<メッセージノート>

July 8th, 2012 Vol.19 No.28
救い主と宗教家 (マルコによる福音書 12:35-40)
A. ダビデの子孫であり、ダビデ以上の存在
1) 期待されていたのはダビデの家系に連なる強力な指導者(35)
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。(35)
 
2) 神様の計画は御自身による介入 (36,37 詩編110:1)
ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。(36,37)
 
B. イエス様を救い主として受け入れられなかった宗教家の本質(38-40)
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(38-40)
1) 虚栄
2) 貪り
3) 偽善
 
メッセージのポイント
人々はダビデ王のような英雄を待ち望んでいましたが、神様はダビデ王をはるかに超えた特別な存在を「救い主」として遣わされました。それは、ご自身が一人の人イエスとして来られるということだったのです。宗教家たちがご自身を受け入れられないことをイエス様は知っておられました。彼らはもはや神様のメッセンジャーではなく、神様の名を用いて、自分の欲望に生きる者となってしまって、神様からのメッセージを正しく受け取ることはできなくなっていたからです。あなたは神様に用いられていますか?それとも神様を使っているのですか?

話し合いのために
1) 人々の「救い主」についての理解は、どこが間違っていたのですか?
2) 律法学者とはどのような人々でしたか?

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<メッセージ全文>

July 8th, 2012 Vol.19 No.28
救い主と宗教家 (マルコによる福音書 12:35-40)

A. ダビデの子孫であり、ダビデ以上の存在

1) 期待されていたのはダビデの家系に連なる強力な指導者(35)

イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
(35)

 常識は大切です。しかし、新しい何かが始まるとき、常識は覆されます。経験していないことを想像することは誰にとっても難しいことです。常識がじゃまをするのです。ここでいう常識とは、伝統、習慣、通念といったもので、普遍的な道徳や倫理を否定してもいいと言っているわけではありません。イエス様が来られたことによって新しい時代が始まろうとしていました。人々もメシア(救い主)を待ち望んでいました。しかし、伝統的に教えられてきたことは、メシアはダビデ王の再来といえるような人だということでした。宗教的にも政治的にも軍事的にも傑出した指導者が待ち望まれていたのです。それだけではなく実際にダビデの家系から現れると考えられていました。つまり、救い主はどんなにスケールの大きな人物であれ、ダビデには頭の上がらない、ダビデの子。ダビデ以上の者ではないと考えられていたのです。それが、その時の常識でした

2) 神様の計画は御自身による介入 (36,37 詩編110:1)

ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
(36,37)

それに対してイエス様は、詩編110編1節を引用して、別の解釈を紹介されました。「主は私の主に告げた」と二人の主が登場して混乱しますが、イエス様は二つの「主」を、「神様」が「私の救い主に告げられた」と理解しなさいとおっしゃったのです。ダビデ自身が「私の主」と呼びかける者こそメシアだとしたら、ダビデの子孫とはいえません。イエス様の父母、ヨセフもマリアも系図的にはダビデに遡ることが出来ました。しかしこの時代には、彼らの家は名家でも裕福でもなく、都エルサレム、ダビデの町ベツレヘムからは100キロ以上も離れたガリラヤ地方のナザレという町に住んでいたのです。イエス様御自身も、御自身のメシアとしての正統性を家系で主張したことはありませんでした。神様は、ダビデの家系から救い主が出るという預言を成就すると同時に、一人の人間であるダビデを超えた存在としての救い主、神様ご自身をナザレのイエスとして現されたのです。だからこれからお話する宗教家たちのような悪い性質を一切持ってはいませんでした。
 

B. イエス様を救い主として受け入れられなかった宗教家の本質(38-40)

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
(38-40)
 
私たちはラビや牧師や神父や僧侶、神官をバカにしたり批判したりするためにこのテキストを学んでいるのではありません。こういう人を信頼して付いて行ってはいけません、という警告でもありますが、私たち一人ひとりに対する戒めでもあるのです。それは私たち自身がこの性質をしっかり持っているからです。イエス様に従うという意識がなければ、私達はすぐこのような者になってゆきます。これらの感覚は、ほっておけば麻痺して当たり前のこと、何の良心の呵責も感じないで、当然のことと思ってしまうのです。これが当時の宗教指導者たちのイエス様と親しくなれなかった原因なのですから、これらのことはイエス様と私たちの間に溝を作る原因でもあるのです


1) 虚栄

 ほめられたい、立派な人と思ってもらいたい、偉い人と思われたい。「この人は大きな魚を釣ることの出来る人」だと思われたい。それが大げさな表現となり、最初は微笑ましい程度のものが、詐欺罪に問われる程に肥大します。私たちのありのままの姿は変わりありません(実際神様はそのように私たちをお作りになったのです)。けれども私達はなんとか人と差別化を図りたいので、見栄えの良い服を身につけます。政治家、軍人、学者、宗教家が特に陥りやすい罠で、エスカレートすればするほど傍目には滑稽なものになってゆきますが、当人たちは気づきません。勲章も、学位も、資格も人の目には魅力的に写っても、神様はその人の心を見抜かれるのです。10センチの魚を15センチという「嘘」が問題の本質ではありません。人にどう思われるかということに忙しく、「神様がどう思われるか」に心が向かないことが問題なのです。


2) 貪り
 
私は50代になって食べ放題、飲み放題には興味がなくなりました。貪欲でなくなったわけではありません。むしろ貪欲なままなので、若者ほど元の取れないバフェに行くのは悔しいわけです。貪りは、食欲だけではなく私たちのあらゆる欲望の分野でおこることです。取れるところから、できるだけ多くとっておこう。相手のことなどお構いなしです。貧しい人から取り上げるほど神様は困ってはいないのに、律法が命じているからと献金させる。このようなことを現代の宗教指導者はしていないと残念ながら言い切ることはできません。貪りは、体の健康にも心の健康にも害になるばかりか、神様との関係における健康に深刻な影響を及ぼします。貪欲が行き着くところは、全てを自分の思い通りにしたい。つまり、自分を神、主とすることで、本当の神様に背を向けることになるのです。


3) 偽善

 「神などいないから祈りません」という無神論者は間違っていますが、偽善者ではありません。人々に対する愛もないのに、人々のためにと気の利いた言葉を駆使して見せかけの長い祈りをする。このような偽善者は、無神論者以下ではないでしょうか? 人は騙せても、神様を欺くことはできません。一見親切に、良いことをしているように見せかけて、実はその人のためでも神様のためでもなく自分の利益のために、心の中で舌を出しながらするのが偽善です。難しいのは偽善が一見、敬虔な行いや言葉に見えるからです。自分がしている偽善もそうだと気付かないことがあります。時々、自分のこの言動は、本当に神様を喜ばせ、自分のではなく人々の益となるのか?と心に問うてみましょう。 虚栄も、貪りも、偽善も、自分だけでなく人々をイエス様から遠ざけるものです。イエス様にもっと近づきたい、人々にイエス様を知ってもらいたいと願うなら、そのような人に騙されないように、また自分がそうならないように、自分の心を探り、イエス様の思いを聞き、私を聖めて下さいと祈りましょう


メッセージのポイント
人々はダビデ王のような英雄を待ち望んでいましたが、神様はダビデ王をはるかに超えた特別な存在を「救い主」として遣わされました。それは、ご自身が一人の人イエスとして来られるということだったのです。宗教家たちがご自身を受け入れられないことをイエス様は知っておられました。彼らはもはや神様のメッセンジャーではなく、神様の名を用いて、自分の欲望に生きる者となってしまって、神様からのメッセージを正しく受け取ることはできなくなっていたからです。あなたは神様に用いられていますか?それとも神様を使っているのですか?


話し合いのために
1) 人々の「救い主」についての理解は、どこが間違っていたのですか?
2) 律法学者とはどのような人々でしたか?