<メッセージノート>
2012年9月16日
そしてみんな逃げてしまった (マルコによる福音書14:43-52, 詩編22:7-17,イザヤ書53:3-12)
A. 強盗に向かうようにイエス様を捕らえた人々
43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
1) 自身の悪を明らかにされた怒り
2) 群衆は簡単にどちらへも流れる
B. イエス様を見捨てて逃げ出した弟子たち
1) 熱い心も失望と恐怖で萎える
44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
2) すでに始まっていた再会への準備
51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった
メッセージのポイント
ついにイエス様が予告していた通りのことが起こると、弟子たちは全く無力でした。イエス様はやはり自分たちが勝手に想像していた革命の英雄ではなかったのです。それは旧約聖書の預言どおりに起こりました。イエス様を殺すために捕らえに来たのはあらゆる種類の人々です。すべての人の心の悪、弱さがイエス様を十字架につけるのです。しかしそれは、そのような心を持った私たちに対する神様の愛の行動なのです。
話し合いのために
1) どのような人々がイエス様を捕らえたのですか?
2) 弟子たちはどのような思いでこの場から逃れたのでしょう?
そしてみんな逃げてしまった (マルコによる福音書14:43-52, 詩編22:7-17,イザヤ書53:3-12)
A. 強盗に向かうようにイエス様を捕らえた人々
43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
1) 自身の悪を明らかにされた怒り
2) 群衆は簡単にどちらへも流れる
B. イエス様を見捨てて逃げ出した弟子たち
1) 熱い心も失望と恐怖で萎える
44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
2) すでに始まっていた再会への準備
51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった
メッセージのポイント
ついにイエス様が予告していた通りのことが起こると、弟子たちは全く無力でした。イエス様はやはり自分たちが勝手に想像していた革命の英雄ではなかったのです。それは旧約聖書の預言どおりに起こりました。イエス様を殺すために捕らえに来たのはあらゆる種類の人々です。すべての人の心の悪、弱さがイエス様を十字架につけるのです。しかしそれは、そのような心を持った私たちに対する神様の愛の行動なのです。
話し合いのために
1) どのような人々がイエス様を捕らえたのですか?
2) 弟子たちはどのような思いでこの場から逃れたのでしょう?
<MP3 音声>
<ビデオ>(画面をクリックすると再生が始まります)
<メッセージ全文>
2012年9月16日
そしてみんな逃げてしまった (マルコによる福音書14:43-52, 詩編22:7-17,イザヤ書53:3-12)
A. 強盗に向かうようにイエス様を捕らえた人々
43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
1) 自身の悪を明らかにされた怒り
逮捕といっても何の根拠もありません。ただイエス様は自分たちにとって都合の悪い存在だったのです。イエス様を認めることは、自分たちの悪、不信仰を認めることになるのです。この社会の宗教的エリートたちは、真理を喜ぶのではなく、自分たちの地位や名誉、財産を惜しんだのです。本当は彼らの絶大な権力を捨てても惜しくはない永遠の宝を選択することも出来ました。しかし残念なことに、居合わせたすべての人が残念な選択をしました。これは私達にとっても選択だったのです。私たちも、多かれ少なかれイエス様を知った時、自分の醜さを示され似たような抵抗を覚えたのではないでしょうか?神様から離れているという状態は、私たちに様々な悪い影響を及ぼしますが、それでもすでに手の中に収めている(あるいは、そう思い込んでいるもの)を惜しんで、それが虚しいと言われると腹が立つのです。なぜ私たちは本当のことを言われて、腹が立ってしまうのでしょう。それは自分を否定されているように感じてしまうからです。出来れば誰からも好ましく思われていたいと思います。しかし、それは不可能なことです。私たちはそれぞれ違う感覚を持っています。しかも自分の感覚が普通だと感じているのです。誰もが、自分を客観的に見なければいけないと知ってはいます。しかしそれはとても難しいのです。親は自分をどう見ているか、友達は、家族は考えても、本当に客観的に正しく自分を見ることができません。むしろ、怒りや劣等感をいだいてしまうのです。イエス様を主と迎え入れることによって得られる素晴らしいことのひとつは、外側から自分を見る際の視点です。それはイエス様の眼差しです。イエス様の眼差しは、深く鋭く、悪を決して見逃されません。しかし同時に温かいのです。切り捨てられないのです。イエス様を信じるものとなった皆さんは、この視点を持っているはずです。それを活用して下さい。そうすれば自分を甘やかすことも、不当に厳しく当たることもなくなります。まだイエス様について行こうという決断をしかねている人は、どうか、イエス様を、自分の罪を暴き責め立てる方だと誤解しないで下さい。イエス様はあなたに対して誰よりも憐れみ深い方です。どうかよい選択をして下さい。永遠の宝を選択して下さい。
2) 群衆は簡単にどちらへも流れる
一時は多くの人々が、イエス様のゆくところ、ゆくところに付き従いましたが、イエス様が、自分たち好みの革命家や不思議な癒しを行うトリックスターではなかったことがわかると、すっかり熱が冷めてしまったのです。そしてここに登場する群衆は、宗教指導者たちに煽動されてイエス様を捉えようとしているのです。この国が戦争に負けると、それまで教えられてきた価値観が崩れ、キリスト教はひとつのブームとなりました。そのような「キリスト教」ブームはこの国の歴史の中で何度かありましたが、ブームはすべてブームで終わります。多くの人は、自分がイエス様と共に何が出来るかではなく、イエス様が、あるいはキリスト教が私に何をくれるかということを考えてイエス様に近づきます。近づくきっかけはそれでもいいのです。しかし、いつまでたってもそのままでは一時的な熱は必ず下がります。きっかけは何でも、それがやがて、イエス様と共にこの世界に私は何か起こしたい!得る喜びより与える喜びのほうがずっと大きいと思えるようにならなければ、やがてイエス様から離れてゆくことになってしまいます。私達はここで、群衆的信仰から弟子的信仰へ成長することを求めてゆきたいと思います。
B. イエス様を見捨てて逃げ出した弟子たち
1) 熱い心も失望と恐怖で萎える
44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
さきほど、弟子的信仰といいました。繰り返しますが、群衆的態度よりははるかに素晴らしいのです。しかし、それは決して完璧なものではありません。イエス様への熱い心を持っていても弱い部分は、情けなくなるほどいくらでもあるのです。ユダも弟子です。剣を抜いたのはペトロです(ヨハネ18:10)そして、他の弟子たちもこの場から残らず逃げ出しました。ユダはどのような気持ちを持ちながらイエス様に近づいたのでしょうか?ペトロはどんな気持ちで剣を抜いたのでしょうか?そして弟子たちはどんな気持ちでこの場から逃げていったのでしょうか?彼らの気持ちを想像してみるのは良いことです。私たちは、そこにいれば同じ事をしていたに違いない自分を攻める必要はありません。ただ、闇の暗さが暗ければ暗いほど、光の恵み、暖かさ、素晴らしさがよく分かるからなのです。イエス様は私たちを新しい次元に導き出してくださいます。弱さは持ったままでもついて行くことができるのです。イエス様は、ここで逃げてしまった弟子たちに復活、昇天後、教会の働きを委ねられたのです。
2) すでに始まっていた再会への準備
51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった
今日のテキストの最後の部分は不思議な出来事です。様々な解釈がなされてきました。しかし決定するには材料が少なすぎます。しかし手がかりがあります。この出来事を記録しているのはマルコだけです。そしてマルコだけが、イエス様の空の墓にいてイエス様がよみがえられたことをマリアたちに伝えた人の様子を、他の福音書のように天使とは言わず若者と表現し、その様子も似通っています。長く白い衣は間違いなく、それが天使であることを言おうとしていますが、ここでの素肌に亜麻布というのも、かなり不思議な姿です。亜麻布だけを残してどこから来たのかもどこへいったのかもわからない若者が、あの墓にいた天使の姿であったと取るのが一番無理のない推論だと思うのですが断言はできません。しかしそうであれば、イエス様の死が神様の力と計画を示す特別なものであり、それが復活につながることを示しているといえるのです。人が弱かろうと、悪かろうと、大きな災害や紛争がおころうと絶望してはいけません。神様の計画は誰にも邪魔されません。
メッセージのポイント
ついにイエス様が予告していた通りのことが起こると、弟子たちは全く無力でした。イエス様はやはり自分たちが勝手に想像していた革命の英雄ではなかったのです。それは旧約聖書の預言どおりに起こりました。イエス様を殺すために捕らえに来たのはあらゆる種類の人々です。すべての人の心の悪、弱さがイエス様を十字架につけるのです。しかしそれは、そのような心を持った私たちに対する神様の愛の行動なのです。
話し合いのために
1) どのような人々がイエス様を捕らえたのですか?
2) 弟子たちはどのような思いでこの場から逃れたのでしょう?
そしてみんな逃げてしまった (マルコによる福音書14:43-52, 詩編22:7-17,イザヤ書53:3-12)
A. 強盗に向かうようにイエス様を捕らえた人々
43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
1) 自身の悪を明らかにされた怒り
逮捕といっても何の根拠もありません。ただイエス様は自分たちにとって都合の悪い存在だったのです。イエス様を認めることは、自分たちの悪、不信仰を認めることになるのです。この社会の宗教的エリートたちは、真理を喜ぶのではなく、自分たちの地位や名誉、財産を惜しんだのです。本当は彼らの絶大な権力を捨てても惜しくはない永遠の宝を選択することも出来ました。しかし残念なことに、居合わせたすべての人が残念な選択をしました。これは私達にとっても選択だったのです。私たちも、多かれ少なかれイエス様を知った時、自分の醜さを示され似たような抵抗を覚えたのではないでしょうか?神様から離れているという状態は、私たちに様々な悪い影響を及ぼしますが、それでもすでに手の中に収めている(あるいは、そう思い込んでいるもの)を惜しんで、それが虚しいと言われると腹が立つのです。なぜ私たちは本当のことを言われて、腹が立ってしまうのでしょう。それは自分を否定されているように感じてしまうからです。出来れば誰からも好ましく思われていたいと思います。しかし、それは不可能なことです。私たちはそれぞれ違う感覚を持っています。しかも自分の感覚が普通だと感じているのです。誰もが、自分を客観的に見なければいけないと知ってはいます。しかしそれはとても難しいのです。親は自分をどう見ているか、友達は、家族は考えても、本当に客観的に正しく自分を見ることができません。むしろ、怒りや劣等感をいだいてしまうのです。イエス様を主と迎え入れることによって得られる素晴らしいことのひとつは、外側から自分を見る際の視点です。それはイエス様の眼差しです。イエス様の眼差しは、深く鋭く、悪を決して見逃されません。しかし同時に温かいのです。切り捨てられないのです。イエス様を信じるものとなった皆さんは、この視点を持っているはずです。それを活用して下さい。そうすれば自分を甘やかすことも、不当に厳しく当たることもなくなります。まだイエス様について行こうという決断をしかねている人は、どうか、イエス様を、自分の罪を暴き責め立てる方だと誤解しないで下さい。イエス様はあなたに対して誰よりも憐れみ深い方です。どうかよい選択をして下さい。永遠の宝を選択して下さい。
2) 群衆は簡単にどちらへも流れる
一時は多くの人々が、イエス様のゆくところ、ゆくところに付き従いましたが、イエス様が、自分たち好みの革命家や不思議な癒しを行うトリックスターではなかったことがわかると、すっかり熱が冷めてしまったのです。そしてここに登場する群衆は、宗教指導者たちに煽動されてイエス様を捉えようとしているのです。この国が戦争に負けると、それまで教えられてきた価値観が崩れ、キリスト教はひとつのブームとなりました。そのような「キリスト教」ブームはこの国の歴史の中で何度かありましたが、ブームはすべてブームで終わります。多くの人は、自分がイエス様と共に何が出来るかではなく、イエス様が、あるいはキリスト教が私に何をくれるかということを考えてイエス様に近づきます。近づくきっかけはそれでもいいのです。しかし、いつまでたってもそのままでは一時的な熱は必ず下がります。きっかけは何でも、それがやがて、イエス様と共にこの世界に私は何か起こしたい!得る喜びより与える喜びのほうがずっと大きいと思えるようにならなければ、やがてイエス様から離れてゆくことになってしまいます。私達はここで、群衆的信仰から弟子的信仰へ成長することを求めてゆきたいと思います。
B. イエス様を見捨てて逃げ出した弟子たち
1) 熱い心も失望と恐怖で萎える
44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
さきほど、弟子的信仰といいました。繰り返しますが、群衆的態度よりははるかに素晴らしいのです。しかし、それは決して完璧なものではありません。イエス様への熱い心を持っていても弱い部分は、情けなくなるほどいくらでもあるのです。ユダも弟子です。剣を抜いたのはペトロです(ヨハネ18:10)そして、他の弟子たちもこの場から残らず逃げ出しました。ユダはどのような気持ちを持ちながらイエス様に近づいたのでしょうか?ペトロはどんな気持ちで剣を抜いたのでしょうか?そして弟子たちはどんな気持ちでこの場から逃げていったのでしょうか?彼らの気持ちを想像してみるのは良いことです。私たちは、そこにいれば同じ事をしていたに違いない自分を攻める必要はありません。ただ、闇の暗さが暗ければ暗いほど、光の恵み、暖かさ、素晴らしさがよく分かるからなのです。イエス様は私たちを新しい次元に導き出してくださいます。弱さは持ったままでもついて行くことができるのです。イエス様は、ここで逃げてしまった弟子たちに復活、昇天後、教会の働きを委ねられたのです。
2) すでに始まっていた再会への準備
51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった
今日のテキストの最後の部分は不思議な出来事です。様々な解釈がなされてきました。しかし決定するには材料が少なすぎます。しかし手がかりがあります。この出来事を記録しているのはマルコだけです。そしてマルコだけが、イエス様の空の墓にいてイエス様がよみがえられたことをマリアたちに伝えた人の様子を、他の福音書のように天使とは言わず若者と表現し、その様子も似通っています。長く白い衣は間違いなく、それが天使であることを言おうとしていますが、ここでの素肌に亜麻布というのも、かなり不思議な姿です。亜麻布だけを残してどこから来たのかもどこへいったのかもわからない若者が、あの墓にいた天使の姿であったと取るのが一番無理のない推論だと思うのですが断言はできません。しかしそうであれば、イエス様の死が神様の力と計画を示す特別なものであり、それが復活につながることを示しているといえるのです。人が弱かろうと、悪かろうと、大きな災害や紛争がおころうと絶望してはいけません。神様の計画は誰にも邪魔されません。
メッセージのポイント
ついにイエス様が予告していた通りのことが起こると、弟子たちは全く無力でした。イエス様はやはり自分たちが勝手に想像していた革命の英雄ではなかったのです。それは旧約聖書の預言どおりに起こりました。イエス様を殺すために捕らえに来たのはあらゆる種類の人々です。すべての人の心の悪、弱さがイエス様を十字架につけるのです。しかしそれは、そのような心を持った私たちに対する神様の愛の行動なのです。
話し合いのために
1) どのような人々がイエス様を捕らえたのですか?
2) 弟子たちはどのような思いでこの場から逃れたのでしょう?