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February 12th, 2012  Vol.19 No.7


わたしの後に従いたい者は・・・
マルコによる福音書 8:22-38

先々週の話を憶えていますか?船の上で、パンがひとつしか無かったことに気を取られて、弟子たちがイエス様の話を正しく聞きとる事が出来なかった事を通して、状況に左右されずに、イエス様を信頼し従ってゆくことを学びました。今朝は、その後ベトサイダというガリラヤ湖北岸の地域に到着した後のエピソードから、イエス様に従うために大切な3つのことを心に留めたいと思います。

A. 触れていただき癒されよう(22-26)

一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。(22-26)

ベトサイダの町に上陸したイエス様と弟子たちが一つの集落に入ると、人々は一人の盲人を癒していただきたいとイエス様にお願いしました。福音書はイエス様の癒しを沢山記録していますが、この時の癒しは少し変わっています。患部に唾を付けて癒すことは他でも記録されているのですが、特にユニークなのは段階的に癒されている点です。癒しは瞬間的に起こるとは限らないということです。また、イエス様はデモンストレーションとして、癒されているのではないことがよくわかります。わざわざ村の外に連れ出し癒されました。しかも、癒されたことを言いふらさないように村に入ることを禁じています。これらのことから私たちは、イエス様が様々な方法で癒してくださること、少しずつ癒されることもあること、人々の関心を得るためではなく、その人が見えるようになるために、また信じる者たち(弟子たち)のためのしるしとして癒されることを知るのです。  イエス様に従ってゆくために、触れていただくこと、癒していただくことは私達にとっても出発点です。長い間イエス様を知らずに歩んできたなら、心にも体にも様々な傷を負っているはずです。怒り、疑い、不安感といった心を圧迫するものもあれば、それが身体的な不調として現れることもあります。それを持っているままでは、心置きなくイエス様について行くことができません。心傷ついた者が癒されていないなら、人を癒したくても逆に傷つけてしまうといったことが起こります。心の癒しは時間をかけてなされることも多いのです。自分の問題を癒されないと諦めてしまわずに、イエス様との親密な長い交わりの中で癒されてゆくことを期待し続けましょう。

 
B. イエス様を正しく知ろう

イエス様たちはベトサイダからさらに50キロほど北上してフィリポ・カイサリア地方に向います。第二のエピソードは、その道の途中での出来事です。

1) メシア Messiah (27-30)

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。(27-30)

イエス様は様々な評判を持たれていたようです。しかしそれはどれも的を射てはいませんでした。ペトロは弟子たちの答えを代表して「あなたは、メシアです」と答えます。それが正解です。(ギリシャ語のクリストゥスにはイエス様を指す固有名詞と、ヘブル語では、油注がれた者という意味のマーシャの訳である普通名詞という二つの意味があり、新共同訳やTNIVなど最近の訳ではキリスト(Christ)、メシア(Messiah)というように区別して語があてられています)メシアとは油を注がれたものという原意で民を苦しみから救うために神様によって立てられた者を指します。ダビデもサムエルに油を注がれて王となったのです。弟子たちもそのような優れた権力者というイメージで「あなたはメシアです」と答えたのです。イエス様はその言葉を否定なさいませんでしたが、その意味するところは全く異なっていました。武力や経済力、思想、宗教では、本当に人を救うことはできません。また、神様が作ったのはイスラエル人だけではありません。どんなに優れた人間も完全なメシアにはなれないのです。イエス様は全ての人を罪から解放する唯一の、本当の、完全なメシアとしてこられたのです。なぜイエス様だけが完全な救いといえるのか?31-33節を読んでみましょう

 
2) 十字架と復活(31-33)

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(31-33)

弟子たちはイエス様がおっしゃったことに、全く賛成できませんでした。イエス様が死んだら新政権の計画はおしまいだ思ったのです。現状から見て、イエス様が捕らえられて処刑されるということにはリアリティーがありましたが、三日目に蘇るということは意味を測りかねたのです。しかしそれは、イエス様にとっては言葉通りの意味だったのです。人が神様との最初の親しい関係を取り戻すことが救いであり、そのためにはイエス様が十字架について死ななければならないこと。死の力に打ち勝ってよみがえることによって信じる者に永遠の希望、永遠の命を与えることこそ真のメシアの印なのです。弟子たちが受け入れられなかったのも無理はありません。そんなアイディアも連想できる事柄も過去には全くなかったのです。しかしイエス様の見方からすれば、その極めて常識的な弟子たちの反応こそ、例外なく全ての人の持っている罪:神のことを思わず、人間のことを思うこととしてはっきりと否定されなければならなかったのです。

 
C. 自分を捨て自分の十字架を負おう

3つ目のエピソードは、ペトロをお叱りになった後イエス様が弟子たちだけではなく群衆をも呼び寄せて教えられたことです。

1) 福音のために命を捨てるとは?(34-37)

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(34-37)

「自分を捨てる」とは、自己中心的な生き方、利己的な生き方をやめるということです。それを口で言うのは簡単です。しかしそれには苦しみが伴うのです。だからイエス様は「自分の十字架を背負って」とおっしゃるのです。イエス様もそうなさったように、十字架刑に処せられる者は刑場まで自分で横木を背負って向かわなければなりませんでした。イエス様を友として生きようとするなら、イエス様を敵とみなす者からは敵視されます。それが実際に命を落とす危険である時もあったのです。しかし「福音のために命を捨てる。」ということはそのような究極の状態を指すだけではありません。人生を福音のために生きるということです。それを求められているのは牧師だけではありません。イエス様はこの話を、弟子たちだけにではなく、わざわざ群集を呼び寄せてしておられるのです。あなたが本当にイエス様を信じたことが人生最大の幸せと思うなら、それを人々に伝えることを最高の幸せと考えるはずです。イエス様に愛されていることが最高の喜びだと心から思うなら、人々を愛することを最高の喜びと思えるでしょう。そのように歩むことが「福音のために命を捨てる」ことなのです。

 
2) イエス様の歩みをならい、その言葉で生きる (38)

神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(38)

イエス様の価値観、イエス様の世界観を恥じている者は多いのです。自分を熱心なクリスチャンとみなしながら、イエス様とは全く違う価値観で生きている人が大勢います。イエス様を知らないのでそうしている人の方がずっとましです。

かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:22,23)

こう言わなければならないのは全く恥ずかしく残念なことですが、今日では教会の牧師だから、有名な伝道者だから、癒しや預言が優れているから、イエス様の価値観で生きている人と単純にはいえないのです。そのような人々がイエス様の評判を落とすようなことを起こしているからです。皆さんは講壇から語られる言葉を鵜呑みにするのではなく、イエス様とその言葉を自分でよく味わい、よく考え、よく祈り、人にではなくイエス様に従って下さい。私の牧師としての責務は、イエス様の言葉を取り次ぐだけでなく、私がイエス様とその言葉から逸脱した時には、その間違いを正せる程、皆さんにイエス様と親しくなってもらうこと、成長してもらうことなのです。


メッセージのポイント
イエス様とその言葉を誇る者を、イエス様は誇りとして下さいます。私たちはイエス様に近づくことから始まる信仰の成長のプロセスを、イエス様を誇りとしながら歩んでゆきましょう。誰でも自分の中に、イエス様に触れられて癒していただかなければならない部分があります。まず主に触れていただくことを願い、主に近づきましょう。主に触れていただく経験を通して、私たちは強くされるばかりか主ともっと親しくなれるのです。そして次に思い込みではなく本当に主に従うことが出来るように、主が自分にとって、また世界にとってどのような方であるかを正しく知ることを求めましょう。しかしそれを知っても、私たちは主に従ってゆくためにもう一つのことをしなければなりません。ここで「自分を捨て、自分の十字架を負う」と表現されていることです。それは、自分の欲望を満たすことを目的とするのではなく、神様が自分に与えられた使命のために生きるということですが、それが今の自分にとってどのようなことを意味するのかということをよく考えてみましょう。

話し合いのヒント
1) 自分の十字架を背負うとは?
2) イエス様はどのような人を誇るのでしょうか?