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February 19th, 2012 Vol.19 No.8
ペトロ、ヤコブ、ヨハネ マルコによる福音書 9:1-13
A. 三人の弟子が見せられたこと
1) イエス様の変貌 (1-3)
また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。(1-3)
イエス様と弟子たちを取り巻く状況は、どんどん厳しいものになって来ていました。当時の権威権力はイエス様を恐れ、なんとか口実を作って殺してしまいたいと考えていたのです。弟子たちは、イエス様の語る「神の国」の到来の希望と、目に見える現実とのギャップに苦しんでいました。いろいろな解釈がなされる個所ですが、イエス様は、神の国の(完成ではなく)到来が近いことを告げて、弟子たちを励ますためにこのようにおっしゃったのだと思います。先週読んだように、ここには弟子たちと共に多くの人々がいました。その中には、使徒たちと共に復活のイエス様を目撃したものも、聖霊が豊かに人々に臨み、初の教会が始まった時の3000人の中にいた人も含まれていたのではないでしょうか?一方で弟子であったのにイエス様に背を向けたユダを始め、十字架と復活を通しても、ペンテコステの出来事があっても、到来していた神の国に気づけなかった人もいたのです。この神の国の到来を味わい、イエス様が天に戻られてから、その意思をついで最初の教会を指導したここにイエス様と登場する三人の弟子こそ、その代表的な人々です。彼らは、ユダのような実務家でも、パウロのような思想家でもなく、イエス様が「人間をとる漁師にしよう」とお招きになったガリラヤ湖の漁師です。他の誰よりも単純にイエス様を愛し、ついてゆきたいと願っている彼らこそリーダーに相応しい人々でした。イエス様はそのような彼らに特別な体験をさせました。議論で人を負かす知識も、財テクで教会を富ませる能力もない彼らには、純粋な信仰が失われないような霊的な現実を目に焼付けることが必要だったのです。イエス様の姿は今までに見たことのないような神々しさを帯びて彼らの目の前で変化しました。イエス様が先生、指導者を越えて存在であることを彼らは体験したのです。さらに彼らが驚くような光景が始まります。4−8節を読みます。
2) 律法の代表モーセ、預言者の代表エリヤとの会見 (4-8)
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 (4-8)
モーセもエリヤもユダヤ人にとっては、特別な存在です。モーセは律法の象徴であり、エリヤは預言者の代表と考えられていたのです。弟子たちは、そのような人々が目の前に現れてイエス様と話し始めるのをみたのです。ただ恐れ、混乱し、何と言っていいかわからず、ペトロはこのように言ったのです。黙っていられないペトロ!しかし、この的外れな提案に神様が答えられたのです。そして、モーセでもエリヤでもなくイエス様を愛する子と呼び、これに聞けといって、イエス様が旧約の二人を超えた存在である事が弟子たちにもわかるのです。イエス様は旧約時代の神様の民に対する、律法と預言を完成して神の国を実現する方なのだということが明らかにされました。このことはショッキングな十字架の出来事によって、一時は、弟子たちの頭からは飛んでしまったようですが。復活とペンテコステの出来事を通して、イエス様を主と信じる者の共通の認識となったのです。怖くても、混乱していても、イエス様に何か言ってみたくなったら口に出してみましょう。そのくらい、イエス様のなさることに関心を持ち、その働きを自分も担っているという自覚が大切なのです。三人が神様の声を聞くという恐ろしい経験をした次の瞬間、もうそこにはエリヤもモーセも見えずイエス様だけがそこにいました。イエス様は単なる先生、指導者ではないことが彼らにとって明らかになりました。しかしそれは、イエス様に従って行こうとする者にとって絶対に必要な理解:イエス様が私たちの罪のために十字架にかけられ死なれたこと、と復活されたイエス様との出会い体験の予告に過ぎませんでした。だからイエス様は次のように言われました。9,10節です。
B. イエス様が三人に伝えたこと
1) イエス様の死と復活こそ福音の中心 (9,10)
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(9,10)
イエス様は、山を降りたらそこでの経験の自慢話をしたいと思っている三人に釘を刺すように「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」とおっしゃいます。彼らにこのような体験をさせたのは、イエス様が特別な方だと宣伝させるためでもか、自分たちはその特別な方の特別な弟子だと自慢させるためでもありませんでした。ただ十字架と復活という福音の中心をはっきり理解し、そこから離れることなく教会を建て上げてゆくことができるようになるための準備の一つだったのです。ここから私達がしっかりと覚えておかなければならないことは、癒しとか預言とか、不思議、奇蹟、聖霊の賜物と呼ばれる不思議な力といったものは、神様の素晴らしい恵みではあっても、恵みの中心、福音の中心ではないということです。イエス様が十字架にかかってくださったので、私達が赦され神様との本来の関係を取り戻せたこと、神様は主イエスキリストとして今も共にいてくださること、これに勝る良い知らせはないのです。この事を忘れれば、教会は自分たちに利益、繁栄をもたらすための力の現れのフォーカスする不健康なものになってしまいます。
2) エリヤ再来の預言はバプテスマのヨハネにおいて成就した (11-13)
そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(11-13)
ユダヤ人の間では、メシアが現れる前に再びエリヤが現れて、準備をすると考えられていました。弟子たちがこのように聞いたのは、イエス様がメシアであるなら、その前に現れるべきエリヤはどうなっているのかという、素朴な疑問です。 イエス様はそれに対して、エリヤが現れるということは旧約聖書にも書かれており(マラキ3:23<4:5>)律法学者が言っているとおりであるとお答えになりました。イエス様はバプテスマのヨハネこそ再来したエリヤであるということを以前(マタイ11:9-14)から教えていました。そこで、その後に現れたイエス様がメシアであるということを認めずに、単なる反逆者、偽メシアとして殺そうとしている律法学者たちの行動こそ皮肉なことに、イザヤ書53章などの預言を成就させ、イエス様がメシアであることを証明することになるのです。どんなに大きな力を持っていても、神様の計画を潰すことができる人はいません。人々はメシアを認めず。殺し、その教えを封じ込めようとしてイエス様を十字架にかけてしまいますが、イエス様の教えをとどめることは出来ませんでした。歴史の中で多くの人々が、イエス様を主と信じていることを理由に命を奪われてきましたが、福音を葬ることは出来ませんでした。福音は真理だからです。真理には力があるのです。あなたも、この良い知らせを自分のものとして下さい。自分のものとなっている人は、誰かに伝えて下さい。安心してこの事に励みましょう。私たちの目にはなかなか伝わっていないように見えても、福音を押しとどめることの出来る者はいないということを忘れずに、愛し続けましょう。祈り続けましょう。
メッセージのポイント
弟子たちはイエス様が何か特別な方であることは気づいていましたが、まだよくわかってはいませんでした。イエス様は何度か御自身の死と復活について口にされましたが、とても事前に理解できることではありません。しかしこの三人には、イエス様が復活し天に帰られた後、大きな役割を果たすことが期待されていたのです。イエス様は、彼らが教会を始め、人々を正しく導いてゆくために、出来事を誰よりも正確に知っていてもらいたかったのです。イエス様の弟子たちは様々でしたが、この三人は、学もなく、地位が高くも、教師や指導者としての経験もありませんでした。そのような観点でリーダーを選ぶなら彼らではなかったはずです。信仰の成長は知識の集積によるのではありません。主と共に歩むことによって得られる経験によるのです。
話し合いのヒント
1) なぜイエス様は三人の弟子だけにこの体験をさせたのでしょう?
2) エリヤとモーセの登場にどのような意味があるのでしょう?