<メッセージノート>
July 29th, 2012 Vol.19 No.31
イエス様が再び来られる日 (マルコによる福音書13:14-27)
A. 終わりの日
1) 終わりの日がくる時のしるし (14-25)
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。(14-25)
2) 再びこられる主イエス様 (26,27)
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(26,27)
B. このことをどう受け取って、生きる力とするのか?
1) 聖書の歴史観
2) 私たちの心構え
メッセージのポイント 聖書は、世界には始まりがあり終わりがあることを告げています。第一世代のクリスチャンたちはそれが自分たちの時代に起こる事だと感じていました。しかし2000年経った今でもその時は来ていません。今まで世界で起こってきたことの中には、人々に終末を連想させることがたくさんありましたが、まだ来ていません。大きな戦争や天変地異、経済恐慌が起こるたびに、終末を宣言する偽預言者や、自分が再臨のキリストだと言う人々があらわれてきました。それでも終わりではなかったということは、本当のしるしは、もっと深刻で困難なものだということです。偽キリストにしてもはるかに巧妙で魅力的な装いで現れるということです。大切なことはその時がいつかという詮索をすることではなく、それが次の瞬間でも、その前に自分が地上の命をおえても、後悔しないように人生をおくることです。
話し合いのために
1) イエス様はなぜこのことを語ったのでしょう?
2) その日がいつかわからないなら、どのように生きれば良いのですか?
イエス様が再び来られる日 (マルコによる福音書13:14-27)
A. 終わりの日
1) 終わりの日がくる時のしるし (14-25)
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。(14-25)
2) 再びこられる主イエス様 (26,27)
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(26,27)
B. このことをどう受け取って、生きる力とするのか?
1) 聖書の歴史観
2) 私たちの心構え
メッセージのポイント 聖書は、世界には始まりがあり終わりがあることを告げています。第一世代のクリスチャンたちはそれが自分たちの時代に起こる事だと感じていました。しかし2000年経った今でもその時は来ていません。今まで世界で起こってきたことの中には、人々に終末を連想させることがたくさんありましたが、まだ来ていません。大きな戦争や天変地異、経済恐慌が起こるたびに、終末を宣言する偽預言者や、自分が再臨のキリストだと言う人々があらわれてきました。それでも終わりではなかったということは、本当のしるしは、もっと深刻で困難なものだということです。偽キリストにしてもはるかに巧妙で魅力的な装いで現れるということです。大切なことはその時がいつかという詮索をすることではなく、それが次の瞬間でも、その前に自分が地上の命をおえても、後悔しないように人生をおくることです。
話し合いのために
1) イエス様はなぜこのことを語ったのでしょう?
2) その日がいつかわからないなら、どのように生きれば良いのですか?
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<メッセージ全文>
July 29th, 2012 Vol.19 No.31
イエス様が再び来られる日 (マルコによる福音書13:14-27)
A. 終わりの日
1) 終わりの日がくる時のしるし (14-25)
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。(14-25)
先週、終りの時代は始まっているとお話しました。その続きである今日の部分は、終りの終りについて書かれています。イエス様が弟子たちに教えられたのは、彼らが緊張感をもって真剣に生きることと、どの時代の信仰者も、次の世代に同じ思いを持って生きるように伝えることを教えるためでした。イエス様はここで、ダニエル書9章23節の表現を借りて、大きな災いをもたらす“反キリスト”が現れることを教えています。ダニエル書は、紀元前167年、エルサレムの神殿にゼウスの像と祭壇が築かれ、ユダヤ人に対する弾圧が起こったことを指していますが、イエス様は、もっと直接的に脅威となる人間の登場として警告しています。私達は多くの災いに会って来ましたが、終末の災いは、今までの災とは比べ物にならないもので、人々は逃げまどうしかないようなものであるというのです。あちこちに偽メシア、偽預言者が現れて人を惑わすことも、今まで以上の規模で起こるのです。この世界の混乱が終わると、ついに全宇宙のあらゆるものが終りを迎えるということがはっきりと示されています。その時に生存していた人々は、そこで他の全てのものとともに、消え去るしかないのでしょうか?次の節にそうではないということが記されています。
2) 再びこられる主イエス様 (26,27)
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(26,27)
その時、全てが終わろうとする、まさにその時、イエス様が再び現れ彼の心にかなった者があらゆるところから呼び集められる、とあります。その時、地球にどれほどの人間が生存しているのか?そこからどれほどの人が呼ばれるのか、呼ばれないのか、興味はつきませんが、それは誰にもわかりません。どのようにしてそれが起こるのかは、いつ起こるかということと同様に詮索するべきものではありません。それがたとえあなたが生きているうちに起こったとしても、あなたはイエス様と共に歩めることを喜んでいるのですから、何も心配することはありません
B. このことをどう受け取って、生きる力とするのか?
1) 聖書の歴史観
中国から伝わった「杞憂」という言葉があります。天が落ちて来たらどこにも逃げられないと心配して毎日何も手につかずに無為に過ごした人が、紀元前500年頃存在した杞という国にいたのだそうです。2500年前の中国の人も世の終わりを心配していました。「いつ、どのような」を考えることにエネルギーを費やすのは杞憂です。私たちが今日心に留めたいことは、ただこの目に見える世界には初めがあり、終りがあるということだけです。神様が世界を造った時、人間はいませんでした。創世記によれば、人間は神様の世界創造の総仕上げとして、神様の代理を務める管理者として造られました。イエス様が来られてからでも2000年、世代は30回前後交代してきました。日本人が初めて福音を聞いたのはおよそ500年前ですから、それから10回くらいの世代交代があったわけです。初代教会の人々が普通の感覚として終りが近いと感じていたように、私たちが「まだそれは少なくとも数世代先なのでは」と感じることも普通のことです。しかし、いつか終りが来ることは確かです
2) 私たちの心構え
その時期がわからないのは実は幸せなことです。神様はどの時代の人にも公平な扱いをされています。イエス様に従うこと、愛に生きること、イエス様を紹介し続けることが私たちに託されていることです。私達は皆、そのことを誰かから知らされ、イエス様に従う者になりました。それを感謝し、喜んでいるので子供たちに伝えます。私たちのこのプライオリティーは明日が世界の終りだとしても変わりありません。また、目に見える世界に始まりと終りがあるように、この体を持って生きる私たちの生涯にも、始まりがありました。そして終りも来るのです。それが自分の死であれ、終末の到来であれ、それらに対する心構えは同じです。何れにしてもこの世界からはいなくなるのです。しかし主イエス様と共に歩んだ者には、希望の約束があります。
メッセージのポイント 聖書は、世界には始まりがあり終わりがあることを告げています。第一世代のクリスチャンたちはそれが自分たちの時代に起こる事だと感じていました。しかし2000年経った今でもその時は来ていません。今まで世界で起こってきたことの中には、人々に終末を連想させることがたくさんありましたが、まだ来ていません。大きな戦争や天変地異、経済恐慌が起こるたびに、終末を宣言する偽預言者や、自分が再臨のキリストだと言う人々があらわれてきました。それでも終わりではなかったということは、本当のしるしは、もっと深刻で困難なものだということです。偽キリストにしてもはるかに巧妙で魅力的な装いで現れるということです。大切なことはその時がいつかという詮索をすることではなく、それが次の瞬間でも、その前に自分が地上の命をおえても、後悔しないように人生をおくることです。
話し合いのために
1) イエス様はなぜこのことを語ったのでしょう?
2) その日がいつかわからないなら、どのように生きれば良いのですか?
イエス様が再び来られる日 (マルコによる福音書13:14-27)
A. 終わりの日
1) 終わりの日がくる時のしるし (14-25)
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。(14-25)
先週、終りの時代は始まっているとお話しました。その続きである今日の部分は、終りの終りについて書かれています。イエス様が弟子たちに教えられたのは、彼らが緊張感をもって真剣に生きることと、どの時代の信仰者も、次の世代に同じ思いを持って生きるように伝えることを教えるためでした。イエス様はここで、ダニエル書9章23節の表現を借りて、大きな災いをもたらす“反キリスト”が現れることを教えています。ダニエル書は、紀元前167年、エルサレムの神殿にゼウスの像と祭壇が築かれ、ユダヤ人に対する弾圧が起こったことを指していますが、イエス様は、もっと直接的に脅威となる人間の登場として警告しています。私達は多くの災いに会って来ましたが、終末の災いは、今までの災とは比べ物にならないもので、人々は逃げまどうしかないようなものであるというのです。あちこちに偽メシア、偽預言者が現れて人を惑わすことも、今まで以上の規模で起こるのです。この世界の混乱が終わると、ついに全宇宙のあらゆるものが終りを迎えるということがはっきりと示されています。その時に生存していた人々は、そこで他の全てのものとともに、消え去るしかないのでしょうか?次の節にそうではないということが記されています。
2) 再びこられる主イエス様 (26,27)
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(26,27)
その時、全てが終わろうとする、まさにその時、イエス様が再び現れ彼の心にかなった者があらゆるところから呼び集められる、とあります。その時、地球にどれほどの人間が生存しているのか?そこからどれほどの人が呼ばれるのか、呼ばれないのか、興味はつきませんが、それは誰にもわかりません。どのようにしてそれが起こるのかは、いつ起こるかということと同様に詮索するべきものではありません。それがたとえあなたが生きているうちに起こったとしても、あなたはイエス様と共に歩めることを喜んでいるのですから、何も心配することはありません
B. このことをどう受け取って、生きる力とするのか?
1) 聖書の歴史観
中国から伝わった「杞憂」という言葉があります。天が落ちて来たらどこにも逃げられないと心配して毎日何も手につかずに無為に過ごした人が、紀元前500年頃存在した杞という国にいたのだそうです。2500年前の中国の人も世の終わりを心配していました。「いつ、どのような」を考えることにエネルギーを費やすのは杞憂です。私たちが今日心に留めたいことは、ただこの目に見える世界には初めがあり、終りがあるということだけです。神様が世界を造った時、人間はいませんでした。創世記によれば、人間は神様の世界創造の総仕上げとして、神様の代理を務める管理者として造られました。イエス様が来られてからでも2000年、世代は30回前後交代してきました。日本人が初めて福音を聞いたのはおよそ500年前ですから、それから10回くらいの世代交代があったわけです。初代教会の人々が普通の感覚として終りが近いと感じていたように、私たちが「まだそれは少なくとも数世代先なのでは」と感じることも普通のことです。しかし、いつか終りが来ることは確かです
2) 私たちの心構え
その時期がわからないのは実は幸せなことです。神様はどの時代の人にも公平な扱いをされています。イエス様に従うこと、愛に生きること、イエス様を紹介し続けることが私たちに託されていることです。私達は皆、そのことを誰かから知らされ、イエス様に従う者になりました。それを感謝し、喜んでいるので子供たちに伝えます。私たちのこのプライオリティーは明日が世界の終りだとしても変わりありません。また、目に見える世界に始まりと終りがあるように、この体を持って生きる私たちの生涯にも、始まりがありました。そして終りも来るのです。それが自分の死であれ、終末の到来であれ、それらに対する心構えは同じです。何れにしてもこの世界からはいなくなるのです。しかし主イエス様と共に歩んだ者には、希望の約束があります。
メッセージのポイント 聖書は、世界には始まりがあり終わりがあることを告げています。第一世代のクリスチャンたちはそれが自分たちの時代に起こる事だと感じていました。しかし2000年経った今でもその時は来ていません。今まで世界で起こってきたことの中には、人々に終末を連想させることがたくさんありましたが、まだ来ていません。大きな戦争や天変地異、経済恐慌が起こるたびに、終末を宣言する偽預言者や、自分が再臨のキリストだと言う人々があらわれてきました。それでも終わりではなかったということは、本当のしるしは、もっと深刻で困難なものだということです。偽キリストにしてもはるかに巧妙で魅力的な装いで現れるということです。大切なことはその時がいつかという詮索をすることではなく、それが次の瞬間でも、その前に自分が地上の命をおえても、後悔しないように人生をおくることです。
話し合いのために
1) イエス様はなぜこのことを語ったのでしょう?
2) その日がいつかわからないなら、どのように生きれば良いのですか?