<メッセージノート>
2012/10/7 マルコによる福音書15:16-32
本当の王による本当の救い
16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。 21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。† 28 (底本に節が欠けている個所の異本による訳文)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。 29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
A 仕えるべき本当の王 (16-26)
1) 一民族の王ではなく
2) 政治的な王ではなく
B 与るべき本当の救い (27-32)
1) 困難からの救いではなく
2) 不安からの救いではなく
メッセージのポイント
人々は王を求め、その王に様々なことからの救いを求めます。しかし、多くの場合、本当の王に頼ることをせず、手っ取り早く、自分の必要を満たしてくれそうなものを王としてしまいます。しかも、目先の自分の願いに夢中になって、自分の本当の必要を知ることができません。イエス様は私たちの小さな願いにも耳を傾けて下さいますが、それだけの方ではありません。決して私たちを見捨てない、絶望させないという意味で唯一の本当の王であり、私たちに、人生の価値、意味、目的を知るという本当の救いを与えてくださる方なのです。
話し合いのために
1) なぜ、罪状書きが「ユダヤ人の王」とされたのでしょう?
2) あなたはイエス様によって何から救われたのですか?
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<メッセージ全文>
2012/10/7 マルコによる福音書15:16-32
本当の王による本当の救い
16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。 21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。† 28 (底本に節が欠けている個所の異本による訳文)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。 29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
A 仕えるべき本当の王 (16-26)
1) 一民族の王ではなく
兵士たちはローマ人です。そして彼らのイエス様に対する態度は、失敗した革命家に対するものでした。自分たちの権力に支配されているユダヤ人に対する見下した気持ちもありました。 紫は日本でもそうだったのですが、高貴な者がまとう色でした。purpura と呼ばれた巻貝から微量に取れる色で、布を染めるには大量の貝が必要だったので、大変高価だったそうです。英語のPurpleはここから来ているのです。日本では紫草という名の植物の根からやはり少しだけ取れる貴重なもので、紫色は位の高い貴族だけに使うことを許されていた時代もありました。王の冠に見立てて棘のある茨を編んでイエス様にかぶせました。それはイエス様を馬鹿にするだけでなく、苦痛を与えるものでもあったのです。自分たちの支配するちっぽけな国のい言うことだけは大きいケチな政治犯としか思っていないのです。しかしイエス様は王を名乗りませんでしたし、心にかけていたのはイスラエルだけではありませんでした。人として歩まれた以上、地理的な制約を受けていましたが、イエス様が目指していたのは、神様の支配で、それもすべての民族、人々に及ぶものでした。 私たちに王が必要だとすれば、それは民族の枠にとらわれず、特定の民族を優遇したり、優劣をつけるような王ではありません。それぞれの国には、優れた指導者がいるかも知れませんが、世界中が王として喜んで迎えることの出来る人は一人もいません
2) 政治的な王ではなく
イスラエルの民は指導者サムエルに王を立ててほしいと懇願しました。それまでのイスラエルには王はいなかったのです。周りの国々の脅威にさらされながらも、その時々に立てられたサムエルのような預言者の指導によって、神様を見上げて歩んだので、守られてきたのです。しかし周りの国々が強力なのは、王がいるから、軍事力が強いからだ。自分たちにも国を強くする王が欲しいと考えたのです。サムエルは王はあなた方を苦しめる存在でもある、と警告しましたが、人々は聞き入れず、ついに王政を導入したのです。列王記をみれば、良い王はほとんどいなかったことがわかります。最後に国は分裂し、占領され滅びてしまったのです。今はこの国でも、周りの国々に対してもっと強硬な態度をとる指導者を求めるような傾向が強いのですが、以前にこの国を戦争に導いたのもそのような指導者だったのです。マイホーム主義という言葉がありました。自分と家族の利益だけで行動して、会社のために犠牲を払わない人を非難した言葉です。それをもっと狭くすれば自己中心主義です。 広くすれば自国中心主義、教会でいえばマイチャーチ主義。私たちの自然な性質は、注意していなければ必ずそういう方向に向かうのです。国を豊かにしてくれる指導者がほしいと願うのは自然ですが、そのために、犠牲となる人々が他国にいる事を忘れてはいけないのです。国会議員の理想は国全体のビジョンを持っていることだと言われますが、実体は選挙区や出身母体の利益代表の集まりでしかありません。選挙の時に、私は日本全体の幸せのために働くので、選挙区の皆さんには色々我慢してもらいますという人は当選できません。国際社会でも同じ事です。国の代表になりたいと思うなら、私たちよりももっと貧しい人のいる国のために、私達は少し犠牲を払いましょうとはいえません。他の国との競争に勝って皆さんの収入を増やし税金を減らします、といわなければならないのです。 私達が仕えるべきはどのような王なのか?わかってきたのではないでしょうか?いまグローバル化は私たちの目にもわかるように生活に変化をもたらしていますが、神様は元々グローバルな方なのです。自国の利益しか考えられない人間の王に仕えていても何も変わりません。しかし、世界中を統一するような権力者が本当に現れれば、更に酷いことのなってしまうでしょう。勿論実生活の上で秩序と平和を守るためには一定の権威を持った組織は必要です。そのためには様々なレベルの指導者も必要です。そこに属する者としての義務も果たすべきでしょう。しかし私たちの究極の王は、誰にとってもイエス・キリスト以外にはいないことを忘れてはなりません。選挙で選んだ指導者は尊重すべきですが、その人が神様の愛の意思に背くようなことを進めるなら、どんなに利益をもたらすと約束しても選挙で選んではいけないのです。 全ての人の王、イエス・キリストは、全ての人に救いを与えるために世界に来られました。クリスチャンは救いという言葉をよく使いますが、一般的には解りにくい抽象的な言葉です。何から救われなければならないのか?そこには様々な誤解があります
B 与るべき本当の救い (27-32)
1) 困難からの救いではなく
イエス様が地上を歩まれた最後の3年間、イエス様は多くの人の病を癒しました。悪霊を追い出しました。だから苦しみから解放する者と考えられてきたのです。そのようにしか考えられなかった人々は、自分の苦難からは逃げられないイエス様を「救う者」とは考えられませんでした。イエス様は十字架から降りられなかったのではありません。避けようと思えば、避けることができたのです。イエス様は、私たちを様々な困難から救い出してくださいます。実際に難を逃れるようにして下さるときもありますが、忍耐できるようにして下さる、乗り越えることが出来るようにしてくださるという方法も取られます。しかし一つ一つの困難の根底には、そこからこそ救われなければ困難は避けられないということがあるのです。
2) 不安からの救いではなく
困難は現在の問題ですが、不安は将来の問題です。その根本はに何かを「失う」ということがあるのです。私たちは財産を、地位を、愛する人々を、健康を、突き詰めれば命を失うこと=死を恐れ不安なのです。失う可能性がなくならない限り不安は消えません。 地上に存在するものは必ず滅びます。 そのことを一時的に忘れさせてくれる方法ならいくらでもあるのです。イエス様はそのようなたぐいのものではありません。 イエス様が教えて下さったのは、私たちを苦しめる困難や不安はそれ自体から救われるというものではなく、困難、不安の原因とそこからの救いです。それを聖書は「罪」と表現します。社会で言う罪とは違います。社会で使う罪は聖書のいう根本的な「罪」の結果、生じたものです。そしてその根本的な罪とは、人が神様に背を向けてきたということなのです。 十字架は神様の側から示された和解のしるしです。神様の側から和解を申し込む必要などなかったのです。しかし人間には神様に示せるような和解の条件を持ってはいません。私達が救いの条件として求められていることは唯一つ、だれにでも差し出せることです。それは、イエス様があなたのために十字架にかかり、罪を赦し、ついてくることを命じているということです。神様にだって自分を与えたくないという人は多いのです。奴隷は嫌だ自分は自由だと、しかしそれは錯覚です。自由な人がなんで困難に苦しみ、不安に苦しむのですか?本当は自由ではないのです。困難や不安に支配される奴隷です。罪の奴隷です。自由とは自分の奴隷となることといってもいいかもしれません。しかしあなたはあなたの心と体にとってそれほど優れた主人といえるのでしょうか?自分の好き放題に人生を生きたように見える人もいますが、その内面の苦しみと不安はどれほどかわかりません。神様に従って人生を歩んだ人々は思い通りには生きられなかったかもしれないし、たくさんの物を持ったり贅沢をしたり出来なかったとしても、神様を信頼することによって、困難を乗り越え、不安より希望が勝る人生を歩み通せます。最も単純化して言いますが、聖書は私たちをテストしているのです。そこには、たったひとつの問題しかありません。二者択一の問題です。制限時間はありません。一生考え続けてもいいのです。1)神に仕える 2)富に仕える 聖書はどちらにも◯をつけることは出来ないと書いています。ここで富とは財産だけを指す言葉ではありません。自分の利益を第一と考えて生きるということです。富に仕える生き方が、実は本当の富にはつながらないことを人々はうすうすは感付いているのです。しかし、神様に仕えるということがやはりなにか窮屈な不自由な感じがして尻込みします。しかしそれこそがサタンの囁きです。サタンはエヴァに蛇を通して、取るべきではないものを取るように誘惑して成功しました。今度はあなたに、取るべきものをとらないように囁いているのです。あなたが、迷った末にでも、1)を選んで新しい人生を歩みだしてくれることを願い祈ります
メッセージのポイント
人々は王を求め、その王に様々なことからの救いを求めます。しかし、多くの場合、本当の王に頼ることをせず、手っ取り早く、自分の必要を満たしてくれそうなものを王としてしまいます。しかも、目先の自分の願いに夢中になって、自分の本当の必要を知ることができません。イエス様は私たちの小さな願いにも耳を傾けて下さいますが、それだけの方ではありません。決して私たちを見捨てない、絶望させないという意味で唯一の本当の王であり、私たちに、人生の価値、意味、目的を知るという本当の救いを与えてくださる方なのです。
話し合いのために
1) なぜ、罪状書きが「ユダヤ人の王」とされたのでしょう?
2) あなたはイエス様によって何から救われたのですか?