなら、このフロアにこそ心を、精神を、思いを、力を尽くさなければなりません。それを実践して伝えることが、私達の使命です。 何階建ての家でも普通は一階に入り口があります。教会の入り口が神様のフロアということは、私たちは人々を神様との関係に招き入れることを第一に心がけなくてはならないということです。また私たちが出てゆき帰ってくるのも礼拝の場です。互いに愛し合うこと、世界のために役立つことがいかに大切であっても、神様に礼拝すること以上に大切なことはありません。教会がどんなに楽しいプログラムや、賞賛されるような社会活動に人々を巻き込んだとしても、その人を神様の前に招かないなら、礼拝の場で主を畏れ、癒され,励まされる経験を与えられないなら、教会とはいえません。一階は大事です。一階が丈夫でなければ二階も三階も支えられません。
2) 互いのためのフロア(2F)-互いに愛し仕えあう
しっかりした一階があれば、居心地の良い二階について考えることができます。二階は「互いのため」のフロアです。「これはあなたのための教会(ユアチャーチ)です。」と第二に言うべき人々は、今あなたの周りにいる人々です。ここで私たちがすることは互いを愛し互いに仕えることです。 三階建の家では二階はあまり目立ちません。入り口があるのは一階で、外から目立つのは最上階です。二階は軽視されがちです。感動的な音楽や聖書の教えという満足を得ることのできる礼拝や、人々に誉められる立派な活動に比べて、クリスチャンが互いに愛し合い仕え合うことは、労苦の割に報いが少ないと感じられているようです。イエス様は、「神様を愛しなさい」という第一の掟に続いて、第二の掟について次のようにおっしゃいました。
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:31)
隣人とは誰のことですか?イエス様以前の解釈なら、それはユダヤ人のことを指します。それ以外の異邦人は関係なかったのです。しかしイエス様は、その制限を取り払ってしまわれました。私たちにとっては、イエス様を信じている人も信じていない人もすべての人は隣人です。つまり、イエス様のこの第二の戒めは、二階と三階の両方についての戒めだということです。それではイエス様に従って二階建ての家で良いのではないか?と思われるかもしれません。 私たちがあえて分けて考えようとしているのは、教会内の人と外の人を差別的に付き合いましょうということでは決してありません。それは、神様を信じる者が互いに愛し合い仕え合わないなら、神様の愛は世界に広がらないからです。神様の愛は私たちが愛することによって広がります。しかし、神様の愛で手厚く保護された人間関係の中でさえ愛し合えないなら、その外側で愛を表すことは不可能です。教会の家族は、世界の隣人の中でも最も近くにいる隣人です。この人々を愛し、この人々に仕えることの先に、世界を愛する、世界に仕えるということがあるのです。誰も仲間内で愛し合っていない人に、愛し合いましょうとは言われたくありません。イエス様の愛を伝えたいならイエス様のように愛する人にならなければなりません。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)
世界を舞台に活躍し立派な仕事をしても、最も近くにいる家族を悲しませているなら、その人は偽善者です。世界を愛し、世界に仕えていることにはなりません。 逆もまた同じです。どんなに教会の中に愛があふれているように見えても、その愛が外に向かわないなら、そこであふれているのは自己満足であって愛ではありません。教会は神の国となる世界の小さなモデルです。ここで愛し合うことは、世界を愛する第一歩です。私たちが愛し合うことによって、世界は、教会が尽きることのない愛の泉であることを知るのです。イエス様はこの第二の掟を、別の機会に弟子たちにこう繰り返しています。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)
3) 世界のためのフロア(3F)-世界を愛し世界に仕える
それでは最上階についてお話ししましょう。三階は世界のためのフロアです。私たちは世界に向かって、こう言います。「これはあなたがた全てのための教会(ユアチャーチ)です。」 ここで私たちがすることは世界を愛し世界に仕えることです。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)
私たちが世界(教会の外)を愛し、世界に仕えるとはどういうことでしょうか?世界とは海を隔てた遠い国々のことだけを指すのではありません。ユアチャーチ自体が世界の中に置かれているのです。インドネシアの子供たちを愛するということも、この国の人々を愛するということも、身近にいる人々を愛するということもみな世界を愛するということです。私たちのこのフロアでの仕事はイエス様を紹介することと人々の必要をみたすことです。地域で言えば、それらを組み合わせてできるところもあれば、宣教することを許されていないところもあります。私たちの働きの面から言うならば、宣教、伝道に働きを特化しているキリストの体の一部もあれば、医療や教育などに働きを集中している体の一部、組み合わせて活動している体の一部もあります。 私たちには、時間にも能力にも限界があります。幾つもの舞台を掛け持ちすることは出来ません。誰もが海外の働きをするわけではありません。いろいろな理由でボランティア活動に時間を使えなくても後ろめたく思う必要はありません。祈りの応援、献金の応援で参加することが出来ます。ある人にとっては自分の中心的舞台は家庭です。またある人にとっては学校であり,職場です。けれども、それだけでなく特別な働きをする人を応援することも世界に仕える一つの方法です。
B. この家の機能/建築方法
1)愛すること・仕えること
家にはいろいろな機能があります。雨風、暑寒をしのぐ、食事をする、休息をとる、家族との団欒、子供にとっては学びの場、遊びの場でもあります。ユアチャーチ(わたしたち)は、神様を共に礼拝する場であり、癒し、慰め、励ましを与えたり受けたりする場であり、教育の場でもあり、くつろぎの場でもあります。仕事場でもあり、世界に出てゆくベースキャンプでもあります。しかし私たちがすることはどのフロアであっても基本的には同じです。それは、愛すること・仕えることです。それがわたしたちの果たすべき機能、つまり教会の目的です。
2)OJT工法
最後のどのようにしてこの家を建てあげてゆくかという「工法」についてお話ししたいと思います。愛する人(教会)・仕える人(教会)になる方法はたった一つしかありません。それは自分でやり始めてみるということです。子供は「よい大人になる方法」という本を読んで成長するわけではありません。親や周りの大人の人間関係の築き方、世界に対する態度を見て、少しずつまねをしながら成長してゆきます。イエス様の弟子たちも、イエス様に見習ってやり始めたのです。失敗したり、イエス様に叱られたりしながらも、できるようになっていったのです。私たちには聖書とキリストの体である教会の家族が与えられています。聖書はこの家を建てあげるための設計図です。人生を歩くための地図です。設計図、地図の読み方は、作り始める事によって、歩き始めることによって上達するものなのです。
メッセージのポイント
ユアチャーチは人々が失っている本来の生き方をとりもどすために存在します。私たちの本来の生き方とは、愛すること(=仕えること)。その対象は、神様とすべての被造物です。愛することは読んだり聞いたりするだけでは身に付くことはありません。少しずつやってみることでもっと愛せるようになるのです。愛することを私たち自身から始めるように、神様は私たちをご自身の体であるユアチャーチに招かれ、ユアチャーチの働きに召されたのです。私たちが、この愛を世界に示すことによって世界は本来の健康な在り方を取り戻すことが出来るのです。壮大な仕事です。私たちは、おそらく生きている間に完成を見ることはできないでしょう。しかし、約束の成就を自身の目では見られなかったアブラハムが、モーセが、とにかく神様の約束を信じて第一歩を踏み出したように、私たちも神の国の完成を目指して歩んでゆきましょう。
話し合いのために
1) ユアチャーチはどのような目的で存在するのですか?
2) その目的のために私たちは何をするのですか?
ユアチャーチの一階、二階、三階
ユアチャーチは三階建ての家です。建物のことを指して言っているわけではありません。ユアチャーチつまり私たちの在り方が、三階建ての構造をしているということなのです。イエス様はたびたび、人生について家を建てることに喩えて教えられました。イエス様が最も強調なさったことは、イエス様の言葉を土台として建てなければ安全な家(幸せな人生)はできない、という事でした(ルカ6:46-49)、教会も同じです。 しかし神様は、私たちが完璧な土台の上に、テントを張って、あるいは簡単な小屋を建てて一生暮らすことは望んでおられません(1コリント3:9-16)。聖書は、私たちがこれからお話しする三階建の家を丈夫な建材で建てあげることを命じています。
A. ユアチャーチの構造
1) 神様ためのフロア(1F)-神様を愛し神様に仕える
三階建ての家の話をするのに二階や三階のことから話し始める人はいません。普通は一階から始めます。二階、三階がない家はあっても一階がない家はありません。私たちもそうです。ユアチャーチの1階は神様のためのフロアです。私たちが「これはあなたのための教会(ユアチャーチ)です。」と第一に言うべきお方は神様だからです。ここで私たちがすることは神様を愛し神様に仕えることです。教会としても、個人としても、一階に神様のフロアがなければ、正しい構造を持った家とは言えないのです。
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)
この一階がしっかりあってこそ、よい二階、三階を持つことが出来ます。多くの人は、神様とは関係(一階)なしに、よい人間関係を持ちたい(二階)、社会に貢献したい(三階)と考えます。それは幻想に過ぎません。99%の人がこのような幻想を抱いて生きているのがこの国なのです。良い人生を望むなら、このフロアにこそ心を、精神を、思いを、力を尽くさなければなりません。それを実践して伝えることが、私達の使命です。 何階建ての家でも普通は一階に入り口があります。教会の入り口が神様のフロアということは、私たちは人々を神様との関係に招き入れることを第一に心がけなくてはならないということです。また私たちが出てゆき帰ってくるのも礼拝の場です。互いに愛し合うこと、世界のために役立つことがいかに大切であっても、神様に礼拝すること以上に大切なことはありません。教会がどんなに楽しいプログラムや、賞賛されるような社会活動に人々を巻き込んだとしても、その人を神様の前に招かないなら、礼拝の場で主を畏れ、癒され,励まされる経験を与えられないなら、教会とはいえません。一階は大事です。一階が丈夫でなければ二階も三階も支えられません。
2) 互いのためのフロア(2F)-互いに愛し仕えあう
しっかりした一階があれば、居心地の良い二階について考えることができます。二階は「互いのため」のフロアです。「これはあなたのための教会(ユアチャーチ)です。」と第二に言うべき人々は、今あなたの周りにいる人々です。ここで私たちがすることは互いを愛し互いに仕えることです。 三階建の家では二階はあまり目立ちません。入り口があるのは一階で、外から目立つのは最上階です。二階は軽視されがちです。感動的な音楽や聖書の教えという満足を得ることのできる礼拝や、人々に誉められる立派な活動に比べて、クリスチャンが互いに愛し合い仕え合うことは、労苦の割に報いが少ないと感じられているようです。イエス様は、「神様を愛しなさい」という第一の掟に続いて、第二の掟について次のようにおっしゃいました。
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:31)
隣人とは誰のことですか?イエス様以前の解釈なら、それはユダヤ人のことを指します。それ以外の異邦人は関係なかったのです。しかしイエス様は、その制限を取り払ってしまわれました。私たちにとっては、イエス様を信じている人も信じていない人もすべての人は隣人です。つまり、イエス様のこの第二の戒めは、二階と三階の両方についての戒めだということです。それではイエス様に従って二階建ての家で良いのではないか?と思われるかもしれません。 私たちがあえて分けて考えようとしているのは、教会内の人と外の人を差別的に付き合いましょうということでは決してありません。それは、神様を信じる者が互いに愛し合い仕え合わないなら、神様の愛は世界に広がらないからです。神様の愛は私たちが愛することによって広がります。しかし、神様の愛で手厚く保護された人間関係の中でさえ愛し合えないなら、その外側で愛を表すことは不可能です。教会の家族は、世界の隣人の中でも最も近くにいる隣人です。この人々を愛し、この人々に仕えることの先に、世界を愛する、世界に仕えるということがあるのです。誰も仲間内で愛し合っていない人に、愛し合いましょうとは言われたくありません。イエス様の愛を伝えたいならイエス様のように愛する人にならなければなりません。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)
世界を舞台に活躍し立派な仕事をしても、最も近くにいる家族を悲しませているなら、その人は偽善者です。世界を愛し、世界に仕えていることにはなりません。 逆もまた同じです。どんなに教会の中に愛があふれているように見えても、その愛が外に向かわないなら、そこであふれているのは自己満足であって愛ではありません。教会は神の国となる世界の小さなモデルです。ここで愛し合うことは、世界を愛する第一歩です。私たちが愛し合うことによって、世界は、教会が尽きることのない愛の泉であることを知るのです。イエス様はこの第二の掟を、別の機会に弟子たちにこう繰り返しています。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)
3) 世界のためのフロア(3F)-世界を愛し世界に仕える
それでは最上階についてお話ししましょう。三階は世界のためのフロアです。私たちは世界に向かって、こう言います。「これはあなたがた全てのための教会(ユアチャーチ)です。」 ここで私たちがすることは世界を愛し世界に仕えることです。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)
私たちが世界(教会の外)を愛し、世界に仕えるとはどういうことでしょうか?世界とは海を隔てた遠い国々のことだけを指すのではありません。ユアチャーチ自体が世界の中に置かれているのです。インドネシアの子供たちを愛するということも、この国の人々を愛するということも、身近にいる人々を愛するということもみな世界を愛するということです。私たちのこのフロアでの仕事はイエス様を紹介することと人々の必要をみたすことです。地域で言えば、それらを組み合わせてできるところもあれば、宣教することを許されていないところもあります。私たちの働きの面から言うならば、宣教、伝道に働きを特化しているキリストの体の一部もあれば、医療や教育などに働きを集中している体の一部、組み合わせて活動している体の一部もあります。 私たちには、時間にも能力にも限界があります。幾つもの舞台を掛け持ちすることは出来ません。誰もが海外の働きをするわけではありません。いろいろな理由でボランティア活動に時間を使えなくても後ろめたく思う必要はありません。祈りの応援、献金の応援で参加することが出来ます。ある人にとっては自分の中心的舞台は家庭です。またある人にとっては学校であり,職場です。けれども、それだけでなく特別な働きをする人を応援することも世界に仕える一つの方法です。
B. この家の機能/建築方法
1)愛すること・仕えること
家にはいろいろな機能があります。雨風、暑寒をしのぐ、食事をする、休息をとる、家族との団欒、子供にとっては学びの場、遊びの場でもあります。ユアチャーチ(わたしたち)は、神様を共に礼拝する場であり、癒し、慰め、励ましを与えたり受けたりする場であり、教育の場でもあり、くつろぎの場でもあります。仕事場でもあり、世界に出てゆくベースキャンプでもあります。しかし私たちがすることはどのフロアであっても基本的には同じです。それは、愛すること・仕えることです。それがわたしたちの果たすべき機能、つまり教会の目的です。
2)OJT工法
最後のどのようにしてこの家を建てあげてゆくかという「工法」についてお話ししたいと思います。愛する人(教会)・仕える人(教会)になる方法はたった一つしかありません。それは自分でやり始めてみるということです。子供は「よい大人になる方法」という本を読んで成長するわけではありません。親や周りの大人の人間関係の築き方、世界に対する態度を見て、少しずつまねをしながら成長してゆきます。イエス様の弟子たちも、イエス様に見習ってやり始めたのです。失敗したり、イエス様に叱られたりしながらも、できるようになっていったのです。私たちには聖書とキリストの体である教会の家族が与えられています。聖書はこの家を建てあげるための設計図です。人生を歩くための地図です。設計図、地図の読み方は、作り始める事によって、歩き始めることによって上達するものなのです。
メッセージのポイント
ユアチャーチは人々が失っている本来の生き方をとりもどすために存在します。私たちの本来の生き方とは、愛すること(=仕えること)。その対象は、神様とすべての被造物です。愛することは読んだり聞いたりするだけでは身に付くことはありません。少しずつやってみることでもっと愛せるようになるのです。愛することを私たち自身から始めるように、神様は私たちをご自身の体であるユアチャーチに招かれ、ユアチャーチの働きに召されたのです。私たちが、この愛を世界に示すことによって世界は本来の健康な在り方を取り戻すことが出来るのです。壮大な仕事です。私たちは、おそらく生きている間に完成を見ることはできないでしょう。しかし、約束の成就を自身の目では見られなかったアブラハムが、モーセが、とにかく神様の約束を信じて第一歩を踏み出したように、私たちも神の国の完成を目指して歩んでゆきましょう。
話し合いのために
1) ユアチャーチはどのような目的で存在するのですか?
2) その目的のために私たちは何をするのですか?