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March 25th, 2012 Vol.19 No.13
神様の基準と人の基準 マルコによる福音書 10:1-12
1) 律法は解釈された人の基準 (1-5)
イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。(1-5)
ファリサイ派の人々はイエス様を逮捕する正当な理由を欲しがっていました。正当な理由とは律法違反のことです。なんとか言葉じりを捉えて、イエス様の発言から律法違反を証明したくていろいろ質問したのです。しかしイエス様はその質問に直接お答えにならず、「モーセはどう命じたか」と逆に聞き返されます。それは律法の基準です。そして当時の人々にとっては律法すなわち神様の基準でした。申命記4章には、男は離縁状を出すことによって妻を離縁できると受け取れる事が書かれています。しかしイエス様は、律法=神様の基準ではないということを明らかにしました。律法は神様の意思を正確に表現しているわけではなく、人の心がかたくななので神様のほうが譲られた結果です。同じような例は他にもあります。イスラエルの民は、周りの国々と同様に王が欲しいと預言者サムエルに求めました(サムエル記上8章)。謙虚に神様に従うなら、人間の王などいなくてもイスラエルの平和は十分守れたのです。しかし彼らは神様を信頼することができませんでした。それで、神様は王を立てることを許されました。しかし神様の警告どおり、正しく裁く王は多くはなく、やがて国は分裂し、ついに滅びてしまうことになります。 彼らの大切にしていた律法は、神様の戒めに人の解釈を加えた純粋なものではありませんでした。イエス様は彼らに、神様の基準は律法よりさらに厳しいことを告げたのです。6−9節を読みましょう
2) オリジナルは神様の基準 (6-9)
しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(6-9)
イエス様が初めて言った言葉ではありません。創世記2:24を引用されているのです。神様は最初から、妻は夫の財産とは考えていませんでした。だから創世記2:24は聖書の書き手たちが時代の制約で、男性中心に書かざるを得なかったし、神様を父と言わざるを得なかったにも拘らず、男も女も神様の目には等しく大切な存在であることがわかる個所なのです。「だから」以降はイエス様の言葉です。人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。そこからイエス様は神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。と受け止められるのです。ファリサイ派の人々の解釈とどちらが理にかなっているでしょう。結婚式では、ふたりがこの相手を神様が合わせて下さり一体とされたものとして生涯をかけて愛し、守り、共に歩んでゆこうと誓います。しかし誓いだけでは実現できないのです。どちらもが神様を信頼していなければ実現しません。自然だけれども難しいことです。それは結婚に関してだけではありません。人のあらゆる営みに於いて、神様の基準を100%クリアできる人はいないのです。 私たちの中には、最初の結婚がうまくいかなかった人がいます。イエス様は、結婚を安易に解消できるものだとはお考えになりません。どんな離婚であれ100%正当な理由はないのです。互いに誓いを守れなかったのには、責任の割合の違いはあっても、どちらに100%責任があるということはないのです。だからイエス様は「人は離してはならない」とおっしゃるのです。しかしイエス様は、私たちの人間関係の葛藤をよくご存知で、憐れんでくださる方です。私たちの弱さを知っています。神様は、到達できない私たちを赦してくださいますが、基準を引き下げる方ではないのです。だから、赦しがあるのです。そのためにイエス様はこの世界に人としてこられたのです。幸いにも最初の結婚を続けられている人々は、それを誇ってはいけません。それはただ神様の憐れみ、恵みによって守られてきたからであり、あなた方が完璧であったからではないのです。誇るのではなく感謝して、守り続けていただけるよう祈りましょう。 姦淫の罪で石打にされようとした女性を前にイエス様は何とおっしゃったか憶えていますか?(ヨハネ8:1-11) この女をどうすべきかと、問われて人々に「罪のないものから石を投げなさい」と言われました。誰も投げることができませんでした。100%正しい人間はいないのです。誰もいなくなるとイエス様は、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。このイエス様の「これからは、もう罪を犯してはならない」は「今度やったら、私はあなたを石で打ちます」というという意味でしょうか?いいえ、イエス様は私たちに7×7=49=無限に赦しなさいと言われる方です。私たちは赦されているのです。そしてあなたも赦すことを求められているのです。
3) イエス様の示された基準 (10-12)
家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(10-12)
この言葉に引っかかったのは、ファリサイ派の人々ではなく弟子たちでした。律法を厳密に受け取ろうと姿勢のファリサイ派の人々にとって、イエス様の言葉は反論の余地がありませんでした。しかし弟子たちにとっては納得できなかったのでしょう。もしかしたら、罪人と呼ばれる人々に深く同情していたイエス様ですから、そんな律法は守る必要もなく、離婚?ぜんぜん問題ないです。という答えを期待していたのかもしれません。しかし、イエス様は、律法でさえなかなか守れないのに、律法よりさらに厳しい基準を示されたのです。しかもイエス様は、夫婦を対等なパートナーと見て(当時の社会では非常識です)、どちらが相手を裏切り他の者と結婚するなら、それは相手に対して姦淫の罪を犯すことになると、当時にしてみれば超過激な発言をされるのです。しかしそれこそが神様の変わらない基準です ところで今日、私たちが学んだことは、離婚が良いか悪いかということではありません。神様の正しさの基準は、私たちのそれよりはるかに厳しく、私達が自分の努力では決して到達することはできないということです。では私たちの取るべき態度とはどのようなものなのでしょうか? 「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11b)というイエス様の言葉がヒントになります。前半だけに注目するなら罪に定められないのだから好きなように生きてもいいということになります。後半だけに注目するなら、次にやったらもう赦しませんということになります。前半、後半はどう調和するのでしょう?つなぐ言葉は「行きなさい」です。「生きなさい」と受け取ってもいいでしょう?生きてゆく限り、失敗はつきまといます。それでもイエス様は「行きなさい/生きなさい」と押し出してくれるのです。私たちに必要なのは、どうせ罪人だから仕方ないという開き直りでもなければ、もう罪を犯さないで生きるという無理な決心でもありません。そうではなくイエス様に従って歩むことによって助けをいただき、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして(申命記6:4)生きることです。それは信仰によって生きるという事です。信仰には3つの要素が含まれています。信じること (believe)、信頼すること(Trust)、行うこと(Act)です。イエス様が主・神だと信じること、イエス様を信頼すること、信頼して最善を尽くすことです。もっと神様をよく知ることが出来るように、もっと信頼出来るように、もっと神様の意思を行えるように求めて祈って、生きてゆきましょう。
メッセージのポイント
物事の正否を判断する基準は人により文化により時代によって異なりますが、神様の基準はそれらによって変わることはありません。しかも神様の基準は大変高く、人はそれにパスすることができないほどです。しかし神様は御自身の基準を引き下げたりはなさいません。正しいということについて決して妥協なさらないのです。正しく歩めない私たちがどうしたら徹底的に正しい神様に受け入れていただけるのでしょうか?神様はこのチャンスを与えるためにイエス様としてこの世界に来てくださったのです。イエス様の十字架の犠牲により赦されたことを信じ、従う者を神様は子として受け入れて下さいます。神様が喜んで受け入れてくださるのは、善行をする人でも、有能な人でも、たくさん献金をする人でもなく、心から喜んでイエス様に従って人生を歩む人です。
話し合いのヒント
1) ファリサイ派の人々は何のためにこのような質問をしたのですか?
2) イエス様は律法を守れない人とどのように付き合いましたか?