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March 4th, 2012 Vol.19 No.10
仕える者になりなさい マルコによる福音書 9:30-37
A. 歴史の原点
1) 弟子たちだけに予告されたイエス様の死と復活 (30,31)
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。(30,31)
イエス様は、弟子たちがこの時点では正しく理解できなかったとしても、これから起こる出来事について、彼らの心に刻みつけておきたいと思われたのです。それが十字架にかかられる前のイエス様にとっての最優先の事柄でした。だから、弟子たち以上にイエス様に対して新しい権力者となるという誤った期待をしていた人々や、最初からイエス様を異端者としか見ていない宗教家たちに煩わされることを避けておられたのです。今私達がその意味を正しく伝えられてキリストの体の一部として歩むことができていることは、弟子たちが実際に十字架と復活を目の当たりにして正しく理解することができたということを証明しています。イエス様が一番大切なこととして伝えたかったことは、最初の弟子たちによってパウロにも伝えられ(最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと 1コリント15:3,4)2000年の時を経てもそのまま私達が最も大切なこととして信じていることです。この出来事によって私たちは、どのような時でも希望を持ち続けることができます。その意味で十字架と復活は歴史の中で最も重要な、数学で言えばX軸とY軸の交わる原点のような出来事なのです。だから私たちはパウロと同様に今でもこの事を最も大切なこととして伝え続けています。
2) わからなくても尋ねられない心理(32)
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。(32)
弟子たちには、これから起こる出来事が予告されていました。しかしそれはあまりにも恐ろしい事だったので、受け入れることができませんでした。イエス様が殺されてしまえば、バプテスマのヨハネ同様、イエス様の宣教はそこで終わってしまうとしか考えられませんでした。後半の「三日の後によみがえる」という言葉は彼らの心には全く引っかかりませんでした。無理もありません。殺された人が復活することなど見た事も聞いた事もなかったのです。イエス様の言われることであれば間違いではない、それが分かっているからこそ、弟子たちは理解出来ないからといって「はっきり教えていただこう」とは思わなかったのです。恐ろしい話、否定的な話を聞きたい人はいません。もしそれを聞けば自分の夢や計画は変更しなければならないのです。そのようなことは出来れば聞かずに済ませてしまいたいと誰でもが思うのです。この心理は今、「イエス様を信じ従いましょう」と皆さんに勧められる人々の心にも働きます。十字架という酷い出来事、復活という奇蹟はそれまで持っていた常識では受け入れがたいことなのです。しかもそれが「あなたの罪のためなのです」と言われても、納得できません。私たちの回りにいる人々はそういう人々なのだという事を知りましょう。私たちは彼らを説得するために遣わされているわけではありません。イエス様に仕える者としてその人に愛を持って仕えましょう。信仰を持って下さいとお願いする必要はありません。私たちは神様に祈るべきです。私達ができることは伝えることと仕えることです。
B. 仕える人となる
1) 仕えてもらう人になりたい私たち(33,34)
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。(33,34)
私たちの厄介な心理が、弟子たちと共通するものであることがここでわかります。誰が一番偉いのかといったような議論が恥ずかしいことであることは、弟子たちも知っていました。そんな考えはイエス様の考えとは正反対だという事は分かっているのです。それでも、私たちには、仕える者であるよりも仕えられる者になりたいという思いがあります。イエス様から聞いた、十字架と復活という重要なことに関しては、怖いしわからないので棚上げしながら、誰が一番偉いのかという議論をすることが出来るのです。私たちがイエス様の弟子たちを笑うことが出来るでしょうか?私たちは自分より優れた者を妬み、劣った者を軽蔑します。しかもその基準は自分勝手なものにすぎません。イエス様がそのような基準自体が間違っていると御自身の言葉で教えて下さった「この世界の基準」で、誰が偉いかの議論が教会の中でも起こるのです。ですからイエス様はここでしっかりと教えなければならないとお考えになったのでしょう。35節です。
2) いちばん先になりたい者は、すべての人の後になりなさい (35)
イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35)
イエス様が座ってお話になるのは、特に重要な教えを伝える時です。たとえ、十字架と復活を信じたとしても、弟子たちが仕える人になろうとするのでなければ、それを本当に理解したことにはなりません。仕えてもらいたい私たちに、イエス様は、仕える者になりなさいというのです。この事について私たちは何度も失敗します。キリストの体である教会もその失敗を繰り返してきました。私が支配者であるならユアチャーチはキリストの体ではありません。失敗してしまう私たちに、イエス様は何度でもそう呼びかけられるでしょう。仕えてもらいたい私達が仕える者になるのは大変です。しかし良い方法があります、それはイエス様に仕えるという意識を持つということです。他の人とはともかく、イエス様に対してどちらが偉いかと議論を仕掛ける人はいないでしょう。イエス様に仕えることには異存はないはずです。あなたの主であるイエス様がその時時に、どのような態度、行動を求められるのか、注意深く聞いて下さい。そうすればあなたはもっと仕える人になれるでしょう。
3) 小さな者を受け入れないなら、それは神様を受け入れないこと (36,37)
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(36,37)
イエス様は小さな者とおっしゃって子供の手をとって弟子たちの真ん中に立たせました。当時の社会では、今以上に子供の権利人権は無視されていました。子供だけではありません、女性もそうでした。病気の者や障碍をもった人々もそうです。彼らは十分に顧みられないばかりか、価値のない者、劣った者、宗教的には汚れた者とさえ見做されました。たとえば5000人の人がパンと魚を頂いた奇蹟の出来事について、「食べた人は女と子供を別にして、男が5000人ほどであった」(マタイ14:21)と表現しているように、人の数といえば大人の男の数だけを指す社会だったのです。しかしイエス様の眼差しは、虐げられた者たちに向けられていました。弟子たちは、女性や子供たちに心を向けるイエス様に驚いていたはずです。成人男性以外は人の数には入っていない社会だったのですから。ところが、そのような者を受け入れることがイエス様を受け入れるということであり、つまりそれは神様を受け入れることになるのだ、とイエス様はおっしゃるのです。私達が仕えるべきなのは、自慢できるような権力者でもなければ、サラリーをたくさんくれる社長でもなく、あなたが軽蔑するか、見てみないふりをしたくなるような人なのだとイエス様はおっしゃるのです。
メッセージのポイント
弟子たちはイエス様に政治的にも宗教的にも権威を持つ指導者になってもらいたかったのです。そして、イエス様が政権、教権を持ったとき、自分たちの誰がより高い地位に着くかということが彼らの関心事でした。それは、弟子たちも私たちも持っている「人よりも優位に立ちたい。仕えるより、仕えられる人になりたい」と思う性質から来るものです。しかしイエス様にはそのような思いは全くありません。イエス様は、全ての人が仕えるべき神様でありながら、全ての人に仕えるという在り方を十字架に至る地上での歩みとして表されたのです。イエス様に従いたいと思う者は、自分の持つイエス様とは正反対の罪の性質をコントロールしながら、イエス様のように考え、行うことを求められています。
話し合いのヒント
1) なぜ弟子たちはイエス様の言葉を受け入れられなかったのですか ?
2) 子供を受け入れる者が、神様を受け入れる者といえるのはなぜですか?