<メッセージノート>
2012年11月25日 メッセージノート
その日、何が起こり何が変わったのか? 使徒言行録2:1-42
1) 聖霊が降った (1,2)
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
(1-2)
2) 異言が語られた (3-13)
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(3-13)
3) ペトロが人々に語りかけた (14-36)
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(14-36)
4) 人々は心を打たれてイエス様を信じ従う者となった (37-42)
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(37-42)
メッセージのポイント
イエス様の復活から50日目に、イエス様が言われた通り「聖霊が降る」という出来事が起こりました。このことがキリスト教会の出発点となりました。イエス様が天に戻られ、代わりに来られた聖霊は誰にでも見え、聞こえる形でこられて、信じるものに異言という不思議なしるしを与え、ペトロに大胆に語らせ、その結果人々の心に大きな変化が起こりました。3000人の人がイエス様こそ本当にメシアだと知ったのです。神様がこのようなことを起こされたのは何のためだったのでしょうか?聖霊を送ることも、異言を語らせることも、ペトロに大胆に語らせることも、それ自体が神様の目的ではありません。それらはすべて、信じて従う者を起こすためのプロセスです。プロセスを無視して結果を得ることはできませんが、プロセス自体にフォーカスするなら、福音は福音でなくなってしまいます。
話し合いのために
1)神様は何のためにこのような不思議な事を起こされたのでしょう?
2)神様の働きを担うために私達が求めるべきことは何でしょう?
<MP3 音声>
<ビデオ>
<メッセージ全文>
2012年11月25日
その日、何が起こり何が変わったのか? 使徒言行録2:1-42
1) 聖霊が降った (1,2)
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
(1-2)
イエス様が「そのことが起こるまで待っていなさい」と弟子たちに告げていたことがここで起こりました。それは誰かの心の中に起こった心理的、主観的な出来事ではなく、一同に共通の客観的な出来事:突然の激しい風のような音として起こりました。弟子たちに対するイエス様の約束は確かだったのです。残念ながらその時代には、ビデオカメラもなければ、録音機もありませんでしたから、後世の私たちはその証言を信じるか、信じないかしかありません。合理的な説明を求めても得ることはできません。けれども、私たちはこの出来事の前の、弱く恐れていた弟子たちが、この聖霊の体験を経て殉教の死さえ恐れなくなった変化によって、人間の内側に大きな変化をもたらす出来事があったということを認められるのです。聖霊に満たされるということについては、イエス様に従って歩んでいる人の中でも随分考えが違っています。信じれば自動的に聖霊に満たされているのだから、ことさらに聖霊に満たされることを求めてはいけないと考えている人々もいれば、聖霊に満たされるということが信仰の中心のように思っている人々もいます。しかし私たちは知っています。聖霊に満たされることが目的ではないけれど、聖霊に満たされていなければ、イエス様に従って歩むことはできません。聖霊に満たされることが人為的、作為的なことであっては意味がありませんが、私たちには、理屈でもなく、感覚でもなく“本当”に満たされることが必要です。一同に聞こえた風のような音の次に、今度は一同に見える形で聖霊は御自身を現されました。3節から13節を読みましょう。
2) 異言が語られた (3-13)
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(3-13)
炎のような舌がわかれて一人一人の上にとどまると更に不思議な事が起こり始めました。弟子たちの口から耳慣れない言葉が出てきて、それは様々な他国の言葉だったのです。エルサレムには多くの外国の言葉を知る人々が住んでいましたが、彼らは懐かしい故郷の言葉で、それを知るはずもない田舎から出てきたイエス様の弟子たちが神様をたたえているのを聞いてびっくりしました。この不思議な現象を異言といいます。聖霊が与えて下さる様々な賜物の一つです。しかし、何語かわからない人にとってはかなり異様な雰囲気であったことがわかります。それでペトロは説明しなければなりませんでした。
3) ペトロが人々に語りかけた (14-36)
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(14-36)
一見酔っ払っているように見える状態が、ヨエルの預言の成就として今起こっているのだというペトロの説明が、多くの人の心を納得させただけでなく、自分もイエス様に従いたいという思いを起こさせました。そして主を呼び求めるものはみな救われるという言葉を聞いて、3000人もの人が、この主に従うことを決心しました。とても異様な出来事は人々に、神様の霊が確かにそこに臨み新しいことが起こり始めたことを確信させたのです。それが心の備えとなって、人々はペトロの言葉を素直の受け入れることができたのです。もう一つの異言の意義は、イエス様の福音はヘブライ語、アラム語の地域に限定されないものであることを、(当時の)世界中の人に印象付けたことです。処刑された異端者の後継者のように見られていたペトロに人々が耳を傾けたのは不思議な事です。聖霊による備えが必要でした。私たちがイエス様を伝えようとする時、誰が心を開いて聞いてくれるだろうかと心配になりますが、そのような時は、いかにうまく伝えようかと考える前に、語ろうとする時、聖霊がその場を満たしてくださることを願えばよいのです。日曜日の礼拝の時も同じです。語る者が聖霊に満たされて語れるように、願い祈ることを習慣にしていただけたら心強いです。
4) 人々は心を打たれてイエス様を信じ従う者となった (37-42)
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(37-42)
ペトロの話を聞いて心打たれた人々は、自分たちが十字架にかけて殺してしまったイエス様が主、メシア(救い主)だと聞いて、どうしたら良いのかをペトロたちに尋ねます。今までの彼らの宗教的な常識はもう通用しないことがわかったのです。ペトロのアドヴァイスはシンプルです。
1)悔い改めなさい
2)めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
3)聖霊を受ける。
それらはバラバラなことではなく一連の事です。心の方向転換をして、イエス様に従ってゆく決心をして、バプテスマのよってその決心をして弟子の仲間に加わること、そして聖霊に満たされて歩き出すということです。もしあなたが、このプロセスを通っていないなら、ぜひこの方向転換をして下さい。そのことを教え勧めるために神様はイエス・キリストとして2000年前のクリスマスにこられたのです。
ある人々は、この事を信仰を持った時に起きた過去のこととしてしか認識していませんが、これらのことの本質的な意味を考えれば、信仰を持って歩んでいる人にも大切なアドヴァイスです。
それは私たちにとってはこのような問いなのです。「あなたの見上げる先には、イエス様の姿があるでしょうか?バプテスマの時に決意したように主の体の一部として歩んでいるでしょうか?聖霊に満たされることを切実に求めているでしょうか?」 それは神様の愛を伝えて生きる者にとって生涯、忘れてはいけない重要なチェックポイントです。
メッセージのポイント
イエス様の復活から50日目に、イエス様が言われた通り「聖霊が降る」という出来事が起こりました。このことがキリスト教会の出発点となりました。イエス様が天に戻られ、代わりに来られた聖霊は誰にでも見え、聞こえる形でこられて、信じるものに異言という不思議なしるしを与え、ペトロに大胆に語らせ、その結果人々の心に大きな変化が起こりました。3000人の人がイエス様こそ本当にメシアだと知ったのです。神様がこのようなことを起こされたのは何のためだったのでしょうか?聖霊を送ることも、異言を語らせることも、ペトロに大胆に語らせることも、それ自体が神様の目的ではありません。それらはすべて、信じて従う者を起こすためのプロセスです。プロセスを無視して結果を得ることはできませんが、プロセス自体にフォーカスするなら、福音は福音でなくなってしまいます。
話し合いのために
1)神様は何のためにこのような不思議な事を起こされたのでしょう?
2)神様の働きを担うために私達が求めるべきことは何でしょう?