<メッセージノート>

2012年9月30日
信仰と理性のコントラスト
(マルコによる福音書15:1-15)

A. イエス様の揺るがない信仰
1) 見当はずれな質問への答え (1-3)
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。(1-3)
 
2) ピラトを不思議に思わせた沈黙 (4,5)
ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。(4-5)
 
B. 私たちの理性の限界
1) イエス様に罪を見出せないピラト (6-10)
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。(6-10)
 
2) 群衆に逆らえないピラト (11-15)
祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。(11-15)
 
メッセージのポイント
物事を客観的に見られる立場にあっても、その人の理性には限界があります。ピラトは、イエス様の死刑に正当性がないことを知っていましたが、結局、「群衆にとって満足がいくこと」を選択しました。イエス様は、自分の役割を知っていたので、死を免れようとすることは一切なさいませんでした。理性の人ピラトには全く理解できませんでした。イエス様が理性ではなく、天の神様への信仰に立ってこのように振舞われているからです。信仰は理性を否定することではありません。そうすることは信仰ではなく「盲信」です。理性もまた神様が私たちに下さった大切なものです。しかし私たちは、理性には限界があることを、理性では乗り越えられない困難があることを知らなければなりません。そこで最終的に頼ることができるのは信仰です。そのことをイエス様は、ここで見せてくださっているのです

話し合いのために

1) ピラトはなぜイエス様を解放するように試みたのでしょう?
2) 人々はなぜバラバの釈放を求めたのですか? 
 

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<メッセージ全文>

2012年9月30日
信仰と理性のコントラスト
(マルコによる福音書15:1-15)

A. イエス様の揺るがない信仰
1) 見当はずれな質問への答え (1-3)
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。(1-3)
ユダヤ人の意見はまとまりました。「イエス様は死刑に値する」 そこで、死刑を決める事のできるローマ総督ピラトに引渡します。ピラトは、自分でイエス様を死刑にすべき理由を見出そうと「ユダヤ人の王」と表現しますが、「それはあなたが言っていることです。」と自分自身の考えを直接表現なさいませんでした。ここで、ユダヤ人とローマ総督の発想がはっきりと違っていることが分かります。ピラトにとっては神の子とか救い主といったことには関心がありません。しかし権力を持った王となれば話は別です。いうことを聞く王を立ててあるのに、革命家が王となれば、ローマに反抗するかもしれないからです。ユダヤ人にとっては、王と主張することもかなりの問題ですが、神の子メシアとなれば決定的な問題でした。イエス様は、祭司長に「あなたは神の子メシアか」と問われた時には、はっきりと「私がそうです」答えたことを先週読みました。しかしピラトの「ユダヤ人の王か?」という問いには「はい」とも、「いいえ」とも答えません。(この部分は新共同訳、TNIVのほうがギリシャ語本文に忠実で口語訳、新改訳、NIVは適切ではないと思います) それは、自分に対する表現としては合っていない、あなたはどう思うのかという問いかけです。ユダヤ人は慌てたのでしょう。ピラトはメシアかどうかといった宗教的な事柄で無実の人を殺す決定をするつもりはなく、ただローマに対して危険人物かどうかがピラトの基準だということを知っていたからです。だから、ピラトが賛成してくれそうなことを次から次へと言い立てたわけです。しかし彼らの言葉にピラトはますますイエス様の無罪を確信していったのです。 イエス様は祭司長に対する言葉とピラトに対する言葉によって、自分の十字架の意味を曖昧にせず、神の子メシアであるという告白が十字架の死の原因であることをはっきりとさせました。彼らがイエス様を主と認めない、神様と認めないことが、イエス様を十字架の死にむかわせたのです。私たちも神様を神様と認めない、自分自身を神のようにして振舞ったり、偶像を拝むように神様以外の者に頼っていました。彼らと同じです。そのことがイエス様を十字架で死なせたということを私たちも覚えていましょう。来週の月に一度の聖餐式はその良い機会の一つです。

2) ピラトを不思議に思わせた沈黙 (4,5)
ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。(4-5)
 
人の罪を自分のものとして引き受け、死のうとしている人に、ピラトは会ったことがなかったのでしょう。イエス様は、法律に背いたからでも、神様を冒涜したからでもなく、本人たちの自覚とは関係なく神様から離れてしまった全ての人の罪を引き受けて死ぬことを決めておられました。誰もそのようなことはできません。考えつくことも出来なかったでしょう。ピラトは不思議に思うしかありませんでした。イエス様の沈黙は、私達がすべてのことに納得がいく説明を求めることを拒まれていることを教えてくれます。神様の不思議は、それが私達に心地よい奇蹟や恵みであれ、思いがけない試練であれ、合理的な説明がつくものではありません。親子は夫婦につぐ最も大切な人間関係です。しかし、夫婦とは違うのです。夫婦の間に秘密があってはいけません。神様によって一体とされているのです。できるだけ分かり合っていなければうまくいきません。しかし親子は違います。いつでも子供が納得できる説明を出来るわけではありません。それをしていたら子供を危険にさらすことになるようなこともあるのです。神様と私たちの関係は、キリストの花嫁という表現もありますが、親子のようなものなのです

B. 私たちの理性の限界
1) イエス様に罪を見出せないピラト (6-10)
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。(6-10)
 
理屈に合わない訴えをされているのに、イエス様は何も答えられません。ピラトも罪のない人を処刑したという汚名を着せられたくはありません。しかし彼には断罪しなくても良い方法が残されていました。慣習通り、一人の囚人を赦してほしいと人々が要求したからです。ピラトは、人々が当然、イエス様を赦すことを求めると考えたのです。妬んでイエス様を殺そうとしているのは民衆ではなく宗教家たちであることを知っていたからです。民衆は自分と同じようにイエス様には罪がないと理性的に考えているだろうと思いました。しかし、そこに集まった人々の殆どは理性を失っていました

2) 群衆に逆らえないピラト (11-15)
祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。(11-15)
 
指導者たちがどのように群集を扇動したのかわかりませんが、群衆はイエス様ではなくバラバを釈放しろとさけび始めます。買収したのか、脅かしたのか、それに乗った人々が大声で叫び始めれば、余程の信念がある人でなければその流れには逆らえないのです。ピラトにとっては、意外な成り行きです。しかし、この状況であれば、イエス様を処刑することにしたほうが得策です。自分の地位を危うくしてまで、正しく裁こうと考えるほどの信念を持った人ではなかったのです。普段正しい考えを持っているから、いつでも正しく振る舞えるわけではありません。ドイツや日本で20世紀に誕生した軍事的独裁的な政権も民衆の熱狂的な歓迎の中で生まれました。今の東アジアの雰囲気は、当時の状況を連想させるものがあります。「自国が最高で他の民族や国は劣っている。だから私たちが支配するべきだ。権利は当然私たちにある。」という声は魅力的です。しかし誰にも、この島は、この土地は絶対に私のものだと言う権利はありません。聖書に従うなら、すべてのものは神様のものです。私たちはそれを管理しているにすぎません。よく管理しなさいと命じられているのです。ところが権力を持った者は、人々の素朴な仲間意識を他国への憎しみへと巧みに導き、「何々人を十字架につけろ」と叫ばせるのです。このような人々が国を愛しなさいという時、それは他国と他国人を憎めということを意味しています。それはイエス様の教えられた愛ではありません。多くの宗教も彼らの争いの正当化に利用されてきました。キリスト教も例外ではありません。また社会主義も、資本主義も利用されてきました。イエス様はどの主義も政党も国家も宗教も支持なさいません。戦争や紛争によって、苦しめられるのは権力を持たない者、弱い者、貧しい者です。そして戦争や紛争はさらに深刻な貧困の問題を生み出しています。イエス様はこの事に憤り、悲しまれています。誰の戦争も支持なさいません。あなたがイエス様に従っているというなら、自分が好きでもいいのですが、誰かを嫌ったり憎んだりしないでください。自分の民族、国が好きだというのは結構ですが、他の民族、国を嫌ったり憎んだりしないでください。イエス様に従うということとナショナリズムとは決して両立しません。だからイエス様に従う者は平和をもたらすことが出来るのです。あなたがイエス様に従っているというなら、他国の人をひとまとめに悪く言い合うような声に同調しないで下さい。どの国にも、神様を喜ばせることをする人と神様を悲しませることをする人の両方がいるのです。あらゆる国のイエス様の弟子たちと共に神様の愛と平和がこの世界を支配する時、神の国の完成を目指して進んでゆきましょう。

メッセージのポイント
物事を客観的に見られる立場にあっても、その人の理性には限界があります。ピラトは、イエス様の死刑に正当性がないことを知っていましたが、結局、「群衆にとって満足がいくこと」を選択しました。イエス様は、自分の役割を知っていたので、死を免れようとすることは一切なさいませんでした。理性の人ピラトには全く理解できませんでした。イエス様が理性ではなく、天の神様への信仰に立ってこのように振舞われているからです。信仰は理性を否定することではありません。そうすることは信仰ではなく「盲信」です。理性もまた神様が私たちに下さった大切なものです。しかし私たちは、理性には限界があることを、理性では乗り越えられない困難があることを知らなければなりません。そこで最終的に頼ることができるのは信仰です。そのことをイエス様は、ここで見せてくださっているのです

話し合いのために

1) ピラトはなぜイエス様を解放するように試みたのでしょう?
2) 人々はなぜバラバの釈放を求めたのですか?