<メッセージノート>

2012年12月2日 アドベント第一日曜日 メッセージノート
イザヤの見た幻  イザヤ書2:1-5

A. 終りの日の始まり
1) イエス様の教えはさらに注目される(1,2)

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい


2) イエス様の言葉が世界を導く(3)

多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。


B 平和の始まり
1) イエス様は平和の王(4)

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。


2) 主の光の中を歩もう(5)

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


メッセージのポイント

イエス様の死に弟子の一人が深く関わっていた。私たちのユダに対する嫌悪感は裏切り者に対するそれでしょうが、他の弟子たちもまた彼ほど積極的ではないにせよイエス様を見捨てました。もしあの舞台に自分がいたとしても、彼らと同じであったに違いありません。同じ神の家族として共に同じ教会で歩んでいたとしても、信仰を忘れてしまう人、考えが変わりここを離れる人もいます。どこかの教会を離れて、ここにいる人もいます。今までいた誰かがいなくなることは寂しいことです。人が自分のそばに居て、自分に賛成してくれるとうれしいのですが、その反対のことが起これば悲しいし、恨んでしまうことさえあるのです。けれども、イエス様が天に帰り、ユダに死なれた11人はとても前向きです。働きのことを第一に考えています。イエス様に委ねられた働きを始めるためにベストを尽くそうとしているのです。けれども彼らはその過程においても神様に対して謙虚です。主の復活の証人がもう一人必要だと決めたとき、二人の候補を立てるまでは自分たちで責任を負い、後は神様に祈り委ねてくじ引きで決めました。

話し合いのために
1) なぜ彼らはまだ教会が始まる前のこの時期にユダの代わりが必要だと考えたのでしょうか?
2) この箇所からあなたが学んだ一番重要なことは何ですか?


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<メッセージ全文>

2012年12月2日 アドベント第一日曜日
イザヤの見た幻  イザヤ書2:1-5

A. 終りの日の始まり
1) イエス様の教えはさらに注目される(1,2)

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい

イザヤはイエス様の誕生からさらに700年程前の預言者です。彼は、イスラエルのそれまで歩んできた道と彼の生きた時代を見てほとんど絶望していました。そこには愛も平和も喜びも全く見出せなかったからです。今日取り上げたテキストの前後は、当時の社会に対する厳しい裁きの預言に満ちています。しかし、この部分はその前後と異なり未来に向かう希望を預言しています。
 終りの日というと、「いつか来るある日」と想像しがちですが、「終りの」の原語の意味は「後の」、「日」も光のある明るい状態を指す言葉で、一日24時間よりもっと長い期間をも意味するのです。その希望の時が始まるのがクリスマスの出来事です。
多くの人にとってクリスマスは一年で一番、愛、平和、喜びを意識させられる時ですが、それは残念なことに、それらが満ち足りているという事としてではなく、それらが欠けていて、飢え渇いているという意味で意識させられることのほうが多いのです。しかし、それも悪いことではないかもしれません。多くの人が、自分のおかれた状況にかかわらず、出来るだけ多くの人が少しでも愛、平和、喜びを感じられるように自分のできることをしようという気持ちになるからです。このことこそがクリスマスの心です。それは「与える」心です。クリスマスプレゼントの習慣はサンタクロースのプレゼントに始まったと考えられていますが、サンタクロースにはお手本がありました。それは神様が私たちすべてに下さった世界で最初のクリスマスプレゼント、イエス・キリストです。それはただ、一人の人をヒーローとして送ったということではありません。神様ご自身が一人の人として来て下さったのです。私たちの心を神様につなげるために、十字架の苦しみと死という代償を払って下さいました。愛することは与えること。与えることの究極は自分自身を差し出すことです。それはイエス様のように生命を与えるということだけを意味するものではありません。むしろ、「私はあなたのために“生きる”」「あなたの必要に応える」という意思を意味しています。
主の神殿の山とはエルサレムのことです。そこに世界中の国が求める理念があり、すべての人々の心の拠り所になると預言しているのです。場所としてのエルサレム、建物としての神殿と考える必要はありません。建物としての神殿は崩れたり破壊されて遺跡として残るだけです。けれども神様と会うための接点という意味での神殿なら、それはイエス・キリストです。イエス様が来られて以来、イエス様の愛の教えは、様々な人によって、様々な形で、様々なところで実践されてきました。まだ全ての国がというところまでは実現していませんが、イエス様が来られて以来、新しい時代は始まっているのです。



2) イエス様の言葉が世界を導く(3)

多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。

神様は私たちに道を示してくれる。そのことを多くの民が知ることになる。だから「 主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう 」というのです。愛に生きる、平和に生きる、喜んで生きるために、言葉を聞き教えられなければならないからです。シオンはエルサレムの一部でソロモンが神殿を建てたところですが、ここでは、象徴的に、完成した理想的なエルサレム、永遠の祝福を与えるところとして用いられています。エルサレムも同様に現実の地理的なエルサレムというより理想化された霊的な意味で考えれば良いのです。でなければ、私たちはエルサレムに巡礼に行かなければ真理を得られないということになってしまいます。主の教え、主の言葉は、聖書を通していつでもどこでも聞くことが出来るのです。もちろん私達が自分勝手な誤った解釈に陥らないように、教会と呼ばれる互いに主の言葉を学び合う、キリストを頭とする身体に連なっていることが前提条件です。
この神様の言葉を聞いて行うことこそが、私たちすべてが望む、愛、平和、喜びの実現に向かう方法です。


B 平和の始まり
1) イエス様は平和の王(4)

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。

このことを実現するためにイエス様が来られたのに、今も武器、兵器で傷付き命を奪われるのは、兵士だけでなく、民衆で、こどもたちも含まれます。宗教の教えに背いたとして、教育の機会を求める少女の命が狙われるのです。ここで特定の宗教を攻撃する意図はありません。キリスト教も様々な権力に結びついて同様の悪を行なってきました。キリストの良い知らせを伝えるためにと、日本にも時々やってくる有名な団体の二代目は、イスラムは邪悪なのだから、大量破壊兵器、地獄的な兵器(核兵器)でさえ使っても構わないと発言しました。このような人々は、自分がイエス様の立派な弟子と信じて疑いませんが、イエス様はどう思われるでしょうか?

クリスチャンという呼び方は、キリストに夢中な人々といった悪口として始まりましたが、イエス様に従って歩む者にとってイエス様に夢中と呼ばれることは誇りであり、自らそう呼ぶことを始めたのです。けれども、「キリスト教」も「クリスチャン」も、実際にはイエス様に従っていない人々によって乱用され、本来の価値を失っています。しかし、あなたがイエス様に従って歩みたいと願っているなら、失望することはありません。私たちが求められているのは「キリスト教に従うこと」ではなく「私に従いなさい」といわれたイエス様に従うことなのだからです。まだ周りは平和とはいえない、愛、喜びがない。それでもあなたがイエス様に従ってゆくなら、平和の王イエス様によって、あなたの心の中に灯された平和の光が、あなたのゆくところ、ゆくところにもたらされます。


2) 主の光の中を歩もう(5)

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

どんなに世界に争いが満ち人の心が荒れすさんでも、クリスマスは忘れ去られることはありませんでした。戦争をしていても、さすがにその時期まで殺し合うことには耐えられず。停戦したという記録もあります。この時期、愛と平和と喜びをもたらす光が最初に暗闇の中に輝いたように、イエス様が来て下さったことを想いましょう。その光が更に強くなることを祈り、願い過ごしましょう。 クリスマスという出来事を知っていても、その人の心の中にクリスマスの出来事が始まったわけではありません。知っているだけでは時期が終わればまた、愛、平和、喜びを忘れた日常に戻るだけです。そこで預言は「主の光の中を歩もう」と勧めるのです。それはイエス・キリストに従って歩むということです。預言者は神様に従うことを忘れたイスラエル民族に「ヤコブの家よ」と呼びかけましたが、今私たちは、イエス様に従って歩むことによって、自分の心に灯されている光を高く掲げて「私の家族、私の友よ、主の光の中を歩もう!」と呼びかけているのです。


メッセージのポイント
イエス様の死に弟子の一人が深く関わっていた。私たちのユダに対する嫌悪感は裏切り者に対するそれでしょうが、他の弟子たちもまた彼ほど積極的ではないにせよイエス様を見捨てました。もしあの舞台に自分がいたとしても、彼らと同じであったに違いありません。同じ神の家族として共に同じ教会で歩んでいたとしても、信仰を忘れてしまう人、考えが変わりここを離れる人もいます。どこかの教会を離れて、ここにいる人もいます。今までいた誰かがいなくなることは寂しいことです。人が自分のそばに居て、自分に賛成してくれるとうれしいのですが、その反対のことが起これば悲しいし、恨んでしまうことさえあるのです。けれども、イエス様が天に帰り、ユダに死なれた11人はとても前向きです。働きのことを第一に考えています。イエス様に委ねられた働きを始めるためにベストを尽くそうとしているのです。けれども彼らはその過程においても神様に対して謙虚です。主の復活の証人がもう一人必要だと決めたとき、二人の候補を立てるまでは自分たちで責任を負い、後は神様に祈り委ねてくじ引きで決めました。

話し合いのために
1) なぜ彼らはまだ教会が始まる前のこの時期にユダの代わりが必要だと考えたのでしょうか?
2) この箇所からあなたが学んだ一番重要なことは何ですか?