<メッセージノート>

August 12th, 2012 Vol.19 No.33 (マルコによる福音書14:1-9)
イエス様の喜ばれること 池田真理
A. この時はどんな時だったのか?(1-2)
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
 
B. ベタニアでのできごと
さて、イエス様は、このようにご自分が捕らえられる時が迫っていることをご存知でした。でも、今までと同じように、人々と一緒に時間を過ごされていました。3節から5節を読みます。
1) 人々はイエス様の教えに反すると思った(3-5)
イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
 
2) イエス様は喜ばれた(6-8a)
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はできるかぎりのことをした。
 
3) 実は誰も知らなかった意味があった(8-9)
この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 
メッセージのポイント 私たちはイエス様に従おうとしながら、簡単にイエス様を見失ってしまいます。それは他人の意見や外見の行いに惑わされてしまうからです。イエス様は私たち一人一人との一対一の関係を何より大切にされます。私たちがそれぞれの置かれた状況の中で、その時その場でイエス様の喜ばれることはなんだろうと考え、行動することが、唯一イエス様の喜ばれることです。それが他人の目に良く映るかどうかは関係ありません。そして、そのようにしたことが、神様の計画の中で実は自分では思いもよらなかった、全く違う大きな意味を持つこともあるのです。

話し合いのために

1)「なぜこんなに無駄遣いしたのか」と言った人々は、何を間違えていたのでしょうか?
2)イエス様は、この女性のどういうところを喜ばれたのでしょうか?

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<メッセージ全文>

August 12th, 2012 Vol.19 No.33 (マルコによる福音書14:1-9)
イエス様の喜ばれること 池田真理
A. この時はどんな時だったのか?(1-2)
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
先週まで数ヶ月の間、私たちはイエス様がエルサレムに入ってから数日の間に人々に教えられたことを読んできました。その間にも、イエス様を捕らえて殺そうとする権力者たちの企みが何回か出てきたと思います。でも、イエス様の教えに感動し、イエス様を慕う人々が多くいたので、彼らが反抗するのを恐れて、簡単にイエス様を逮捕することはできませんでした。それは今日の箇所でも同じだったようです。ただ、今日の箇所では特に、過越祭と除酵祭の間はやめておこう、と言っています。過越祭と除酵祭はユダヤ人にとって重要なお祭りでした。この時期になると、他の町や村からエルサレムに人々が押し寄せて、エルサレムの町は人で溢れることになったそうです。だから、「祭りの間はやめておこう」というのは、ただでさえ人がごったがえして混乱が起きやすいのだから、そんな中でイエス様を逮捕したら、民衆が騒ぎ出してうまくいかない可能性が高いからやめておこう、という意味だったのかもしれません。少なくとも、彼らがそのようにして慎重に良い機会を狙っていたことは確かだと思います。来週読む箇所では、ユダが彼らに近づいて、その「良い機会」を提供することになります。そうすると彼らは、祭りの間であるにもかかわらず、イエス様の逮捕に乗り出します。
 
B. ベタニアでのできごと
さて、イエス様は、このようにご自分が捕らえられる時が迫っていることをご存知でした。でも、今までと同じように、人々と一緒に時間を過ごされていました。3節から5節を読みます。
1) 人々はイエス様の教えに反すると思った(3-5)
イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
ベタニアはエルサレムのすぐ近くの村です。イエス様と弟子たちは、エルサレムに到着してからこの数日間、夜は主にこのベタニアという村で宿をとっていたようです。そして、この日はらい病の人シモンという人の家で食事をしていたところで、この出来事がありました。 ここで女性がイエス様に注いだ香油は、「純粋で非常に高価なナルドの香油」で、「三百デナリオン以上」の価値があったと書いてあります。英語では一年分の賃金以上と訳されていますが、1デナリオンが大体一日分の賃金だったから、その300日分で一年分の賃金、ということです。つまり、この香油は当時の労働者の年収以上の額に相当する大変贅沢なものだったということです。そこにいた人々が、イエス様に注がれた香油がそんなに高価な香油だとすぐに分かったのは、壷が豪華だったからかもしれませんが、香りが素晴らしく良かったからでしょう。そんな素晴らしい香りをかいで、すぐに、そんな贅沢品を身につけることをイエス様が喜ぶはずがないと思いました。恐らくこの場には弟子たちはもちろん、イエス様を慕う村人や他の人々もいたと思います。その人たちは、イエス様が病人や罪人、貧しい人々の味方であることを知っていましたし、だからこそイエス様を先生として慕っていた人も多かったかもしれません。この時も、イエス様はらい病の人の家で食事をしていました。そんな方が、権力者や貴族が好んで身につけるような贅沢品を好まれるはずがないと思ったのでしょう。そして、そんな高価なものを持っているのだったら、進んで困っている人たちのために使うようにおっしゃるに違いないと確信していたのだと思います。彼らは、この女性がイエス様に香油を注いだことを「無駄使い」とまで言っています。香油を注がれたイエス様の目の前で、「そんな香油の使い方は無駄使いだ」と言い切ってしまうのもずいぶん大胆だと思いますが、それほど彼らはそれがイエス様の教えに反すると信じて疑わなかったということかもしれません。でも、イエス様の反応は違いました。6節から8節の前半を読みます。
 
2) イエス様は喜ばれた(6-8a)
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はできるかぎりのことをした。
人々の予想を裏切り、イエス様はこの女性のしたことを喜ばれました。なぜなら「私に良いことをしてくれた」からだとおっしゃいました。イエス様が贅沢な香油を身に付けたかったということでしょうか?そうではないと思います。人々が考えたとおり、イエス様は香油をつけることを望まれていたわけではないと思います。そんなに贅沢なものを持つことすら、好ましいとは思われなかったかもしれません。別の聖書の箇所で、金持ちの人に、持っているものを全て売り払ってから私に従いなさい、とおっしゃったのもイエス様です。では、なぜイエス様はこの女性のしたことを喜んだのでしょうか?「この人はできるかぎりのことをした」からです。この女性は、最高級の香油をイエス様につけてあげることが、今イエス様に対して自分ができる最大のことだと思って、実行しました。イエス様もきっと香油を喜んでくださるはずだと信じていたのだと思います。この点でこの女性は間違っていたとも言えます。イエス様は香油をつけたいとは望んでいなかったからです。でもイエス様は、そんなことは関係なく、ただこの女性の態度を喜ばれました。女性のしたこと自体は、確かに人々が考えた通り、イエス様の望んでいたことではありませんでした。でも、女性がその時自分にできる最大のことをイエス様にしたいという気持ちを、イエス様は知っていて、それを何より喜ばれたのだと思います。 周りにいた人々は、そんな女性の気持ちよりも、女性の目に見える行為のほうで、イエス様が喜ぶかどうかを判断しました。その人たちは、自分たちがイエス様の教えをよく分かっていて、イエス様が何を喜ぶかもよく知っている、という自負があったのかもしれません。でも、そんな誇りは間違いでした。イエス様が何を喜ばれるのかは、イエス様が直接その人の心を見て決めることで、他人には分からないということだと思います。私たち一人一人が置かれている状況はみんな違っています。年齢も経験も性格も違うし、一人の人でも精神状態や健康状態によって、その時できることは変わってくると思います。だから、自分が他の人と同じようにできなくても不安になる必要はないと思います。それに、この女性のように、イエス様が喜ばれるはずだと信じてやったことが、後になって実はイエス様は望んでいなかったと分かったとしても、その時の私たちの気持ちをイエス様は喜んでくださるから、安心していられます。イエス様は、私たちの行いよりも、それをする心を見ておられて、それはただ私とイエス様一対一の関係の中のことで、他の人が口を挟む余地はありません。自分とイエス様の関係の中で、これがイエス様に喜んでいただくために今私にできることだと思ったら、他人の意見に関係なく、やってみればいいでしょう。それがたとえ、他の人に批判されて、実際後になって間違いだったと分かっても、イエス様は私たちの心を喜んでくださいます。 ただ、イエス様を愛するということは、他人を愛さないということでもありません。これはユアチャーチのカヴェナントに戻ってきますが、イエス様を愛し、イエス様を喜ばせることは、私たちのすること全ての土台になっていて、他人を愛し、世界を愛することは、その土台の上にあるものです。私たちはイエス様を愛しているからこそ、他人を愛します。イエス様を愛していたら、イエス様の愛する人々をイエス様のように愛したいと願うからです。イエス様を愛することが全ての始まりです。続きを読みます。
 
3) 実は誰も知らなかった意味があった(8-9)
この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 イエス様はご自分が殺される時が近いとご存知でした。そして、それが人間を救う神様の計画で、良い知らせ=福音として世界に伝えられることになるということも知っていました。それがイエス様の目的でした。でも、そのことをこの時点で理解していた人は誰もいなかったでしょう。香油を注いだ女性も、まさか自分のしたことが埋葬の準備だと言われるとは思わなかったでしょう。そして、それ以上に、自分のしたことが聖書の一部となって2000年以上に渡って世界中で語られることになるとは想像もしなかったと思います。イエス様はこの数日後に十字架に付けられて亡くなりました。罪人として処刑されたために、香料を使った処置などはされないままお墓に入れられましたが、この女性がここで前もってその処置をしてくれた、とイエス様はおっしゃいました。この女性がイエス様に喜んでいただきたいと願って、その時自分にできることをやってみたら、それが実は神様の計画の中で大きな意味があることだったのです。私たちがイエス様の喜ばれることを求めて行動するときも、神様は私たちが意図した以上の、または全く別の目的のために私たちを用いてくださるかもしれません。 私たちのイエス様への思いは、他の人には見えていないこともあるかもしれませんが、神様はしっかり見ていてくださいます。そして、たとえ私たちの目に見える行いが間違ったとしても、時にはそれすらも神様のよい目的のために用いてくださいます。イエス様の喜ばれることは何か、真剣に求めながら、神様の愛の大きさに安心して期待して行動していきましょう。

メッセージのポイント 私たちはイエス様に従おうとしながら、簡単にイエス様を見失ってしまいます。それは他人の意見や外見の行いに惑わされてしまうからです。イエス様は私たち一人一人との一対一の関係を何より大切にされます。私たちがそれぞれの置かれた状況の中で、その時その場でイエス様の喜ばれることはなんだろうと考え、行動することが、唯一イエス様の喜ばれることです。それが他人の目に良く映るかどうかは関係ありません。そして、そのようにしたことが、神様の計画の中で実は自分では思いもよらなかった、全く違う大きな意味を持つこともあるのです。

話し合いのために

1)「なぜこんなに無駄遣いしたのか」と言った人々は、何を間違えていたのでしょうか?
2)イエス様は、この女性のどういうところを喜ばれたのでしょうか?