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May 13th, 2012 Vol.19 No.20
あなたはイエス様をどう歓迎しますか?
(マルコによる福音書 11:1-11, ゼカリヤ書9:9)
今日取り上げるテキストは、受難週の始まりの棕櫚の日曜日の出来事です。その日が棕櫚の日曜日と呼ばれる由来もここに記されています。イエス様は、この日ついにエルサレムに入ろうとされます。異論もありますがエルサレムの名は「平和の町」という意味の古語に由来すると言われています。それは単に人々の間で平和が保たれるというよりも、神様にから与えられる、神様のもとでの平安を意味しています。しかし、エルサレムは名前とは裏腹に、表面的には神殿を中心とした町でありながら、実際には、人の欲望が渦巻く罪深いところでした。何週間か後にお話することになると思いますが、イエス様はその状況を見て「すべての国の人の祈りの家を、あなた達は強盗の巣にしてしまった」とおっしゃいました。先週は目の見えない物乞いのバルティマイの立場に身をおいて考えてみましたが、今日はエルサレムという町があなたです。イエス様が今、あなたの心に入ってこられると想像してみてください。
A. エルサレムに入る準備
1) イエス様に選ばれ用いられる若いろば (1-3)
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(1-3)
イエス様は今まで歩いて来られたのに、エルサレムに入るためにはロバの子が必要だとおっしゃいました。それは救い主の入城には欠かせないことでした。この事は300年以上も前に、すでに預言されていたのです。ゼカリヤ書9:9にこう書かれています。
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。(9:9)
ここには、真の王が自分の力で権力を勝ち取るのではなく、神様に従うことによって、神様から与えられる勝利を得る者だということがわかります。当時の世界では権力者に相応しい乗り物は「馬」でしたが、真の王はそうではない「ろば」しかもまだ誰も乗せたことのない、まだ親とともに飼われているような子ろばだというのです。当時どのくらいの人がゼカリヤの預言を心に留めていたかはよくわかりませんが、少なくともイエス様はそのことを念頭に置いていらしたのでしょう。命じられた弟子たちは出かけて行き、ロバの子を見つけます。
2) メシアに対する人々の期待 (4-6)
二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。(4-6)
イエス様に言われたとおりに、つまり 『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』 と言うと、そこにいた人々は許してくれました。この人々はゼカリヤの言葉を覚えていたのかもしれません。イエス様への期待は高まっていました。私たちを新しい平和と繁栄の時代に導いてくださるかも知れない、という期待です。 私たちも常に期待します。私に都合の良い人、良い事が現れて、事態が好転して、もっと幸せになれるかもしれない。そうして、新しい社長に期待し、政治家に期待し、宗教の教祖に期待するのです。イエス様は信頼出来る方です。決して変わることにない平和を与えてくださる方です。しかしそれはあなたの思うような方法ではないかもしれません。ここでイエス様をエルサレムに迎え入れようとイエス様を歓迎している人々も、イエス様に誤った期待をかけていました。
B. エルサレムに入るイエス様
1) 誤解に基づいて歓迎されるイエス様 (7-10)
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(7-10)
ホサナはヘブル語の音をそのまま記した言葉で「どうかお救い下さい」という意味です。イエス様はこの三年の活動ですっかり有名人になっていました。ついに腐敗した王や取り巻きの政治家と宗教家たちから権力を奪い、ダビデのように、政治的にも宗教的にも優れた指導者になってくれる。そのような期待が、このような歓迎となって熱狂的に迎えられたのです。しかし、馬に乗るでもなく、大軍団を引き連れてでもなく、ぱっとしない弟子たちと、罪人とされる人々や、イエス様に癒されたと主張する人々、なにかしら問題を抱えた人々とともに、足取りの頼りないロバの子に乗ってこられるイエス様に、なぜそのような期待ができたのでしょう。パロの前に立ったモーセのように、しるしと不思議、奇蹟を期待したのでしょう。誰もが、イエス様を誤解していました。イエス様は地上の権力など望んではおられませんでした。ただ誰に対しても、心を神様に向け直すことを求められたのです。あなたは何をイエス様に期待しますか?それはほんとうに正しいことでしょうか?イエス様は私たちが神様との関係を正常化するために来て下さったのです。思い通りのものを手に入れるためでも、自分の夢を実現させてくれるためでもありません。そのようなことが出来ると誘ってくれる宗教は沢山あります。心理的なトリックでその気にさせてくれるかもしれませんが、本当はそんなことは誰にもできません。それでも、自分の夢を叶えるために信じるというのなら、イエス様に求めても無駄です。救われるとは、心に真の王としてイエス様をお迎えすることです。救われているとは、イエス様と共に歩んでいることです。イエス様はあなたが自分から離れてゆかない限り、あなたを決して見放しません。肉体が滅びた先もずっと共にいて下さいます。だから救いは永遠の命とも言われるのです。
2) この日イエス様がエルサレムでなさったこと (11)
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。(11)
エルサレムに入られたイエス様は、弟子たちとともに神殿の中に入り、辺りをじっくりと観察されました。大変悲しい思いで見ておられたのです。この町を大変愛されていたように、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたはあなた自身の内面をどう見ていますか?強盗の巣というほど酷くはないにしても、あなたという神殿にはイエス様以外の何が間違ったものが祀られていないでしょうか?それが偶像礼拝というものです。しかし時には自分では意識していなくても、虚しい物事に心が奪われていることがあります。だからイエス様に自分の心の様子もよく見て頂く必要があるのです。イエス様を歓迎しましょう。心を探っていただき、教えられたり、諭されたり、癒されたりすることを期待しましょう。
メッセージのポイント
しゅろの日曜日、イエス様はロバに乗ってエルサレムの街に入り、人々から大歓迎を受けました。為政者に対する不満や、生活の不安を一気に解消する「救い主」として新しい王が待望されていたのです。イエス様は私たちの心にも「救い主」として来てくださいます。しかし、私たちの心もエルサレム同様、間違った期待で「救い主」を求める傾向を持っています。自分の願いをかなえてくれる宗教や神、自分に都合のよい予言や占い、経済的成功をかなえてくれる仕事、会社、気の合う友人、恋人、結婚の相手が現れれば、幸せになれると考え、待ち望み、それが現れれば大歓迎するのです。イエス様はそのような者として来てくださるのではあリません。あなたが唯一従うべき主として来られるのです。間違った期待とは、自分の願いをかなえてくれる者としての「救い主」が登場です。しかしその願いを捨て、信頼してイエス様に従うなら、物事が思い通りになってもならなくても、愛されている実感、愛し続ける意思を失うことなく平和のうちに歩み続けられます。
話し合いのヒント
1) なぜ選ばれたのはロバの子だったのでしょう?
2) あなたはどのような方としてイエス様を心にお迎えしたいですか?