<メッセージノート>
2012年9月2日
イエス様につまずく (マルコによる福音書14:27-31)
A. イエス様の受難に耐えられなかった弟子たち
1) 人間的信頼の限界(27)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
2) 「絶望では終わらない」という預言(28)
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
B. 信頼から信仰へ (29-31)
29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
1) 信頼と信仰の違い
2) 聖霊に満たされることを願う
メッセージのポイント
ペトロをはじめ弟子たちは皆、イエス様の受難に際して、自分たちには殉教の覚悟があると確信していましたが、結果はここでイエス様が預言された通りになりました。人間的な信頼の限界です。しかし復活されたイエス様に出会い、聖霊に満たされた弟子たちは、今度はイエス様を知らないということなく本当に殉教の死を遂げても、イエス様は主なる神様です、と知らせ続けました。十字架以前はイエス様に人間的な信頼を寄せていただけだった弟子たちは、復活されたイエス様に会い、聖霊に満たされて信頼は揺るぎない信仰へと変えられました。
話し合いのために
1) イエス様につまづくとはどういうことですか?
2) 信仰と信頼の決定的な違いは?
イエス様につまずく (マルコによる福音書14:27-31)
A. イエス様の受難に耐えられなかった弟子たち
1) 人間的信頼の限界(27)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
2) 「絶望では終わらない」という預言(28)
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
B. 信頼から信仰へ (29-31)
29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
1) 信頼と信仰の違い
2) 聖霊に満たされることを願う
メッセージのポイント
ペトロをはじめ弟子たちは皆、イエス様の受難に際して、自分たちには殉教の覚悟があると確信していましたが、結果はここでイエス様が預言された通りになりました。人間的な信頼の限界です。しかし復活されたイエス様に出会い、聖霊に満たされた弟子たちは、今度はイエス様を知らないということなく本当に殉教の死を遂げても、イエス様は主なる神様です、と知らせ続けました。十字架以前はイエス様に人間的な信頼を寄せていただけだった弟子たちは、復活されたイエス様に会い、聖霊に満たされて信頼は揺るぎない信仰へと変えられました。
話し合いのために
1) イエス様につまづくとはどういうことですか?
2) 信仰と信頼の決定的な違いは?
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<メッセージ全文>
2012年9月2日
イエス様につまずく (マルコによる福音書14:27-31)
A. イエス様の受難に耐えられなかった弟子たち
1) 人間的信頼の限界(27)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
弟子たちは、イエス様がどんな目にあっても、自分たちはイエス様を見捨てることはないだろうと思い込んでいました。ペトロなどは、みんながつまずいても、自分だけはつまずかないと、一緒に死ぬことになってもついて行くと言っているのです。彼の気持ちに嘘はなかったのです。本当にそうなるなら一緒に死ねるつもりでした。けれどもゼカリヤ書13章で預言されているとおりに、捕らえられた羊飼いについてゆける羊はいないのです。今日は皆さんに「つまずく」という言葉に注目して頂きます。つまずくとは歩いていて何かに引っかかり体勢を崩すことです。つまずかせるためには石とか段差が必要です。それを「つまずき」と呼びます。ギリシャ語の「スカンダロン」の訳で「スキャンダル」の語源です。日本語だと、つい自分の不注意で体勢を崩したという印象ですが、弟子たちは偶発的に逃げ出すのではないのです。「弟子たちは皆、私と共にいることはもはやスキャンダルだと思うようになる。身の危険があるだけではなく、不名誉なこと、恥ずかしいことだと思うようになる。」とイエス様は予告します。弟子たちが強く否定するのも、もっともなことです。しかし、この夜、イエス様のおっしゃったとおりいになるのです。弟子たちは、大きな力に無抵抗のイエス様を見て、これはついて行けない、こんな人について行くのはスキャンダラスなことだと思い直すのです。今までの彼らの「死に至るまでついて行くぞ」という姿勢は、一瞬にして崩れるのです。ですから、彼らは先週聞いた「ユダ」と本質的に変わらないのです。そして、それは私たち全てが持っている弱さでもあるのです。ですから、私たちが互いに信仰が強いとか弱いとか比べ合うのは、悲しいくらい滑稽なことです。
2) 「絶望では終わらない」という預言(28)
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
弟子たちがこの言葉をちゃんと聞き取っていたようには思えません。イエス様の死ということさえも現実味を持って自覚していたわけではありません。ましてや、復活後のことなど、理解できるはずがありません。イエス様は青から後で思い出させるために、こう言われました。ガリラヤは彼らのスタート地点です。数時間後、エルサレムは彼らにとって、トラウマの場所となるのです。「もう一度ガリラヤで会おう!」それはイエス様からの、希望に満ちた呼びかけです。何度でも、イエス様を悲しませてしまう私たちです。しかしイエス様は、「もういい、やめよう、私につまずくなら、そのままどこかに行ってしまいなさい」とは言わないのです。「もう一度はじめから私と一緒にやってみよう」と言われるのです。あなたが諦めてしまっていることでも、イエス様はまだ諦めていません。もしあなたが迷っていたり、絶望したりしているなら、あなたのガリラヤ、信仰の出発点に戻って歩きはじめましょう。
B. 信頼から信仰へ (29-31)
29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
1) 信頼と信仰の違い
この部分で皆さんに注目していただきたいのは「信頼」と「信仰」の違いについてです。ギリシャ語ではありません。漢字です。二つの違いはそれぞれの後ろの漢字の違いの通り「頼りにする事」と「仰ぐ事」との違いです。 信じて頼りにすることと、信じて仰ぐこととどう違うのでしょうか?信頼という言葉は人にも物にも使います。自分の期待に応えてくれると信じて頼るのです。だから、期待に応えてくれなければ、ためらわず捨ててしまいます。あくまで自分が主で、悪くいえば利用しているのです。これに対して信仰は、信じる相手が主なのです。信仰の仰は、天に向かって顔をあげることです。つまり、信じてあなたにお任せします、委ねます、ということなのです。このことからも信仰の本質は自分の行いではないことがわかります。小さな子供のように、自分を見ず、周りを気にかけず、イエス様にためらいなく近づくことこそ、信仰です
2) 聖霊に満たされることを願う
それではどうしたら信仰によって生きる事ができるのでしょう。あの弟子たちでさえ持ち得なかったのです。しかし、彼らは変わりました。それは復活したイエス様にお会いしたこと、聖霊に満たされたことが、彼らを変えたのです。そのチャンスは私たちにも与えられています。教会は目に見えるキリストの体です。私たちは、教会に通うことを期待されているのではありません。その一部となることを期待されているのです。それが復活した主と共に生きるということです。そして、聖霊はそのような者に注がれます。このあとのワーシップタイムの中でイエス様との出会いと聖霊に満たされることを求め、そして体験しましょう。
メッセージのポイント
ペトロをはじめ弟子たちは皆、イエス様の受難に際して、自分たちには殉教の覚悟があると確信していましたが、結果はここでイエス様が預言された通りになりました。人間的な信頼の限界です。しかし復活されたイエス様に出会い、聖霊に満たされた弟子たちは、今度はイエス様を知らないということなく本当に殉教の死を遂げても、イエス様は主なる神様です、と知らせ続けました。十字架以前はイエス様に人間的な信頼を寄せていただけだった弟子たちは、復活されたイエス様に会い、聖霊に満たされて信頼は揺るぎない信仰へと変えられました。
話し合いのために
1) イエス様につまづくとはどういうことですか?
2) 信仰と信頼の決定的な違いは?
イエス様につまずく (マルコによる福音書14:27-31)
A. イエス様の受難に耐えられなかった弟子たち
1) 人間的信頼の限界(27)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
弟子たちは、イエス様がどんな目にあっても、自分たちはイエス様を見捨てることはないだろうと思い込んでいました。ペトロなどは、みんながつまずいても、自分だけはつまずかないと、一緒に死ぬことになってもついて行くと言っているのです。彼の気持ちに嘘はなかったのです。本当にそうなるなら一緒に死ねるつもりでした。けれどもゼカリヤ書13章で預言されているとおりに、捕らえられた羊飼いについてゆける羊はいないのです。今日は皆さんに「つまずく」という言葉に注目して頂きます。つまずくとは歩いていて何かに引っかかり体勢を崩すことです。つまずかせるためには石とか段差が必要です。それを「つまずき」と呼びます。ギリシャ語の「スカンダロン」の訳で「スキャンダル」の語源です。日本語だと、つい自分の不注意で体勢を崩したという印象ですが、弟子たちは偶発的に逃げ出すのではないのです。「弟子たちは皆、私と共にいることはもはやスキャンダルだと思うようになる。身の危険があるだけではなく、不名誉なこと、恥ずかしいことだと思うようになる。」とイエス様は予告します。弟子たちが強く否定するのも、もっともなことです。しかし、この夜、イエス様のおっしゃったとおりいになるのです。弟子たちは、大きな力に無抵抗のイエス様を見て、これはついて行けない、こんな人について行くのはスキャンダラスなことだと思い直すのです。今までの彼らの「死に至るまでついて行くぞ」という姿勢は、一瞬にして崩れるのです。ですから、彼らは先週聞いた「ユダ」と本質的に変わらないのです。そして、それは私たち全てが持っている弱さでもあるのです。ですから、私たちが互いに信仰が強いとか弱いとか比べ合うのは、悲しいくらい滑稽なことです。
2) 「絶望では終わらない」という預言(28)
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
弟子たちがこの言葉をちゃんと聞き取っていたようには思えません。イエス様の死ということさえも現実味を持って自覚していたわけではありません。ましてや、復活後のことなど、理解できるはずがありません。イエス様は青から後で思い出させるために、こう言われました。ガリラヤは彼らのスタート地点です。数時間後、エルサレムは彼らにとって、トラウマの場所となるのです。「もう一度ガリラヤで会おう!」それはイエス様からの、希望に満ちた呼びかけです。何度でも、イエス様を悲しませてしまう私たちです。しかしイエス様は、「もういい、やめよう、私につまずくなら、そのままどこかに行ってしまいなさい」とは言わないのです。「もう一度はじめから私と一緒にやってみよう」と言われるのです。あなたが諦めてしまっていることでも、イエス様はまだ諦めていません。もしあなたが迷っていたり、絶望したりしているなら、あなたのガリラヤ、信仰の出発点に戻って歩きはじめましょう。
B. 信頼から信仰へ (29-31)
29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
1) 信頼と信仰の違い
この部分で皆さんに注目していただきたいのは「信頼」と「信仰」の違いについてです。ギリシャ語ではありません。漢字です。二つの違いはそれぞれの後ろの漢字の違いの通り「頼りにする事」と「仰ぐ事」との違いです。 信じて頼りにすることと、信じて仰ぐこととどう違うのでしょうか?信頼という言葉は人にも物にも使います。自分の期待に応えてくれると信じて頼るのです。だから、期待に応えてくれなければ、ためらわず捨ててしまいます。あくまで自分が主で、悪くいえば利用しているのです。これに対して信仰は、信じる相手が主なのです。信仰の仰は、天に向かって顔をあげることです。つまり、信じてあなたにお任せします、委ねます、ということなのです。このことからも信仰の本質は自分の行いではないことがわかります。小さな子供のように、自分を見ず、周りを気にかけず、イエス様にためらいなく近づくことこそ、信仰です
2) 聖霊に満たされることを願う
それではどうしたら信仰によって生きる事ができるのでしょう。あの弟子たちでさえ持ち得なかったのです。しかし、彼らは変わりました。それは復活したイエス様にお会いしたこと、聖霊に満たされたことが、彼らを変えたのです。そのチャンスは私たちにも与えられています。教会は目に見えるキリストの体です。私たちは、教会に通うことを期待されているのではありません。その一部となることを期待されているのです。それが復活した主と共に生きるということです。そして、聖霊はそのような者に注がれます。このあとのワーシップタイムの中でイエス様との出会いと聖霊に満たされることを求め、そして体験しましょう。
メッセージのポイント
ペトロをはじめ弟子たちは皆、イエス様の受難に際して、自分たちには殉教の覚悟があると確信していましたが、結果はここでイエス様が預言された通りになりました。人間的な信頼の限界です。しかし復活されたイエス様に出会い、聖霊に満たされた弟子たちは、今度はイエス様を知らないということなく本当に殉教の死を遂げても、イエス様は主なる神様です、と知らせ続けました。十字架以前はイエス様に人間的な信頼を寄せていただけだった弟子たちは、復活されたイエス様に会い、聖霊に満たされて信頼は揺るぎない信仰へと変えられました。
話し合いのために
1) イエス様につまづくとはどういうことですか?
2) 信仰と信頼の決定的な違いは?
2012年9月2日
イエス様につまずく (マルコによる福音書14:27-31)
A. イエス様の受難に耐えられなかった弟子たち
1) 人間的信頼の限界(27)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
弟子たちは、イエス様がどんな目にあっても、自分たちはイエス様を見捨てることはないだろうと思い込んでいました。ペトロなどは、みんながつまずいても、自分だけはつまずかないと、一緒に死ぬことになってもついて行くと言っているのです。彼の気持ちに嘘はなかったのです。本当にそうなるなら一緒に死ねるつもりでした。けれどもゼカリヤ書13章で預言されているとおりに、捕らえられた羊飼いについてゆける羊はいないのです。今日は皆さんに「つまずく」という言葉に注目して頂きます。つまずくとは歩いていて何かに引っかかり体勢を崩すことです。つまずかせるためには石とか段差が必要です。それを「つまずき」と呼びます。ギリシャ語の「スカンダロン」の訳で「スキャンダル」の語源です。日本語だと、つい自分の不注意で体勢を崩したという印象ですが、弟子たちは偶発的に逃げ出すのではないのです。「弟子たちは皆、私と共にいることはもはやスキャンダルだと思うようになる。身の危険があるだけではなく、不名誉なこと、恥ずかしいことだと思うようになる。」とイエス様は予告します。弟子たちが強く否定するのも、もっともなことです。しかし、この夜、イエス様のおっしゃったとおりいになるのです。弟子たちは、大きな力に無抵抗のイエス様を見て、これはついて行けない、こんな人について行くのはスキャンダラスなことだと思い直すのです。今までの彼らの「死に至るまでついて行くぞ」という姿勢は、一瞬にして崩れるのです。ですから、彼らは先週聞いた「ユダ」と本質的に変わらないのです。そして、それは私たち全てが持っている弱さでもあるのです。ですから、私たちが互いに信仰が強いとか弱いとか比べ合うのは、悲しいくらい滑稽なことです。
2) 「絶望では終わらない」という預言(28)
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
弟子たちがこの言葉をちゃんと聞き取っていたようには思えません。イエス様の死ということさえも現実味を持って自覚していたわけではありません。ましてや、復活後のことなど、理解できるはずがありません。イエス様は青から後で思い出させるために、こう言われました。ガリラヤは彼らのスタート地点です。数時間後、エルサレムは彼らにとって、トラウマの場所となるのです。「もう一度ガリラヤで会おう!」それはイエス様からの、希望に満ちた呼びかけです。何度でも、イエス様を悲しませてしまう私たちです。しかしイエス様は、「もういい、やめよう、私につまずくなら、そのままどこかに行ってしまいなさい」とは言わないのです。「もう一度はじめから私と一緒にやってみよう」と言われるのです。あなたが諦めてしまっていることでも、イエス様はまだ諦めていません。もしあなたが迷っていたり、絶望したりしているなら、あなたのガリラヤ、信仰の出発点に戻って歩きはじめましょう。
B. 信頼から信仰へ (29-31)
29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
1) 信頼と信仰の違い
この部分で皆さんに注目していただきたいのは「信頼」と「信仰」の違いについてです。ギリシャ語ではありません。漢字です。二つの違いはそれぞれの後ろの漢字の違いの通り「頼りにする事」と「仰ぐ事」との違いです。 信じて頼りにすることと、信じて仰ぐこととどう違うのでしょうか?信頼という言葉は人にも物にも使います。自分の期待に応えてくれると信じて頼るのです。だから、期待に応えてくれなければ、ためらわず捨ててしまいます。あくまで自分が主で、悪くいえば利用しているのです。これに対して信仰は、信じる相手が主なのです。信仰の仰は、天に向かって顔をあげることです。つまり、信じてあなたにお任せします、委ねます、ということなのです。このことからも信仰の本質は自分の行いではないことがわかります。小さな子供のように、自分を見ず、周りを気にかけず、イエス様にためらいなく近づくことこそ、信仰です
2) 聖霊に満たされることを願う
それではどうしたら信仰によって生きる事ができるのでしょう。あの弟子たちでさえ持ち得なかったのです。しかし、彼らは変わりました。それは復活したイエス様にお会いしたこと、聖霊に満たされたことが、彼らを変えたのです。そのチャンスは私たちにも与えられています。教会は目に見えるキリストの体です。私たちは、教会に通うことを期待されているのではありません。その一部となることを期待されているのです。それが復活した主と共に生きるということです。そして、聖霊はそのような者に注がれます。このあとのワーシップタイムの中でイエス様との出会いと聖霊に満たされることを求め、そして体験しましょう。
メッセージのポイント
ペトロをはじめ弟子たちは皆、イエス様の受難に際して、自分たちには殉教の覚悟があると確信していましたが、結果はここでイエス様が預言された通りになりました。人間的な信頼の限界です。しかし復活されたイエス様に出会い、聖霊に満たされた弟子たちは、今度はイエス様を知らないということなく本当に殉教の死を遂げても、イエス様は主なる神様です、と知らせ続けました。十字架以前はイエス様に人間的な信頼を寄せていただけだった弟子たちは、復活されたイエス様に会い、聖霊に満たされて信頼は揺るぎない信仰へと変えられました。
話し合いのために
1) イエス様につまづくとはどういうことですか?
2) 信仰と信頼の決定的な違いは?
イエス様につまずく (マルコによる福音書14:27-31)
A. イエス様の受難に耐えられなかった弟子たち
1) 人間的信頼の限界(27)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
弟子たちは、イエス様がどんな目にあっても、自分たちはイエス様を見捨てることはないだろうと思い込んでいました。ペトロなどは、みんながつまずいても、自分だけはつまずかないと、一緒に死ぬことになってもついて行くと言っているのです。彼の気持ちに嘘はなかったのです。本当にそうなるなら一緒に死ねるつもりでした。けれどもゼカリヤ書13章で預言されているとおりに、捕らえられた羊飼いについてゆける羊はいないのです。今日は皆さんに「つまずく」という言葉に注目して頂きます。つまずくとは歩いていて何かに引っかかり体勢を崩すことです。つまずかせるためには石とか段差が必要です。それを「つまずき」と呼びます。ギリシャ語の「スカンダロン」の訳で「スキャンダル」の語源です。日本語だと、つい自分の不注意で体勢を崩したという印象ですが、弟子たちは偶発的に逃げ出すのではないのです。「弟子たちは皆、私と共にいることはもはやスキャンダルだと思うようになる。身の危険があるだけではなく、不名誉なこと、恥ずかしいことだと思うようになる。」とイエス様は予告します。弟子たちが強く否定するのも、もっともなことです。しかし、この夜、イエス様のおっしゃったとおりいになるのです。弟子たちは、大きな力に無抵抗のイエス様を見て、これはついて行けない、こんな人について行くのはスキャンダラスなことだと思い直すのです。今までの彼らの「死に至るまでついて行くぞ」という姿勢は、一瞬にして崩れるのです。ですから、彼らは先週聞いた「ユダ」と本質的に変わらないのです。そして、それは私たち全てが持っている弱さでもあるのです。ですから、私たちが互いに信仰が強いとか弱いとか比べ合うのは、悲しいくらい滑稽なことです。
2) 「絶望では終わらない」という預言(28)
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
弟子たちがこの言葉をちゃんと聞き取っていたようには思えません。イエス様の死ということさえも現実味を持って自覚していたわけではありません。ましてや、復活後のことなど、理解できるはずがありません。イエス様は青から後で思い出させるために、こう言われました。ガリラヤは彼らのスタート地点です。数時間後、エルサレムは彼らにとって、トラウマの場所となるのです。「もう一度ガリラヤで会おう!」それはイエス様からの、希望に満ちた呼びかけです。何度でも、イエス様を悲しませてしまう私たちです。しかしイエス様は、「もういい、やめよう、私につまずくなら、そのままどこかに行ってしまいなさい」とは言わないのです。「もう一度はじめから私と一緒にやってみよう」と言われるのです。あなたが諦めてしまっていることでも、イエス様はまだ諦めていません。もしあなたが迷っていたり、絶望したりしているなら、あなたのガリラヤ、信仰の出発点に戻って歩きはじめましょう。
B. 信頼から信仰へ (29-31)
29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
1) 信頼と信仰の違い
この部分で皆さんに注目していただきたいのは「信頼」と「信仰」の違いについてです。ギリシャ語ではありません。漢字です。二つの違いはそれぞれの後ろの漢字の違いの通り「頼りにする事」と「仰ぐ事」との違いです。 信じて頼りにすることと、信じて仰ぐこととどう違うのでしょうか?信頼という言葉は人にも物にも使います。自分の期待に応えてくれると信じて頼るのです。だから、期待に応えてくれなければ、ためらわず捨ててしまいます。あくまで自分が主で、悪くいえば利用しているのです。これに対して信仰は、信じる相手が主なのです。信仰の仰は、天に向かって顔をあげることです。つまり、信じてあなたにお任せします、委ねます、ということなのです。このことからも信仰の本質は自分の行いではないことがわかります。小さな子供のように、自分を見ず、周りを気にかけず、イエス様にためらいなく近づくことこそ、信仰です
2) 聖霊に満たされることを願う
それではどうしたら信仰によって生きる事ができるのでしょう。あの弟子たちでさえ持ち得なかったのです。しかし、彼らは変わりました。それは復活したイエス様にお会いしたこと、聖霊に満たされたことが、彼らを変えたのです。そのチャンスは私たちにも与えられています。教会は目に見えるキリストの体です。私たちは、教会に通うことを期待されているのではありません。その一部となることを期待されているのです。それが復活した主と共に生きるということです。そして、聖霊はそのような者に注がれます。このあとのワーシップタイムの中でイエス様との出会いと聖霊に満たされることを求め、そして体験しましょう。
メッセージのポイント
ペトロをはじめ弟子たちは皆、イエス様の受難に際して、自分たちには殉教の覚悟があると確信していましたが、結果はここでイエス様が預言された通りになりました。人間的な信頼の限界です。しかし復活されたイエス様に出会い、聖霊に満たされた弟子たちは、今度はイエス様を知らないということなく本当に殉教の死を遂げても、イエス様は主なる神様です、と知らせ続けました。十字架以前はイエス様に人間的な信頼を寄せていただけだった弟子たちは、復活されたイエス様に会い、聖霊に満たされて信頼は揺るぎない信仰へと変えられました。
話し合いのために
1) イエス様につまづくとはどういうことですか?
2) 信仰と信頼の決定的な違いは?