<メッセージノート>

2012年11月18日 メッセージノート
ユダからマティアへ  使徒言行録1:12-26

使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 (12-22)

そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。 (23-26)

A ユダをどう見るか? (12-22)
1) ユダはどこへ行ったのか?
2) 教会で起こる出来事に対処するヒント

B マティア、使徒となる (23-26)
1) 選挙ではなくくじで決められたマティア
2) 任務を引き継ぐために選ばれた


メッセージのポイント

イエス様の死に弟子の一人が深く関わっていた。私たちのユダに対する嫌悪感は裏切り者に対するそれでしょうが、他の弟子たちもまた彼ほど積極的ではないにせよイエス様を見捨てました。もしあの舞台に自分がいたとしても、彼らと同じであったに違いありません。同じ神の家族として共に同じ教会で歩んでいたとしても、信仰を忘れてしまう人、考えが変わりここを離れる人もいます。どこかの教会を離れて、ここにいる人もいます。今までいた誰かがいなくなることは寂しいことです。人が自分のそばに居て、自分に賛成してくれるとうれしいのですが、その反対のことが起これば悲しいし、恨んでしまうことさえあるのです。けれども、イエス様が天に帰り、ユダに死なれた11人はとても前向きです。働きのことを第一に考えています。イエス様に委ねられた働きを始めるためにベストを尽くそうとしているのです。けれども彼らはその過程においても神様に対して謙虚です。主の復活の証人がもう一人必要だと決めたとき、二人の候補を立てるまでは自分たちで責任を負い、後は神様に祈り委ねてくじ引きで決めました。

話し合いのために
1) なぜ彼らはまだ教会が始まる前のこの時期にユダの代わりが必要だと考えたのでしょうか?
2) この箇所からあなたが学んだ一番重要なことは何ですか?


<MP3 音声>

<ビデオ>

<メッセージ全文>

2012年11月18日 メッセージ
ユダからマティアへ  使徒言行録1:12-26

A ユダをどう見るか? (12-22)

使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 (12-22)


1) ユダはどこへ行ったのか?

ユダと聞くと、多くの人が「裏切り」と「自死」という彼の行動と、ここの記されている悲惨な最後からの連想によって、地獄に落ちて永遠の苦しみの中で今ももがいているのだと思っています。しかしことはそう簡単ではありません。現代の聖書が「裏切り」と訳している言葉の意味は「引き渡す」というほどの言葉です。また、私たちの使う「裏切る」とは、それまではその人と共にいたのに、その人の意思に反して敵対する者となって、その人を苦しめることですが、イエス様はユダによって引き渡されようが、されまいが十字架にかかろうとしていたのです。裏切られた人は、裏切りの行為によって初めて裏切られたと悟りますが、イエス様はユダが自分を引き渡すことを知っていました。過越の食事の後、イエス様はユダに、「私を裏切らないで下さい」とではなく、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」 (ヨハネ13:27) と言われました。これでは「裏切り」とは言えないのです。また、「自死」についても、教会は長く偏見を持ち続けてきました。それは「罪」全般についての誤解でもあります。神様が問われる罪とは人の作った規則や常識に対する逸脱や違反ではなく、神様との「関係不全」のことです。この誤解がイスラエルを律法主義に導きました。イエス様は私たちを律法主義から解放して下さったはずです。しかし律法主義は簡単に私たちの中に舞い戻ってきてしまうのです。この私たちの中に舞い戻ってきた律法主義が、自死や中絶を選ばなければならなかった人、異教徒、離婚した人、性的少数者に対して、イエス様に非難された律法主義者がサマリア人や律法を守れない民衆にしたように、ひどく冷たい態度をとらせるのです。ユダの罪は「裏切り」と「自死」ではなく、イエス様に従いきらなかたことです。自分を捨てて従ってはいなかったことです。自分の正義のためにイエス様を利用としたことです。高価な香油を注ぐという仕方でイエス様に自分の全てを捧げた女性を、もったいないことをしたと非難した彼の心が、彼自身を悲惨な死に追いやってしまいました。後悔したけれども、彼の良心は彼自身を赦せずに死を選んだのです。マルコによる福音書のシリーズでも触れましたが、他の弟子たちも、十字架を目前にイエス様から逃げ出したのですから、イエス様を引き渡したのと同じです。私達はどうでしょう?ただイエス様に従うことがあなたの人生の目的なのでしょうか?むしろ、やはり自分が主役、イエス様はあなたの自分探し、自己実現の名脇役として考えてしまっていることがあるのではないでしょうか?私たちはユダと同じ罪びとです。ただ憐れみによって、その罪を気付かされついて行くことを許されました。それでも時々イエス様から目をそらせ、躓いたり、迷子になったりしてしまいます。けれどもイエス様は、決してもうついてくるなとは言わないのです。
ユダは、地上での気の毒な最後を遂げましたが、その後神様からどのような扱いを受けたかはどこにも書いてありません。わからないことは断定してはいけないのです。


2) 教会で起こる出来事に対処するヒント

ペトロたちは、ユダの代わりとなる人が必要であると考えました。ユダのことでグダグダ言っている暇はなかったのです。ユダの果たしていた役割は重要だったのです。彼らにとって「主の証人」の働きを、良い状態でスタートさせることが最優先課題だったのです。私達にとっては、「主の証人」の働きを良い状態で続けることが最優先課題です。「主の証人」それぞれが、置かれたところで良い働きが出来るように整えられるところが教会です。また教会全体が「主の証人」ともいえます。しかし、そこにも様々な問題が起こります。今まで共に働いてきたけれど、これ以上共には進めない、ということが起こるのです。そのとき私たちは正しく対処しなければなりません。それは、最初の教会の人々のように、最優先課題を忘れずにブレないということです。共に働けなくなった人のことで、悲しんだり、憤ったりしているわけにはいかないのです。それは一見ドライなように感じられるかもしれません。それがどのような経緯であれ、喜んで祝福して送り出して、後は主に委ねる、そしてその働きを代わって担う人を主に求める、それが神様に祝福される態度です。


B マティア、使徒となる (23-26)

そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。 (23-26)


1) 選挙ではなくくじで決められたマティア

先日、エジプトでコプト正教会の新しい教皇が候補者三人のうちからくじで選ばれたということがニュースとなりました。大抵のことは多数決で決める私たちには少し不思議な感じですが、むしろコプト教会のほうが使徒の伝統を守っているともいえます。どちらも、人間の考えを排除しているわけではありません。候補者を立てるまではよく考えているのです。誰がなっても差し支えない数人を選び出した上でくじを引きます。ヨセフとマティアは使徒になりたくて立候補したのではありません。選ばれて何の役得があるわけでもありません。ここまで候補者を絞ってきた使徒たちの中にはいろいろな意見があったでしょう。残った使徒は11人ですから多数決で決めることもできたはずです。けれども神様に委ねることにしたのです。それは彼らが一致してスタートするためには良い方法でした。マティアも自分が人の尊敬によって選ばれ、人の上に立つというのではなく、神様に僕として選ばれたにすぎないということを忘れないで要られたのだと思います。先日アメリカの大統領が決まりました。投票率でも上回ったので、投票数では負けたけれど選挙人の数でなんとか勝利したという最悪のケースではなかったにしても、国民の半分近くが支持しなかったのは確かですから、オバマさんのこれからの4年間も苦労が多そうです。
どのようなことでも議論を尽くすことは大切ですが、決まったことに神様の意思があると認めることがもっと大切なことです。最後にくじを引かなければならないのではありません。ただ彼らは最終的にくじを引くことで、神様の意思を認め、それに従うという気持ちを確認したのです。十分な議論と手続きを踏んで決めたことを実践するにしても、神様の導きに従っているということを忘れれば、私たちはキリストの体であるはずなのになのに、いつの間にかイエス様を脇に追いやってしまいます。


2) 任務を引き継ぐために選ばれた

使徒としての任務とは何でしょう。マティアは、それを引き継ぐために選ばれたと書かれています。使徒が他の弟子と違いどのような働きをしたのか、細かいことは記録されていませんが、今日の箇所では「復活の証人となる」と書かれています。また、使徒言行録をもう少し先まで読んでゆくと6章に、人々の世話をするためのリーダーを更に7人選び、その理由として、使徒たちが「祈とみ言葉の奉仕に専念するため」とあります。ただ7章ではその7人に選ばれたステファノが説教をしていることが記されていますから必ずしも厳密な職務分担があったわけではないようです。大切なのは、私たちには、復活の証人としての人々に対する責任、祈とみ言葉という神様に対する責任、そして互いに世話をしあうという責任が与えられていて、それぞれが与えられている賜物に従って共に責任を果たすという事です。それはいつも別の表現でお話していることです。つまり神様を愛し、互いに愛しあい、世界を愛するという、私たちの歩みそのものです。私たちも誰かの、何らかの任務を引き継いでいるのです。私たちの第一の働きは、家庭、学校、職場など、そのおかれたところでそこにいる人々を愛することです。ですから、教会としての働きに加わっていなくても、人々に対する責任を果たしているのです。また目に見える特定の役割を担っていなくても、教会の誰かと時を過ごしたり、祈り合っているなら互いに対する責任を果たしています。折にふれて祈り、神様の言葉を聞いて行おうとしているなら、また心に決めたとおりに献げ物をしているなら神様に対する責任も果たしています。しかし、ユアチャーチが与えられている機能を果たすためには、幾つかの働きを担う人がいなければなりません。そのような働きに加わってみたいと思うなら、どうかリーダに話してみてください。また、このような働きに加わってみませんか?と牧師やリーダーから勧められたら是非試してみて下さい。


メッセージのポイント

イエス様の死に弟子の一人が深く関わっていた。私たちのユダに対する嫌悪感は裏切り者に対するそれでしょうが、他の弟子たちもまた彼ほど積極的ではないにせよイエス様を見捨てました。もしあの舞台に自分がいたとしても、彼らと同じであったに違いありません。同じ神の家族として共に同じ教会で歩んでいたとしても、信仰を忘れてしまう人、考えが変わりここを離れる人もいます。どこかの教会を離れて、ここにいる人もいます。今までいた誰かがいなくなることは寂しいことです。人が自分のそばに居て、自分に賛成してくれるとうれしいのですが、その反対のことが起これば悲しいし、恨んでしまうことさえあるのです。けれども、イエス様が天に帰り、ユダに死なれた11人はとても前向きです。働きのことを第一に考えています。イエス様に委ねられた働きを始めるためにベストを尽くそうとしているのです。けれども彼らはその過程においても神様に対して謙虚です。主の復活の証人がもう一人必要だと決めたとき、二人の候補を立てるまでは自分たちで責任を負い、後は神様に祈り委ねてくじ引きで決めました。

話し合いのために
1) なぜ彼らはまだ教会が始まる前のこの時期にユダの代わりが必要だと考えたのでしょうか?
2) この箇所からあなたが学んだ一番重要なことは何ですか?