<メッセージノート>
2012年8月26日
聖餐 (マルコによる福音書14:22-26)
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
A.裂かれたキリストの体
1) イエス様の言葉を生きていく糧とする
2) 私たちのために引き裂かれた体の一部となる
B. 流されたキリストの血
1) イエス様にとっては命をかけた愛のしるし、私たちにとっては赦されたしるし
2) 十字架によって知らされた本当の過越の意味
メッセージのポイント
聖餐は洗礼とともにイエス様から命じられた二つの守るべき事です。どちらも広い意味での「礼拝」に含まれる、信仰を目に見える形で表現する礼典です。多くの教会では日曜礼拝の中でこれらを行ないます。回数や作法については教派によって異なります。しかし、大切なのは聖餐に与る意味です。イエス様の裂かれた体、それをいただくことは、イエス様の苦しみが自分のためであったという悔い改めと、体の一部であるという自覚を新たにすることです。イエス様流された血は、その死によって私たちに与えられた赦しと永遠の命という最高の愛のしるしであり、この愛によって生きるという決意を新たにするものです。
話し合いのために
1) パンとワインにどのような意味がありますか?
2) 誰が聖餐にあずかる資格がありますか?
聖餐 (マルコによる福音書14:22-26)
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
A.裂かれたキリストの体
1) イエス様の言葉を生きていく糧とする
2) 私たちのために引き裂かれた体の一部となる
B. 流されたキリストの血
1) イエス様にとっては命をかけた愛のしるし、私たちにとっては赦されたしるし
2) 十字架によって知らされた本当の過越の意味
メッセージのポイント
聖餐は洗礼とともにイエス様から命じられた二つの守るべき事です。どちらも広い意味での「礼拝」に含まれる、信仰を目に見える形で表現する礼典です。多くの教会では日曜礼拝の中でこれらを行ないます。回数や作法については教派によって異なります。しかし、大切なのは聖餐に与る意味です。イエス様の裂かれた体、それをいただくことは、イエス様の苦しみが自分のためであったという悔い改めと、体の一部であるという自覚を新たにすることです。イエス様流された血は、その死によって私たちに与えられた赦しと永遠の命という最高の愛のしるしであり、この愛によって生きるという決意を新たにするものです。
話し合いのために
1) パンとワインにどのような意味がありますか?
2) 誰が聖餐にあずかる資格がありますか?
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<メッセージ全文>
2012年8月26日
聖餐 (マルコによる福音書14:22-26)
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
この事は、ユダヤ教の伝統的習慣である過越の食事の中で行われました。先週のメッセージの中で、なぜイエス様は、過去の出来事を思い起こすための過越の食事をなさろうとしたのかということが話題になりました。それは、このあと起こる十字架の出来事によって、過越の意味が、もっと広く、もっと深くなることを弟子たちに悟らせるためでした。今、キリスト教会で行われている聖餐式は、私たちが、私たちにとっての過越:十字架の意味を忘れないための大切な時なのです。
A.裂かれたキリストの体
1) イエス様の言葉を生きていく糧とする
イエス様は伝統的な過越の食事の最中に、全く伝統にないことを始められました。イエス様は、突飛な言動で、恒例の繰り返しにすぎないと思われていた伝統に、新しい意味を発見させる光を当てることが得意です。しかし、それにしても「取りなさい。これは私の体である」とは大胆な言葉です。それはご自分が単に彼らの先生であるだけではなく、先生を超えた存在であることを明らかにしているともいえます。イエス様は、はるか遠くで私たちには近づきがたい在り方ではなく、私たちに親しく近づき語りかけて下さる、つまり「神様のことば」という在り方をとって、この世界に来てくださいました。ヨハネによる福音書はその最初の部分で、この事をわかりやすく説明しています。人が本当に人らしく生きるために必要なのは、体の餓えを癒す食物ではなく、心の餓えを癒す食物であることは旧約聖書でも教えられていましたが、それはただイエス様に聞き従うことで可能なのです。そして、私たちがそうできるようになるため、イエス様ご自身はその体を殺されるために差し出されたのです。このイエス様の愛に応えたいなら、イエス様の言葉を食べ続けて生きることです。このことを忘れないためにも、この地上にいる限り、聖餐に与り続けましょう。
2) 私たちのために引き裂かれた体の一部となる
私たちが、イエス様の体を受け取り、食べるということは、私たちが実際には見えなくなるイエス様の体の一部となるということをも表すものです。パウロは、聖餐について教えたコリントの信徒への第一の手紙の、すぐ次の12章で私たちがキリストの体の一部であることを教えます。宗教という言葉には、元々「切られ、再び結び合わされる」という意味があります。しかしそれは、単に神様と一人の人間との間のことではないのです。本当の宗教は、人と人を結ぶ力も持っています。神様と個人との断絶は、人と人、民族と民族、国と国との対立を生み出しました。そして神様との和解は人々との和解を可能にします。信仰の決断は個人的なものです。しかし信仰の実践は決して個人的なものではありません。神様だけではなく、人との関わりの中でなされるのです。私たちは「ひとつになる、心ひとつにして」ということが、実は大変困難なことであることを知っています。そうしたいと願い、失敗してがっかりするのです。それでも、諦めずに一致をめざして歩み続けることを主は願っておられます。聖餐は、この歩みを励ますために備えられたものでもあるのです。
B. 流されたキリストの血
1) イエス様にとっては命をかけた愛のしるし、私たちにとっては赦されたしるし
私たちにとっての過越は、罪の報酬としての死:神様からの断絶から救い出されたことを意味します。しかし流されたのは動物の血ではありません。人として生きられた神様、イエス・キリストの血です。それほどまでに神様はあなたを愛していてくださっています。私たちの救いは、あの十字架で完成しました。それ以外のものは必要としないのです。というか、それ以外を付け加えなければならないというなら、それは、イエス様の十字架は不完全だったということになります。立派な行い、高価な捧げ物といったものは自発的な感謝のしるしであって、救われるための条件ではありません。私たちは、毎年犠牲を捧げることを求められてはいませんが、この血が自分自身のために流されたことを忘れないために、毎月聖餐式を行なっています。けれどもそれは過去の恵みを感謝するだけのことではありません。未来にも繋がってゆく重要性を持っているのです。もう一度、25,26節を読みましょう
2) 十字架によって知らされた本当の過越の意味
イスラエル民族にとっては、過越は過去の神様の大きな恵みの記憶です。しかし、あの過去の過越は実はすべての人のための真の過越の予告だったことが、イエス様の十字架によって明らかになったのです。私達が背いた神様ご自身が、人として苦しみを受け、血を流されました。その血のしるしを受けた者は赦され、神様との関係が回復されたのです。ところで、この恵みは一度で完成した出来事です。それではなぜ私達はこの儀式を世の終わりまで繰り返すことを命じられているのでしょうか?それは第一に、記憶を鮮明にしておくためです。イエス様を主と信じて告白した者に、この恵みは確かに与えられました。しかしかつてそれを用いて神様に背を向けた「自由意志」を私たちは持っています。それは恵みを忘れて迷いだす危険があるということです。第二に、希望を持ち続けるためです。もう一度神の国でイエス様と共に親しく語り合いワインをいただくような時が、私たちの未来にはあるのです
メッセージのポイント
聖餐は洗礼とともにイエス様から命じられた二つの守るべき事です。どちらも広い意味での「礼拝」に含まれる、信仰を目に見える形で表現する礼典です。多くの教会では日曜礼拝の中でこれらを行ないます。回数や作法については教派によって異なります。しかし、大切なのは聖餐に与る意味です。イエス様の裂かれた体、それをいただくことは、イエス様の苦しみが自分のためであったという悔い改めと、体の一部であるという自覚を新たにすることです。イエス様流された血は、その死によって私たちに与えられた赦しと永遠の命という最高の愛のしるしであり、この愛によって生きるという決意を新たにするものです。
話し合いのために
1) パンとワインにどのような意味がありますか?
2) 誰が聖餐にあずかる資格がありますか?
聖餐 (マルコによる福音書14:22-26)
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
この事は、ユダヤ教の伝統的習慣である過越の食事の中で行われました。先週のメッセージの中で、なぜイエス様は、過去の出来事を思い起こすための過越の食事をなさろうとしたのかということが話題になりました。それは、このあと起こる十字架の出来事によって、過越の意味が、もっと広く、もっと深くなることを弟子たちに悟らせるためでした。今、キリスト教会で行われている聖餐式は、私たちが、私たちにとっての過越:十字架の意味を忘れないための大切な時なのです。
A.裂かれたキリストの体
1) イエス様の言葉を生きていく糧とする
イエス様は伝統的な過越の食事の最中に、全く伝統にないことを始められました。イエス様は、突飛な言動で、恒例の繰り返しにすぎないと思われていた伝統に、新しい意味を発見させる光を当てることが得意です。しかし、それにしても「取りなさい。これは私の体である」とは大胆な言葉です。それはご自分が単に彼らの先生であるだけではなく、先生を超えた存在であることを明らかにしているともいえます。イエス様は、はるか遠くで私たちには近づきがたい在り方ではなく、私たちに親しく近づき語りかけて下さる、つまり「神様のことば」という在り方をとって、この世界に来てくださいました。ヨハネによる福音書はその最初の部分で、この事をわかりやすく説明しています。人が本当に人らしく生きるために必要なのは、体の餓えを癒す食物ではなく、心の餓えを癒す食物であることは旧約聖書でも教えられていましたが、それはただイエス様に聞き従うことで可能なのです。そして、私たちがそうできるようになるため、イエス様ご自身はその体を殺されるために差し出されたのです。このイエス様の愛に応えたいなら、イエス様の言葉を食べ続けて生きることです。このことを忘れないためにも、この地上にいる限り、聖餐に与り続けましょう。
2) 私たちのために引き裂かれた体の一部となる
私たちが、イエス様の体を受け取り、食べるということは、私たちが実際には見えなくなるイエス様の体の一部となるということをも表すものです。パウロは、聖餐について教えたコリントの信徒への第一の手紙の、すぐ次の12章で私たちがキリストの体の一部であることを教えます。宗教という言葉には、元々「切られ、再び結び合わされる」という意味があります。しかしそれは、単に神様と一人の人間との間のことではないのです。本当の宗教は、人と人を結ぶ力も持っています。神様と個人との断絶は、人と人、民族と民族、国と国との対立を生み出しました。そして神様との和解は人々との和解を可能にします。信仰の決断は個人的なものです。しかし信仰の実践は決して個人的なものではありません。神様だけではなく、人との関わりの中でなされるのです。私たちは「ひとつになる、心ひとつにして」ということが、実は大変困難なことであることを知っています。そうしたいと願い、失敗してがっかりするのです。それでも、諦めずに一致をめざして歩み続けることを主は願っておられます。聖餐は、この歩みを励ますために備えられたものでもあるのです。
B. 流されたキリストの血
1) イエス様にとっては命をかけた愛のしるし、私たちにとっては赦されたしるし
私たちにとっての過越は、罪の報酬としての死:神様からの断絶から救い出されたことを意味します。しかし流されたのは動物の血ではありません。人として生きられた神様、イエス・キリストの血です。それほどまでに神様はあなたを愛していてくださっています。私たちの救いは、あの十字架で完成しました。それ以外のものは必要としないのです。というか、それ以外を付け加えなければならないというなら、それは、イエス様の十字架は不完全だったということになります。立派な行い、高価な捧げ物といったものは自発的な感謝のしるしであって、救われるための条件ではありません。私たちは、毎年犠牲を捧げることを求められてはいませんが、この血が自分自身のために流されたことを忘れないために、毎月聖餐式を行なっています。けれどもそれは過去の恵みを感謝するだけのことではありません。未来にも繋がってゆく重要性を持っているのです。もう一度、25,26節を読みましょう
2) 十字架によって知らされた本当の過越の意味
イスラエル民族にとっては、過越は過去の神様の大きな恵みの記憶です。しかし、あの過去の過越は実はすべての人のための真の過越の予告だったことが、イエス様の十字架によって明らかになったのです。私達が背いた神様ご自身が、人として苦しみを受け、血を流されました。その血のしるしを受けた者は赦され、神様との関係が回復されたのです。ところで、この恵みは一度で完成した出来事です。それではなぜ私達はこの儀式を世の終わりまで繰り返すことを命じられているのでしょうか?それは第一に、記憶を鮮明にしておくためです。イエス様を主と信じて告白した者に、この恵みは確かに与えられました。しかしかつてそれを用いて神様に背を向けた「自由意志」を私たちは持っています。それは恵みを忘れて迷いだす危険があるということです。第二に、希望を持ち続けるためです。もう一度神の国でイエス様と共に親しく語り合いワインをいただくような時が、私たちの未来にはあるのです
メッセージのポイント
聖餐は洗礼とともにイエス様から命じられた二つの守るべき事です。どちらも広い意味での「礼拝」に含まれる、信仰を目に見える形で表現する礼典です。多くの教会では日曜礼拝の中でこれらを行ないます。回数や作法については教派によって異なります。しかし、大切なのは聖餐に与る意味です。イエス様の裂かれた体、それをいただくことは、イエス様の苦しみが自分のためであったという悔い改めと、体の一部であるという自覚を新たにすることです。イエス様流された血は、その死によって私たちに与えられた赦しと永遠の命という最高の愛のしるしであり、この愛によって生きるという決意を新たにするものです。
話し合いのために
1) パンとワインにどのような意味がありますか?
2) 誰が聖餐にあずかる資格がありますか?