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May 20th, 2012  Vol.19 No.21

わがままなイエス様?
(マルコによる福音書 11:12-14,20-25)

A. 不愉快な奇蹟から学ぶこと

翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。(12-14)

翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」(20,21)

イエス様がどのようなコンテキストの中でこのようなことをなさったのか、ということを知らずにこのテキストを読むなら、彼は自分勝手なひどい人で、草花を愛する人にとっては赦しがたい行動に感じられるかもしれません。しかしこの出来事はイエス様の唐突で乱暴な思いつきではありません。先週の話を思い出していただけますか?イエス様はエルサレムに入られ、その様子を全てご覧になったのでしたね。そこで見たエルサレムは、神様に愛された人々の都としての本来のあり方から遠く離れ堕落した、イエス様をひどく落胆させるものでした。そしてそれは、私たち一人ひとりの心の有り様と全く同じであることを先週確認しました。そのことを視覚的にたとえとして用いたのが、この実の成っていないイチジクだったのです。「愛されているのに、裏切り続ける存在:エルサレム、神の民、そして私達すべての人間」の象徴としてのイチジクです。子供は産んでくれ、愛し、育て、守ってくれる親を愛し、親に従います。しかし親はあなたを創造した訳ではありません。あなたをこの世界に生まれさせたのは神様です。そうでなければ誰がそうしたのでしょうか?それなのになぜ人々は神様を愛し、神様に従おうとしないのでしょう?神様を信じていなかった時、わたしは自分が偶然存在したと考えていました。しかし、私達の存在が偶然であれば、誰かが私を作ったのでなければ、自身の欲望に従って思い通りに生きればいいということになります。この生き方には愛する、憐れむ、自分を犠牲にすることは不要です。ところが、私たちの心には、エゴだけではなく<愛する意志>があります。それは良心と呼ばれるものです。人間の存在が偶然であるという考えは良心の存在を説明できません。聖書の説明はシンプルです。そこからは、神様が私たちを作られたこと、神様ご自身の本質が愛であるということ、私たちが愛する者として造られていることがはっきり分かります。愛するものとして生かされているのになぜ愛することができないのか?心が神様の方を向いていないからです。向いていなければ愛することも、従うことも出来ません。それが聖書の教える<罪>です。罪と訳された原語は元々、矢が的を外れている状態を意味しています。それでは期待された実を実らせることはできません。身体は生きていても、心は枯れている状態です。エルサレムは、表面的には信心深いようで、実際には神様を信頼せずに歩む人々の都として他国に滅ぼされ、イエス様の時代にはローマ帝国の支配下にありました。しかし、どの国も、都市も、人もエルサレムを笑うことはできません。哲学は真善美を探し求めていますが、実は「青い鳥」と同じようにそれは自分のすぐ近くに、自分の内側に神様が備えて下さっていたのです。けれども私たちの罪の性質がそれを覆い隠し、私たちの内には真実も、善も、美も存在しないかのように見えるのです。イエス様は、そのような私たちの有様を悲しまれ、本来の状態に戻すために、自らの苦しみと死によって、霊的な健康(神様との健康な関係)を取り返して下さったのです。 それでもまだ、イエス様はひどいことをすると憤っている人がいるでしょうか?イエス様はその生涯の終わりに近いこの時に、たった一度、一本のイチジクを主人としての権威と力で枯らすことによって、事態の深刻さを伝えようとしました。いわばご自分とともに一本の無花果の木だけを道連れになさったのです。すべての人にイエス様を非難する権利はありません。私たちの身の回りにある多くのものは、自然に存在したものを私たちが自分たちの都合に合わせて作り変えたものです。植物も動物も品種改良し、私たちの都合にあわせて原種とは似ても似つかないものに変えています。また自分たちの生活の利便を追求して、多くの動植物を滅ぼしているのです。

 
B. イエス様が教えたかった2つのこと

イエス様が、普通ではない方法をとってまで弟子たちの心に焼き付けたかったことは、人とその社会は堕落した心のままでは良い実を結ぶことができず、枯れてしまうことになるという警告です。それは弟子たちだけにとどまらず、イスラエル民族だけにとどまらず、全ての人に対する警告です。このことのために一本のイチジクの木を枯らせて見せたのです。どうしたら良い実を実らせる人になれるのでしょう。2つのことが教えられています。

1) 信じること

そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(22-24)

第一に「信じる」ことです。神様の意思とその実現を信じることです。都合のいい最後の部分だけを受け取らないでくださいね。前半を見れば、その条件が記されています。あなたは、山に向かって『立ち上がって、海に飛び込め』と少しも疑わず、自分の言うとおりになるは信じられませんよね。もちろん確信がなくても祈って良いのです。しかしそうなるかどうかは神様の意思にかかっています。一番確実な祈りは、「神様、あなたの意思がなりますように」という祈りです。祈りは神様への要求ではなく、神様との会話です。神様とのコミュニケーションを密にするという意味で祈りは大切ですが、どのような祈りが聞かれるかというようなアプローチは意味がありません。祈りは物事を思い通りにするものではなく、神の意志を確認するものです。神の意志が実現することが私達にとって最も相応しいことなのです。信仰とは自分の意思を補強するものではなく、神の意志に従うことなのです。それは神の主権に服すということです。イエス様の道徳性についていちじくの扱いで文句がある人は、神様のなされるあらゆることに引っかかりを覚えるはずです。なぜ災害を起こすのか?病気であるいは事故で早死する人がいるのか?私たちは、どのような理由で、何歳でこの世の終りを迎えても神様に文句を言う権利はありません。私たちは被造物なのです。しかし神様はイエスという一人の人としてこの世界に来られ、死は終わりではないということを教えて下さいました。体は滅びても私達は決して見捨てられないという言葉を信頼するなら、物事が自分の思い通りになろうとなかろうと神様は最善を下さることを体験できます。そこでこの節で最も大切なのは、イエス様の最初の一言「神を信じなさい」です。信じているなら、祈ったことは、すべて得られるのです。それはあなたの期待と異なる形かもしれませんが、最善の実です。

 
2) 赦すこと

また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(25)

第二に「赦す」ことです。恨みは、神様からの遠心力として働きます。創世記に記されている人類最初の殺人事件の動機も恨みでした。神様が私の必要を知り、惜しみなく与えてくださると信じているなら、誰かを恨む必要などありません。ところが私たちの内には、自分を人と比べてしまうという厄介な性質があります。比べて競争すること自体は悪いことではありません。しかし、それが発酵するように恨みや憎悪となり、ほっておけばさらに強くなることに気を付けるべきです。この毒は当然私たちの心の成長を妨げ、やがて枯らせてしまいます。 赦すことは、愛同様、感情ではなく意志です。感情が伴わないからといって、私は赦せないと悩む必要はありません。ただ神様の前に、あの人を赦しました、と宣言しましょう。そしてその意思を支えて下さいとお願いするのです。妬む感情が心に湧いてきた時、すかさず祈りましょう。「私を赦して下さったあなたの前で、私は赦しました。どうか平安をお与え下さい」 あなたの燃料は何ですか?妬みや怒りをエネルギーに生きるなら、新たな妬み、恨み、悲しみ、怒りを撒き散らす排ガス規制違反の車のようなものです。人生を歩むための究極のクリーンエネルギーは<神様の愛>です。それは赦すことを通して現されました。日々この愛を補給していただいて、私たち自身もこの愛を表して歩みましょう。

 
メッセージのポイント
祈りは物事を思い通りにするものではなく、神の意志を確認するものです。神の意志が実現することが私達にとって最も相応しいことなのです。信仰とは自分の意思を補強するものではなく、神の意志に従うことなのです。それは神の主権に服すということです。イエス様の道徳性についていちじくの扱いで文句がある人は、神様のなされるあらゆることに引っかかりを覚えるはずです。なぜ災害を起こすのか?病気であるいは事故で早死する人がいるのか?私たちは、どのような理由で、何歳でこの世の終りを迎えても神様に文句を言う権利はありません。私たちは被造物なのです。しかし神様はイエスという一人の人としてこの世界に来られ、死は終わりではないということを教えて下さいました。体は滅びても私達は決して見捨てられないという言葉を信頼するなら、物事が自分の思い通りになろうとなかろうと、自分がここで何歳まで生き、どのような最後を遂げようとそれは大したことではないのです。

話し合いのために
1) 「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」の真意は?
2) なぜ、祈る時、誰かに対する恨みを赦すべきなのですか?