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April 8th, 2012  Vol.19 No.15

復活された方を喜び祝おう
イースターメッセージ (ヨハネによる福音書20:19-23)


その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

A. 最も重要な日曜日

1) なぜ日曜日に礼拝するのか?

旧約聖書に従えば安息日は週の初めの日、日曜日から7日目、つまり土曜日です。当時の考え方では、一日は日没から始まり次の日没までを指しました。そこで、より正確に言うなら、金曜日の日没から、土曜日の日没前までが安息日だったということになります。この日は神様が、六日目までに全てのものを造られた後、休まれたように、民も休まなければいけない(十戒)とされていました。そこには神様の私たちに対する深い愛の配慮があったのです。それは神を愛し人を愛するという最も大切な戒めにも関わるものでした。他のことに煩わされることなく神様の前に進み出る日(神に対する愛)、そして心や体を休ませるため、それも自分だけではなく使用人も家畜も休ませてやらなければならない(人に対する愛)の日として定められていました。初期のキリスト教でも、安息日は伝統に従って守られていました。しかしやがてイエス様を神様と信じ従う者たちは、復活したイエス様に初めて出会った週の初めの日の朝に礼拝することが相応しいと考え、神様との関係において最も重要な日として定着したのです。律法主義ではなくイエス様の心に従うならば、日曜日が無理なら、別の時でも構わないのです。大切なのは、同じ信念を持つ人々と共に神様だけに心を向けて過ごす時が週に一度は必要だということです。それが復活を思い起こさせる日曜日であるなら、それに越したことはありませんが、そうでなければならないということではありません。それではイエス様が反対された律法主義と同じになってしまいます。日曜礼拝に出られなければ会員になれない教会はあっても、イエス様に従う者にはなれますから、日曜日に働かなくてはならない日が多い人も心配しないで下さい。

 
2) 日曜礼拝は祝祭だ!

この出来事のゆえに、日曜日を聖日として礼拝を捧げるなら、この礼拝は、弟子たちが主を見て喜んだように、喜びの時、お祝いの時であるはずです。礼拝はいつから、祝祭であるより、厳かで静かで下手をするとお葬式のように暗いもの、居眠りしてしまうほど退屈なものになってしまったのでしょうか?理性的なこと、知性を働かせること、感情を抑えることはみな良いことですが、礼拝でそれらが幅をきかせすぎてしまってはいないか?というのが私の疑問です。周りの国々に比べても感情を表に現さないのが良いことと刷り込まれている私たちにはいささか困難なことではありますが、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛することは、知性や理性だけではなく、心の思いを豊かに表現して礼拝しなさいということではないでしょうか?もちろん、人工的な仕掛けや、心理操作によって盛り上げても、それは楽しいショーにはなっても豊かな真の礼拝にはなりません。それはやがて実を実らせることのない虚しいものだったと反省することになります。しかし、聖霊が働いて下さるなら、自然な雰囲気の中で、神様が超自然的なことをして下さり、誰かが指図しなくても喜びに満たされるはずです。私はユアチャーチの礼拝がそのような礼拝になることを期待しています。

 
B. 主に出会い主と共に生きる

1) 絶望の中で見出された喜び

十字架にかかり殺されてしまったイエス様、もう私たちのイエス様との歩みもおしまいだ。しかも自分たちも捕まり殺されてしまうのではないか?弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけて、絶望と恐怖の中にいたのです。よみがえられたイエス様はそのような中に現れたのです。その時以来、今に至るまでイエス様は、絶望している者に御自身を現され希望をお与えになっているのです。私も22歳の時、将来の希望や夢や目標を失い、どうして生きて行ったら良いか分からなくなった時に、イエス様が招いて下さった経験をしました。イエス様は今も生きて働いておられます。それは、行く先を見失った者に、本当に目指すべきところ「神の国」を指し示すという働きです。神様以外のものが与える喜びはやがて取り去られます。心が満たされ夢中になっていたものも、やがて虚しいものと感じられるようになってしまいます。イエス様が訪れて下さることは、絶望や恐怖を一時的に喜びに変えるようなものではなく、永遠に変わらない喜びを与えてくれるものなのです。それが真実であったことは、その後の弟子たちの喜びに満ちた大胆な行動によってもわかります。イエス様が十字架にかかった時には、自分たちに降りかかる災いを恐れて、隠れて震えていたのに、復活のイエス様にあった弟子たちにはもう地上には怖いものはありませんでした。最初の教会に大きな迫害がありました。直接の弟子たちのほとんど、パウロのようにその後に加わった者の多くも、喜びのうちに殉教の死を遂げています。彼らは喜んで、その生涯の終りまでイエス様に従って歩み天に移されました。

 
2) 何があっても私は勝利者

もう一度、この時に語りかけられたイエス様の言葉を聞きましょう。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 イエス様が十字架にかかったことを知っているだけでなく、弟子たちに限らず復活されたイエス様と出会った者は、皆このように呼びかけられています。イエス様が共にいてくださることを知っているので安心して遣わされていく者です。聖霊を受けて、かつての弟子たちとは違い、肉眼でイエス様を見ることも触れることも出来なくても、イエス様に派遣された者として、この世界で与えられた役割を果たしつつ生涯を歩むのです。その働きとは、人々を罪から解放することです。かつての自分がそうであったように、本当に仕えるべき方を知らないので、苦しまなくても良いことを苦しみ、悲しむ必要のない事を悲しんでいる人々が私たちの周りにはたくさんいるのです。罪に萎縮しているすべての人に赦し、解放勝利を伝えるために私たちは派遣されています。時に、この働きは困難にも感じられますが、自分が勝利者であることを疑ってはいけません。それはイエス様の十字架を無駄にすることになります。  イエス様の十字架によって、彼を主と信じる私たちには罪と死に対する勝利が約束されました。罪と死に対する勝利者と共に歩む私達もまた勝利者なのです。私たちは勝利者にふさわしく歩むことが出来るように、週の初めの日に集いイエス様の復活を祝うのです。

 
メッセージのポイント
イエス様の十字架によって、彼を主と信じる私たちには罪と死に対する勝利が約束されました。イエス様は復活されましたが、私たちの復活は未来のことです。そこで私たちは、その未来に成就する約束を信じて、残されている地上での生涯を歩むのです。そこには以前と変わらない苦しみ、悲しみが存在します。忍耐は続くのです。しかし私たちの内面は決定的に変えられました。罪と死に対する勝利者と共に歩む私達もまた勝利者なのです。私たちは勝利者にふさわしく歩むことが出来るように、週の初めの日に集いイエス様の復活を祝うのです。


話し合いのヒント
1) なぜ私達は日曜日の朝、共に集い祝祭を行うのですか?
2) なぜあなたは人生の勝利者といえるのですか?