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March 11th, 2012  Vol.19 No.11


イエス様が受け入れる二種類の人々
マルコによる福音書 9:38-41

A. イエス様の名で働きをする人 (38-40)

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38) イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。(39) わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。(40)

1) 私たちはイエス様のように考えられない

ヨハネやイエス様の最も近くにいた弟子たちは、いつの間にか自分たちが権威なのだと、勘違いしていたようです。今でも教会が勘違いしやすいポイントです。私たちはイエス様に従う人々の全体を把握しているわけではありません。それなのに、自分たちに唯一の権威が与えられているかのように振る舞い他を裁きます。私達が関心を持つべきなのは、まだイエス様を知らない人々なのに、イエス様の名によって生きている人々に対して、おせっかいをしたくなるのです。「私たちだけが正しい教会で、私たちに従わなければいけません。この教会を出たら祝福がありません。」などと言い始めれば、それはその教会がカルトに転落してゆく第一歩を踏み出した証拠です。目に見える一つ一つの教会は、イエス・キリストを頭とする体の一部なのです。ある部分が健康なのか、不健康なのか、切除してしまわなければ他に悪影響をおよぼすほど状態なのかを判断するのは頭であって、他の肢体ではありません。それぞれが役割を負って存在しています。そのことを謙虚に受け入れて他の部分を尊敬し、祝福するなら、私たちも祝福されるでしょう。

 
2) 自分の味方ではなくイエス様の味方を考える

自分たちの考え、方法が優れていると誰もが思いがちです。他の人も自分たちのようにすればいいのにと思ってしまいます。けれども人の個性はみな違うのです。すべての人々を自分のようにしようとするなら、実際にはそんなことはできませんが、キリストの体はバランスのかけたグロテスクなものになってしまいます。私たちは、世界中の人を「自分の」弟子としなさいと命じられているのではありません。「イエス様の」弟子になることを勧めるように命じられているのです。聖書の主題は天国か地獄かといった「死ぬこと」ではありません。イエスキリストの弟子として生きることなのです。他のイエス様の弟子を自称する人々が、イエスキリストの名によってしていることに、基本的には口を挟むべきではありません。但し、それが明らかにキリストの体を蝕むものであるなら、独断ではなく他の多くの部分とともに警告しなければならないでしょう。それは、要するに誰が自分の味方なのかを考えるのではなく、イエス様の味方なのかを考えるということです。それを見誤らないためには、聖書の言葉に親しみ、よく祈り、イエス様だったら、どうする、どういう、どう考えるかとイメージすることです。次の一節は、イエス様の考えがどれほど広いかをよく表しています。

 
B. キリストの弟子に一杯の水を差し出す人 (41)

はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41)

1) 対象(伝道の)ではなく友

弟子たちは置かれている状況に少しイライラしていたのかもしれません。イエス様は、自分が殺されるのだと恐ろしいことを口走るし、自分たちが互いに誰が一番偉いという話は結論が出ないし、自分たちの知らない人が、イエス様の名前で悪霊を追い出して人々の歓心を買っている。私の立場はどうなるのか?  しかし、イエス様はそのような人々を味方とみなし、さらに「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」とまでおっしゃるのです。  弟子たちにとっては、イエス様を中心とする自分たちのサークルの外にいる者は皆、自分たちの仲間にさせるべき対象でしかありませんでした。しかしイエス様にとっては、対象ではなく友と映るのです。弟子の働きは、直接イエス様の言葉や聖霊の力によって支えられるだけでなく、人々の助けによって進めることが可能なのです。そして、そのような人々がサークルの中に入ってこなくても、イエス様は彼らに豊かな報いがあるというのです。私たちも、人々をイエス様のように見るべきです。イエス様を信じていなくても、あなたの弟子としての働きを喜び、一杯の水以上のことをしてくれた人がいるはずです。イエス様はこの人々が報いを受けるとおっしゃいますが、教会は、どんなに良いことをしてくれようが、教会という建物に足を運んでクリスチャンにならなければ意味がないと言ってきたように思えます。しかし私たちは教会が建物ではないことを知っています。

 
2) イエス様を紹介する方法を再考しよう

あなたがイエス様を大好きなら、イエス様を紹介したいというのは自然な気持ちです。あの人と一緒に礼拝することができたらどんなにうれしいだろう、と思うのは当然です。しかしちょっと考えてみて下さい。このサークルの中にその人を連れてくることが目的なのでしょうか?それでは弟子たちと同じ間違いをすることにならないでしょうか? 最近、読み始めた本があります。題名は「彼らを教会に招いてはいけない」で、副題として「来て・見よ」から「行って・教会となれ」というのです。 (Don't Invite Them to Church -Moving From a Come and See to a Go and Be Church) もし本当にあなたが隣人を知り彼らを愛したいなら、教会に誘うのではなく(あなたが)教会になりなさい。という趣旨です。あなたがユアチャーチの一部であるならば、キリストの体の一部なのです。教会はあなたの行くそこに存在し機能しているのです。あなたはここで過ごす時間の何倍もの時間をそこで過ごします。あなたはそこで一人ではありません。イエス様と共にそこにいる人々を愛するのです。 新約聖書は、水を差し出す人への報いと関連する言葉をいくつか提供してくれていますが二つ紹介しておきます。

二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16:31)

また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。 (1コリント13,14a)

 
メッセージのポイント
弟子たちは、イエス様の名によって何かをすることを自分たちだけで独占していたいという気持ちを持っていました。私たちも同じ傾向を持っていてイエス様を悲しませたり、困らせたりすることがあります。イエス様は私たちよりもはるかに寛容な方で多くの者を受け入れているのに、イエス様の弟子である私たちの方で勝手に判断して、自分の味方をイエス様の味方とみなし、イエス様が受け入れているのに自分の気に入らない人を「イエス様の敵」としてしまうことがあるのです。さらに私たちは、そのような自分たちの基準で人を単純に区別して、この人が天国行き、この人は地獄行きと決め付けます。私たちは自分の視野がイエス様よりも狭いことを認めてもっと謙遜であるべきです。私達が命じられていることは、天国行きの切符を発行することではなく、イエス様に従って歩むことの素晴らしさを、身を持って伝えることです。

話し合いのヒント
1) なぜ弟子たちはイエス様の名によって悪霊を追い出すことをやめさせたのでしょうか?
2) キリストの弟子に一杯の水を差し出す人とは?