<メッセージノート>


2012/10/21 マルコによる福音書 15:33-47
神に見捨てられた神

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。


39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。


42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。

47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

A 神の死

1) 歴史の夜明け前の最も暗い時 (33-38)
2) この時に立ち会うということ (39-41)

B イエス様の墓を見つめる
1) 百人隊長、ヨセフ、女性たち
(42-46)
2) 墓を見つめる二人のマリア (47)

メッセージのポイント
闇の暗さを知ってこそ光の本当の明るさを知ることができます。歴史の大きな転換が起ころうとしている時でした。それは、月が消え、星が去り夜明け前のもっとも暗い闇のような時です。人々はいろいろな立場でこの出来事に立ち会っています。それぞれに役割が与えられていました。イエス様を十字架にかけた人々さえ、救いの時が始まる前後の証言者として、無意識の内に神様に用いられています。私たちは想像することによってしか、この時に立ち会うことはできませんが、ここに登場する様々な人々の想いをたどることによって、イエス様がなさったことの意味をより深く味合うことができます。私たちには意気揚々と、栄光の姿のイエス様を見上げて喜ばしく歩むことも大切ですが、時に立ち止まって、彼らの目、心でイエス様を見つめることが必要です。苦しむイエス様、悲しむイエス様、恐れるイエス様、その姿を見て彼らはイエス様を「本当に、この人は神の子だった」と確信したのです。

話し合いのために
1) ピラトはなぜ不思議に思ったのですか?
2) 二人のマリアはどのような思いでイエス様の墓を見ていたのでしょうか?

<MP3 音声>

<ビデオ>(画面をクリックすると再生が始まります)

<メッセージ全文>


2012/10/21 マルコによる福音書 15:33-47
神に見捨てられた神


A 神の死

1) 歴史の夜明け前の最も暗い時 (33-38)

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。



神様はイエスという一人の人としてこの世界に現れ、避けることのできた死を引き受けました。 聖書はそれを、すべての人の罪を赦すための身代わりの死と説明しています。その罪がどれほど深いものであるのかを想像できるのではないでしょうか?自分自身を正直に見つめる時、パウロがローマの信徒への手紙で告白しているように「するべき良いことを知っているのに、それができずに望まない悪いことをしてしまう」(7:18-20)私たちのすべてが持っている罪の性質の全てを、イエス様は自分の命と引換に赦そうとしているのです。神様が御自身の存在を消そうとしているのではありません。そうではなく、人として生きた地上での生涯を、最も深い罪に対する処刑の方法:十字架にかけられて死ぬことによって閉じる決意をされたということです。「神様、神様、なぜ私を見捨てたのですか?」という言葉は、神という在り方に固執せず人となったイエス様が、私たちの高さにまで、いや更に十字架刑で死ぬという人間としては最低のところまで降りられたことを証明しています。御自身と人々との間を隔てる「罪」の深刻さがこの言葉に現れています。イエス様の私達に対する同情は、私たちが表すことにできる同情より深く徹底的なものです。それだけにここでイエス様が、鈍感になって感じることのできない私たちに代わって味わっている絶望感がこの言葉となっているのです。私たちは神様に見捨てられても当然の思いを抱き歩んできたのです。絶望的です。しかし自分に絶望することは良いことなのです。絶望しなければ救いを求めようとは思わないからです。絶望はその言葉とは裏腹に本当の希望につながる唯一の通路です。この時、人の罪の闇の深さが、その罪をすべて引き受けて死のうとしているイエス様のうえにのしかかっていたのです。それは、昼間にもかかわらず全地が暗くなったことにも現れています。こうしてイエス様だけが、イザヤ書53章に預言されている苦難と死を引き受ける救い主であることがわかります。


2) この時に立ち会うということ (39-41)

39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。



百人隊長は駐留しているローマ軍に属する人です。イエス様を犯罪者として処刑した側の人間です。その彼が、十字架にかけられて息を引き取るまでのイエス様を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。立場をわきまえない不穏当な発言です。しかしそのような立場の彼が、そう口に出して言わざるをえないほどの特別な「死」であったということです。そして彼以外は、女性のことしかかいてありません。男たちはみんな逃げてしまったからです。百人隊長と同様にイエス様が特別な存在だったと感じていたのでしょう。しかし、それだけに絶望感は女性たちの上にも重くのしかかっていました。先のことを考えるような余裕は誰にもなかったのです。イエス様の死が自分のためであったということを確信するのも、もっとずっと後のことです。私たちは、そのことを知っています。しかしそれだけに、この時を軽く見てしまう恐れもあるのです。しかしここに登場した人々は、この時を体験したからこそ、イエス様の復活の事実が、ありえないことが目の前で起こった驚きと喜びとなりました。その喜びの記憶が、後に長く続く迫害の時を人々に耐えさせ、今私たちはイエス様を知ることができています


B イエス様の墓を見つめる


1) 百人隊長、ヨセフ、女性たち
(42-46)

42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。


十字架刑は、身体が衰えて死に至るまでかなりの時間を要するだけに、最も残酷な処刑の方法でした。しかしイエス様があまりにも早くあっさりと息を引き取られたので ピラトは 不思議に思ったのです。本当に死んだことを百人隊長に確かめさせた上で、亡骸を引き取ることを申し出ていたヨセフに引き取らせたのです。ヨセフはユダヤ議会の議員で裕福な人でしたが、弟子の一人でもありました。ヨハネによる福音書によれば、弟子であったことはユダヤ人を恐れて隠していたようですが、この時には勇気を出して引き受けたのです。そしてイエス様の亡骸を墓に納めました。「できるだけ丁重にイエス様を葬ろう。」それだけが彼らの願いでした。神の国が来ることは延期されてしまった、とヨセフは思っていたのでしょうが、神様は彼の想像とは違った形で、神の国を到来させる計画は動いていました。希望が絶たれたと誰もが思う中で、三日後に弟子たちは気づくことになるのです。


2) 墓を見つめる二人のマリア
(47)

47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

イエス様の死を最後まで見つめていたのは二人のマリアでした。もう動く気力もなかったのかもしれません。途方に暮れていたのかもしれません。しかし最後まで離れがたくそこに残ったこの二人が、最初に復活の出来事に立ち会うことになります。絶望的な状態であっても、まだ私たちにはすべきことがある。その思いが彼女たちを日曜日の朝に墓に向かわせるのです。
先に絶望することは悪いことではないと言いましたが、決して絶望したまま諦めてはいけません。最悪と思える状態(それが自分の心状態であれ、取り巻く状況であれ)の中でもするべきこと、できることはあるはずです。彼女たちは絶望に目を向けたままでは終りませんでした。私たちにもいろいろとがっかりしていること、絶望していることがあるのです。しかし、救い主を失ったと思い込んで絶望していた彼女らに比べれば、わたしたちのそれはより軽いものです。神の国はすでに来ているのです。まだ完成はしていないけれど、自分では絶望的と思っているその私たちの心に中に、イエス様は、イエス様の王国を持ち込んでおられます。イエス様の十字架を見つめれば見つめるほど、絶望の中に持ち込まれ始まった神の国:神様の支配下におかれた喜びは大きく確かなものになります。



メッセージのポイント
闇の暗さを知ってこそ光の本当の明るさを知ることができます。歴史の大きな転換が起ころうとしている時でした。それは、月が消え、星が去り夜明け前のもっとも暗い闇のような時です。人々はいろいろな立場でこの出来事に立ち会っています。それぞれに役割が与えられていました。イエス様を十字架にかけた人々さえ、救いの時が始まる前後の証言者として、無意識の内に神様に用いられています。私たちは想像することによってしか、この時に立ち会うことはできませんが、ここに登場する様々な人々の想いをたどることによって、イエス様がなさったことの意味をより深く味合うことができます。私たちには意気揚々と、栄光の姿のイエス様を見上げて喜ばしく歩むことも大切ですが、時に立ち止まって、彼らの目、心でイエス様を見つめることが必要です。苦しむイエス様、悲しむイエス様、恐れるイエス様、その姿を見て彼らはイエス様を「本当に、この人は神の子だった」と確信したのです。

話し合いのために
1) ピラトはなぜ不思議に思ったのですか?
2) 二人のマリアはどのような思いでイエス様の墓を見ていたのでしょうか?