<メッセージノート>

2012/11/4 メッセージノート  マルコによる福音書16
全世界に行って福音を宣べ伝えなさい

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(1-8)

〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。(9-14)

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕(15-20)

A 復活されたイエス様との再会
1) 空の墓 (1-8)
2) 不信仰 (9-14)

B イエス様が私たちに命じられていること (15-20)
1) 信じて従う者を起こすために福音を伝える
2) 現在の教会の姿


メッセージのポイント
誰も全く信じていませんでしたが、イエス様は復活されました。弟子たちは空の墓を見ても、天使に言われても、先にイエス様に再会した人の証言もなかなか信じることはできませんでした。私たちは、そのようなことを信じることができたのです。恵みという他ありません。しかしそれはまた、私たちがそのような信じ難いことを伝えようとしているということでもあります。努力もします、工夫もします。しかしそれだけでは全く足りないのです。必要なのは上から与えられる「しるし」です。イエス様は確かに働いておられるというしるしが豊かに現れている教会となれるよう祈り求めてゆきましょう。

話し合いのために
1) イエス様は私達にどのようなことを命じておられますか?
2) 私達が表すべきしるしとはどのようなものでしょう?

<MP3 音声>

<ビデオ>(画面をクリックすると再生が始まります)

<メッセージ全文>

2012/11/4 メッセージ  マルコによる福音書16
全世界に行って福音を宣べ伝えなさい

A 復活されたイエス様との再会

1) 空の墓 (1-8)

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(1-8) 


日曜日の朝の出来事です。金曜日の午後、息を引き取られたイエス様は横穴式の墓に葬られ、その入口には大きな石でふさがれていました。良い香りのする油を塗ろうとしたのは葬りを完成させるためです。彼女たちは最後のお別れに向かったのです。しかしそれはかないませんでした。なぜならイエス様の遺体はもうそこにはなかったからです。世界で一度も起こったことがなかったことが起こったのです。墓をふさぐ石は女性三人の力では動かせないものでした。しかし不思議な事に、誰も居ないのにそれは転がしてありました。中に入るとイエス様の体はなく若者の姿をした天使が座っていたので、大変驚きました。さらに天使がいうには、イエス様は本当に復活してガリラヤで会うことが出来る、とのことです。驚きは恐れに変わりました。イエス様が言っていたことを思い出して、喜んで墓穴から出てきたわけではないのです。正気を失うほどに恐れて、弟子たちやペトロに告げなさいという命令もすぐには実行できませんでした。
彼女たちは、人間の常識を超えた、神様の支配する現実にふれてしまったのです。彼女たちの様子は、自分の想像を超える事態におかれた反応です。もちろん、もう少し後に、彼女たちの心が少し落ち着いた後で、弟子たちは彼女たちから知らされました。
実はマルコと呼ばれる原著者は、この部分までで筆を擱いています。このあとの部分は別の人によって加筆されているのです。それで以降の部分は括弧書きになっています。誰かが勝手に書き足したというのではなく、この福音書の背景となった教会が付け加えるべきという判断のもとになされたことです。ですから、括弧書きの部分は神様の言葉ではないと考える必要はありません、ただマルコと呼ばれる人によるものではないというだけのことです。福音書は元々言い伝えられていたことをまとめたもので、突然奇跡的に与えられたものではありません。それぞれの福音書には、それぞれの視点があります。聖書が誤りのない神様の言葉という意味は、一字一句がそうであると考える必要はありません。そう考えるなら福音書間で矛盾があることになってしまいます。ですから全体として、その言わんとしていることには誤りがないと考えれば良いのです。
それにしてもなぜマルコは、このように一見中途半端なところで筆を擱いたのでしょう。私はマルコが確信を持ってここで終えたのだと考えています。 「震え上がり、正気を失って、だれにも何も言えないほど恐ろしい」ことがおこった、マルコはこの事こそ福音の中心として、人々の心に刻み付けたかったのです。イエス様を愛した彼女たちがこの出来事に震え上がるとしたら、神様を無視し,馬鹿にし、とり合わなかった人にとっては更に恐ろしい時であったはずです。いないか、自分には関係のないと思っていた神様が、人にはできないことを起こされたのです。誰もがここで立ちすくみ、神様の存在に恐れおののくべきなのです。そこで心からの回心、悔い改めが起こるからです。そのことを通して、彼らはやがて、イエス様を尊敬する先生ではなく、活きて働かれる神様と見ることが出来るようになるのです。


2) 不信仰 (9-14)

〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。(9-14)

付け加えられた部分の前半に目を移すと、弟子たちはすぐに信じることが出来なかったことが書かれています。結局、自分たちの目で確認するまで信じることができず、復活されたイエス様にとがめられてしまいます。イエス様はあえて、これから教会の働きを中心的に担ってゆく11人にはすぐに姿を表さず、間接的に復活の事実を伝えました。これはイエス様を伝えるという、私たちに委ねられている働きの本質に関わることです。イエス様の復活について、人々が証言することを信じることがいかに難しいことであるかを、弟子たちは知る必要がありましたありました。しかしイエス様は、あらゆる人を通してご自身を表そうとなさいます。弟子たちは女性や子供、自分たちよりも弱い者、身分の低い者からイエス様の声を聞く準備をする必要がありました。結局のところ、不信仰は、イエス様の考えを自分の考えの中に押し込めて制限してしまうこと。かたくなさとは、柔軟に神様の声を聞こうとしない態度です。イエス様に従うのに必要なのは、人々の声から、イエス様の語りかけをキャッチすることです。人々から聞くことによってその人々のニーズを知ることが出来るだけでなく、神様があなたにしてほしいと願われることも聞くことが出来るのです。若い友人の牧師がユニークな働きを始めました。聞祈屋というのですが、見たところは街の占い師のようです。夜、街角で、聞祈屋という看板を横においてキャンドルの灯りのもとで、人が言いたいことを、聞いてあげる、求められれば答える、希望されれば最後に祈るのだそうです。彼には自覚がないかもしれませんが、実はそうするとき、彼は人だけではなくイエス様にも耳を傾けているのです。しかし、不信仰や、かたくななままでは、その人の気持ちでも、神様からの語りかけでも、大切なことを聞き逃すことになります。イエス様を伝えるということは「語る」ことだと思っている人が多いのですが、実は「聞くこと」のほうが重要です。


B イエス様が私たちに命じられていること (15-20)

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕(15-20)

1) 信じて従う者を起こすために福音を伝える

結局、私たちは何をするように命じられているのでしょう?ここをうっかり誤解して読むなら、教会で毒蛇を手でつかむとか、変な液体を飲んで平気なところを見せて神様の力を証明するような、かなり危険なショーをしなければならないことになります。実際アメリカ中西部には礼拝の中で毒へビを登場させるような教会もあったようです。聖書の一部分を表面的に見て、聖書の教える普遍的な真理と考えてしまうなら、教会は道を誤ります。この部分を正しく理解するためには、聖書全体を考慮しなければなりません。聖書全体を考慮した上で、この部分を解釈するなら、こういうことです。「すべての人にイエス様を紹介し続けなさい。イエス様を知っているのとそうでないのとでは、その人の人生に大きな違いが出るからです。イエス様を信じることによってもらえる賞品が「救い」「天国への切符」なのではありません。イエス様と共に歩めるようになったこと自体が「救い」です。見ていない人が信じることは困難なことです。あなたの知恵で説得することはできません。しかし私が共にいて力を与えるので、救われるものは起こされます。だからあなたは、 すべての人にイエス様を紹介し続けなさい」ということなのです。どのようにイエス様を紹介しますか?A-2)でお話ししたことを思い出して下さい。私達が人々に知ってほしいことは簡単なことです。イエス様を、自分のために十字架にかかって罪を赦して下さった神と信じて従うという生き方です。そうすれば、神様に愛されている存在として、愛する者、愛される者、愛し合う者になれるからです。


2) 現在の教会の姿


来週から始まる使徒言行録のシリーズは、聖霊に助けられながら、このイエス様の命令に応えて、教会を作ってゆく人々の姿が記されています。それは教会のありかたの原点です。教会はその時代、文化によって違いがあっていいのです。しかし文化の層は時が経つに従って肥大し、本来のあり方は相対的に痩せてしまい。改革の時が時々必要となるのです。10月31日は日本でもハロウィンとして定着してしまいそうですが、イエス様に従っている私たちはむしろ宗教改革記念日として覚えるべき日です。教会が忘れてしまった本質を取り戻すために福音書で確認できるイエス様の歩みと言葉、それに答えて始まった初代教会に記録:使徒言行録を読み返す必要があります。ユアチャーチの歴史は10年そこそこですが、それでも組織は構造疲労を起こします。その組織を担う部分である一人一人の信仰のあり方にも同じことがいえます。ここ数カ月、わたしたちはマルコによる福音書を通して、イエス様を見つめ、イエス様から聞こうと努めてきました。使徒言行録は、そのケーススタディーともいえる内容ですので、注意深く読んで、引き続き、イエス様に従う者として日々新しくされてゆきましょう


メッセージのポイント
誰も全く信じていませんでしたが、イエス様は復活されました。弟子たちは空の墓を見ても、天使に言われても、先にイエス様に再会した人の証言もなかなか信じることはできませんでした。私たちは、そのようなことを信じることができたのです。恵みという他ありません。しかしそれはまた、私たちがそのような信じ難いことを伝えようとしているということでもあります。努力もします、工夫もします。しかしそれだけでは全く足りないのです。必要なのは上から与えられる「しるし」です。イエス様は確かに働いておられるというしるしが豊かに現れている教会となれるよう祈り求めてゆきましょう。

話し合いのために
1) イエス様は私達にどのようなことを命じておられますか?
2) 私達が表すべきしるしとはどのようなものでしょう?