<メッセージノート>

2012/10/28 サムエル記上 15:33-47
「主よ、お話ください。僕は聞いております。」池田真理

1 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。

2 ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。
3 まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
4 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、
5 エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
6 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。
7 サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。
8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、
9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。


10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
11 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。
12 その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。
13 わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。
14 わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」
15 サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。
16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」
17 エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」
18 サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」
19 サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。
20 ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。
21 主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。

4:1 サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。

1.主の呼びかけに気付いていないかもしれない (3:1-9)
2.「主よ、お話ください。僕は聞いております。」 (3:8-10)
3.人ではなく主に仕える (3:11-4:1)

メッセージのポイント
私たちは、神様に聞いてほしい、応えてほしい思いや願いをたくさん持っています。でも、それだけにとらわれていると、神様の呼びかけに気付くことができません。私たちが誰か別の人の声だと思っているものが、実は神様が語りかけてくださっていることかもしれません。そして、神様は、私たちの聞く準備が整うまでは語られないかもしれません。私たちの聞く準備とは、自分の思いや願いをとりあえず脇において、「主よ、私はあなたの僕、あなたのものです。どうぞ話してください。」と告白することです。そこで何が語られようと、語られまいと、神様を本当に自分の信頼に足る主人として信じているならば、失望することはありません。

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<メッセージ全文>

2012/10/28 サムエル記上 15:33-47
「主よ、お話ください。僕は聞いております。」池田真理

今日はマルコのシリーズを離れて、旧約聖書のサムエル記を読んでみたいと思います。サムエルは、神様から言われてサウル王やダビデ王を選び出した預言者です。でも、今日読む箇所は、サムエルが預言者として知られる前、サムエルの少年時代に、神様がサムエルに初めて直接語りかけられた場面です。


1.主の呼びかけに気付いていないかもしれない (3:1-9)

1 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。

2 ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。
3 まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
4 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、
5 エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
6 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。
7 サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。
8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、
9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。

サムエルは、生まれてすぐ、(1章には「乳離れした後」とあります)母親のハンナによって、祭司エリに預けられました。ハンナはずっと子どもができずに苦しんでおり、「もし子供を与えて下さったら、その子の一生を主にささげます」と神様に誓っていたからです。ハンナはその通りに念願の赤ちゃんを手離して、祭司エリに預けました。預けてからは、祭司のもとで年毎のいけにえをささげるために家族で訪ねる時にだけ、サムエルに会っていたようです。だから、サムエルは祭司エリに育てられ、エリとエリの家族と共に神殿で暮らしていました。今日の場面は、ある夜に、神殿で寝ているサムエルに主、神様が語りかけられた場面です。寝ていたサムエルは、自分の名前を呼ぶ声に気が付きました。そして、それは目が不自由になった自分の育ての親であるエリが呼ぶ声だと思って、急いでエリの部屋に行きました。でも、エリには「私は呼んでいないから、戻って寝なさい」と言われてしまいます。おそらくサムエルは自分の聞き間違いか寝ぼけていたのか、不思議に思いながら、また自分の寝床に戻りましたが、再び呼びかける声を聞いて、またエリのところに行きました。今度こそは間違いないと思っていたかもかもしれません。でもやはりエリには呼んでいないと言われてしまいます。そして3回目に呼びかけられて、エリのところに行った時、エリの方がサムエルは主に呼びかけられているのだと気が付きました。サムエルは、3度もはっきりと自分を呼ぶ声を聞きながらも、それが神様の声だとは全く思いませんでした。
私たちは、おそらくこのサムエルのように、実際に自分の耳に神様の声を聞くということはあまりないと思います。多くの場合は私たちの心に、語りかけられる神様の声を聞いていると思います。ただ、耳に聞こえても聞こえなくても、神様が確かに私たちに語りかけてくださるということは、私たちが経験から知っていることです。ただ、残念ながら、サムエルと同じように、呼びかけをはっきり聞き取りながら、それが主の声だと気が付かないということがあると思います。サムエルのように、はっきりと聞こえていたとしても、それは主ではなく、誰か別の人の声だと思っていることもあるかもしれません。神様は誰かを通して私たちに語りかけようとしているのに、私たちはそれに気が付いていないかもしれません。神様は私たちに呼びかけ続けてくださっているのに、私たちはそれに気が付いていないということがあります。でも、神様はサムエルに根気強く呼びかけ続けてくださっているように、私たちに対しても気が付くまで何度でも呼び続けてくださると思います。ただ、私たちが神様の呼びかけに早く気が付いて答えるために、祭司エリがサムエルに教えたことは、私たちが知っていてよいことだと思います。それは、「主よ、お話ください、僕は聞いております」と告白して、耳を澄ますことです。8節の途中から11節の途中まで読みます。




2.「主よ、お話ください。僕は聞いております。」 (3:8-10)

8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、
9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは
えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

「主よ、お話ください。僕は聞いております。」私は、この言葉を言ってみて初めて、自分が主を主と思わず、自分を主の僕だと思わず、いまだに自分が自分の主人だと思っていると気が付いたことがあります。4年前、私は途上国の援助をしているワールドビジョンというNGOで働いていて、1年間ベトナムに駐在することになったのですが、ベトナムに住み始めてすぐに「何かが違う」と思い始めました。ワールドビジョンの働きは必要なことだし、その仕事に自分を捧げている人々のことを尊敬するし神様は喜んでいると今でも思いますが、私は自分がずっとその働きを担うことに違和感を持ち始めていました。まだ2年もたっていないうちから、単に仕事に慣れてきて不満が出てきているのか、それとも逆に大変な仕事を担っていく覚悟が自分に足りていないと気付いただけなのか、日本が早くも恋しくなっただけなのか、自問自答を繰り返しました。でもどんどん混乱するばかりだったので、Andyさんと真理さんに相談したのですが、そこでこのサムエル記の言葉を教えてもらいました。それで、自分が実は神様を自分の主だと思っていないことに気が付きました。それから自分が牧師になるように言われているのかもしれない、いやそんなはずはない、という悩みの数ヶ月間を過ごして、結局仕事を辞めて神学校に行く決心をしました。このことがあってから、私は時々この「主よ、お話ください、僕は聞いております」という言葉を言って祈るようにしています。そこで方向修正されることも、結局なにも分からないこともあります。結局わからないことの方がほとんどかもしれません。真剣さが足りなくて寝てしまうこともあります。でも、「わたしはあなたの僕、あなたのものです」と主に告白していくことが、私たちが何かを決断する時にまず最初にできることだと思います。神様は、サムエルが気付かなくてもサムエルの名を呼び続けました。そして、サムエルが「主よ、お話ください。僕は聞いております」と応えるまでは、何も語られませんでした。「僕は聞いております」というのは、「私はあなたの僕、あなたのものです。あなたのおっしゃることに従います。」と告白しているのと同じだと思います。だから、この言葉を告白するのは、私たちの覚悟を告白することでもあると思います。主は時に、私たちが戸惑うようなことを命じられるからです。

3.人ではなく主に仕える (3:11-4:1)

11 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。
12 その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。
13 わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。
14 わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」
15 サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。
16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」
17 エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」
18 サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」
19 サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。
20 ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。
21 主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。

4:1 サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。


主の呼びかけに応じたサムエルに主が告げた内容は、サムエルにとって非常に困惑する内容でした。彼は自分の育ての親であるエリの間違いを指摘しなければなりませんでした。指摘するだけではなく、神様の裁きが下されるということまで言わなければいけませんでした。エリは息子たちのことで神様の怒りを買っていましたが、これまでサムエルを育て、教えてきた人です。サムエルに主の呼びかけに応じるように教えた人でもあります。サムエルは、自分を指導してきてくれた人に、その人に対する神様の怒りを伝える役目を負わされたということです。サムエルのような立場に私たちが立たされることは、なるべく起きてほしくないことですが、絶対にないとは言い切れません。主に従っているなら、自分の尊敬している人でも、その人が主を悲しませているならそのことを言わなければならない時が来るかもしれません。逆に、私たち自身が目下の人にそう言われるときがあるかもしれません。

「私はあなたの僕です」という告白は、「私は自分では何もできない、でもあなたの命令には従います」という謙った告白も含まれているように思います。私たちは、今置かれている状況の中でも、これから先に待っている様々な具体的な出来事の中でも、主の声を聞き分けるということは時に非常に難しいことかもしれません。聞き分けることができないまま、迷いながら一歩を踏み出さなければいけないことの方が多いかもしれません。でも、今日の箇所は、主が語ってくださるために、私たちの側でまず「僕は聞いています。どうぞお話ください。」と言う準備が必要だと教えてくれていると思います。神様は私たちが聞く準備のないまま一方的に語られる方ではないということだと思います。私たちは自分が誰を見上げて歩んでいるのか、誰を喜ばせようとしているのか、それがイエス様以外のものにすりかわっていないか、いつも気をつけている必要があると思います。少年サムエルはやがて預言者サムエルとして、サウルやダビデを選んでイスラエル王国を建てることになりましたが、サウルもダビデも不完全な人間であることには変わりなく、サムエルは自分の果たした役割の実りを見られたとは言えません。サムエルは神様の言葉に従いましたが、目に見える人や国は必ずしも神様を喜ばせていたわけではありませんでした。目に見える状況に気をとられてしまえば、私たちも簡単に失望したり混乱したりしてしまうと思います。だからこそ、ただ主の前で「私はあなたの僕です。どうぞ話してください。」と告白していくことが、すべての根本だと思います。


メッセージのポイント
私たちは、神様に聞いてほしい、応えてほしい思いや願いをたくさん持っています。でも、それだけにとらわれていると、神様の呼びかけに気付くことができません。私たちが誰か別の人の声だと思っているものが、実は神様が語りかけてくださっていることかもしれません。そして、神様は、私たちの聞く準備が整うまでは語られないかもしれません。私たちの聞く準備とは、自分の思いや願いをとりあえず脇において、「主よ、私はあなたの僕、あなたのものです。どうぞ話してください。」と告白することです。そこで何が語られようと、語られまいと、神様を本当に自分の信頼に足る主人として信じているならば、失望することはありません。