<メッセージノート>

July 15th, 2012 Vol.19 No.28

今さら聞けない献金の献げ方 (マルコによる福音書 12:41-44)

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


A. よくある誤解
神様の働きへの参加(賽銭とは違う)
額が問題なのではない

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
(コリントの信徒への手紙II 9:6-8)

十分の一は基準(最低ラインでも最高ラインでもない)
人と比べる必要はない
 
B. ユアチャーチではどう考えているのか?
自発的に思い切って献げる
献金の扱い方
献金の使い道
献げるのはお金だけではない
 
メッセージのポイン
献金は神様の働きを経済的に担う行為です。旧約時代ではレビ族が生産活動をせずに祭司としての働きに専念できるように、それ以外の民は収入の十分の一の献げ物をしました。教会でもこのことはひとつの基準として認められています。しかし、聖書には十分の一以外にも、いくつかの原則が示されています。献金についてどのように考えるかは、それらすべてから総合的に判断することが必要です。そうでなければ、意味を誤解して教会の体質を律法主義的なものにしてしまったり、自分勝手な理解で疎かにしてしまったりすることになるからです。

話し合いのヒント

1) イエス様が銅貨二枚を献げた女性を褒めたのはなぜですか?
2) 私達はなぜ献金をするのですか?

<MP3 音声>

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<メッセージ全文>

July 15th, 2012 Vol.19 No.28

今さら聞けない献金の献げ方 (マルコによる福音書 12:41-44)

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


A. よくある誤解
神様の働きへの参加(賽銭とは違う)
イエス様を信じる信仰が一般的ではないこの国では、教会での献げ物を、仏教や神道のお賽銭と似たものとして考えられがちです。お賽銭は、犯した罪の対価の後払いや、将来の幸福の前払いです。しかし私達の献げる献金は、そのような性質のものではありません。神様は恵みの自動販売機ではありません。お金を払って願いをかなえるものではないのです。献金は神様の働きへの参加です。

額が問題なのではない
この世界では、どれほど経済的に貢献したかは、その差し出した額で決まります。しかし神の国の基準はそうではありません。この世界における神の国の出張所である教会でも、額は問題ではありません。問われるのは、献げるものの心です。コリントの信徒への手紙II 9:6-8ではその心を次のように表現しています。

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
(コリントの信徒への手紙II 9:6-8)

十分の一は基準(最低ラインでも最高ラインでもない)
旧約聖書での献げ物の基準は収入の十分の一でした。このことを最初の教会も引き継ぎました。しかし現在ではいろいろな議論が起こっています。「旧約の律法に過ぎないのだから無効だ。全く自由に思ったとおりにすれば良い」という考えもあれば、これは信じる全てのものに対する今でも有効な命令だから、そうしないと祝福がないと教える教会もあります。前者であれば、手持ちの硬貨を献げれば‘買い物のお釣りで膨らんだお財布も軽くなって、私も神様もハッピーということになります。後者の考え方は「神様は恵みの自動販売機」(祝福されるために献げる)としていることになります。惜しみなく思い切って献げる、ということと、強制されてではなく心に決めたとおりに喜んでささげる。ということを調和させてくれるのが十分の一という基準です。レビ記は、神様がイスラエルの人に示された戒めとして「穀物も果実も生まれた家畜も生産したものの十分の一は神様のものだ」と記しています。私達が新しい神の民でありたいと願うなら、旧約のこの規程をどう受け取るかを検討しなければなりません。全く無視して良いのであれば、そもそも旧約聖書を聖書と認めなくても良いはずです(実際にそのような異端が2世紀には登場しています)。どう受け取るのか?文字通り受け取らなければいけないというのであれば、それはキリスト教律法主義です。十分の一は、神様が唐突に命じたわけではありません。ヤコブが自発的に誓ったことでした(創世記28:22)。兄エサウから逃れて逃亡中に石を枕に野宿した時、神様が祝福を約束されました。それに応えて「すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と誓ったのです。神様はそれを、アブラハム、イサク、ヤコブの神である唯一の主なる神と共に生きることを選んだイスラエルの民との再確認の意味でレビ記に記されたようにモーセに語られたのです。私たちが言えることは、私たちの信仰の先輩が、自発的に十分の一を献げようと決心したということです。 私達が両極端に陥らないように、十分の一は良い基準です。それは決して最高ラインでもなければ、最低ラインでもないのです。

人と比べる必要はない
近くの神社の前を通ると、格子状の塀の一本一本に、これは誰の献金による、と名前が書かれています。本当の神様なら、そんなことが書かれていなくても誰がどれだけ献げたかということはご存知ですから、これは人間向けのことです。キリスト教は違う、と思いたいところですが、どうもそうではないようです。アメリカの巨大な教会を訪れた時、椅子の一つ一つに、これは誰の献げたものと書かれた美しいプレートがついていたので、がっかりしました。 多くの教会では、メンバーになると自分専用の献金封筒が渡されます。中には月定献金用、感謝献金用、特別献金用、名前はもちろん金額欄や会計担当者のサイン欄まであって、昭和時代の塾の月謝袋のようです。誰がどのくらいささげているのか牧師や役員は知っています。週報には、先週は誰が感謝献金をしたか、中には金額まで含めて報告されていたりします。しかしそのような在り方は、聖書が教えている献金の在り方とずれているのではないか?と思って来ました。そこでユアチャーチでは今のような献金の考え方をしているのです。
 
B. ユアチャーチではどう考えているのか?
自発的に思い切って献げる
十分の一は基準ですが、自発的であることは絶対条件です。強いられたり、煽られたりして、あるいは人の態度を気にしてするようなものにしてはいけないのです。あなたが惜しまず豊かにささげているかどうかは神様以外に誰も知りません。知る必要もありません。十分の一というのは、自分にとっての「惜しまず豊かに」の基準になるということであって、現状がそれ以下なのか、それ以上であるのかということは問題ではありません。実際には十分の一以上であっても、惜しまず豊かにではないかもしれません、反対にそこに及ばなくても、精一杯献げている方もいるのです。 ユアチャーチは献金を献げることを、神様に献げる礼拝の一部であると考えていますが、この自発的にということと信仰を持っていない方を配慮するということから、礼拝内のプログラムとしては礼拝の時を持たずに、その日、用意のある人が自発的に献げられるように入口に箱を置くことにしました。

献金の扱い方
これが神様への献げものであるなら、注意深く神様の意思にかなった取り扱いをしなければいけません。牧師もリーダーも誰がいくら献金を献げたのか知るべきではないと考えます。どうしてもそうしたいというのでなければ無記名で献げることにしています。礼拝後、リーダーの一人が、メンバーの誰かに手伝ってもらい、金額や項目を確かめ会計のリーダーに報告します。私は献げられたお金をいったん全て教会の銀行口座に入れます。そして、私やリーダーは必要に応じてそこから引き出して支出するのです。会計リーダーは毎月ハドルで前月の会計報告をします。会計報告書はホールにも備えてあり、誰でも見ることができます。会計はオープンでクリアでなければいけないからです。

献金の使い道
献金の目的は、最初にお話したように神様の働きを推し進めるためのものです。十分の一献金というのはこの教会を、神様の働きの一部を担いつづけられるように用いられるものです。このビルを維持する、牧師が働きに専念できるように支える、備品を購入する、私達がそれぞれの役割を担って働き、その結果イエス様に出会う人を起こすために献げる基本的な献金です。使い道が健全であるように決めているルールは、人件費が献金の50%を超えないこと、牧師のサラリーは町田市の同年齢の職員の平均を超えないことの二つです。また献金という形で神様がして下さったことに感謝したい方のために感謝献金があります。またユアチャーチではなく、協会とは異なる方法で神様の愛を実践している幾つかの団体などへ、ユアチャーチが窓口となって献げる指定献金も受け付けています。

献げるのはお金だけではない
献げものは読んできた通り、農作物や家畜であってお金ではありませんでした。わたしたちの社会ではほとんどが賃金生活者です。それで献げ物はほぼ、イコール献金ということになるのですが、教会の働きを担うことも、神様の働きに参加していることなのです。教会の働きにもいろいろあります。しかし、実際に教会に来て何かをするだけが働きではありません。家庭でも、職場でも、教室でも、あなたが誰かのために祈ること、愛することも喜んで自発的にする献げものともいえるのです。
 
メッセージのポイン
献金は神様の働きを経済的に担う行為です。旧約時代ではレビ族が生産活動をせずに祭司としての働きに専念できるように、それ以外の民は収入の十分の一の献げ物をしました。教会でもこのことはひとつの基準として認められています。しかし、聖書には十分の一以外にも、いくつかの原則が示されています。献金についてどのように考えるかは、それらすべてから総合的に判断することが必要です。そうでなければ、意味を誤解して教会の体質を律法主義的なものにしてしまったり、自分勝手な理解で疎かにしてしまったりすることになるからです。

話し合いのヒント

1) イエス様が銅貨二枚を献げた女性を褒めたのはなぜですか?
2) 私達はなぜ献金をするのですか?