<メッセージノート>
2012/12/23 クリスマス礼拝
すべての人を照らすまことの光 (ヨハネによる福音書1:1-9, 創世記1:1-5)
A. 心の闇を追い払う光
1) まことの光 - キリストの命 (1-4)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
2) 闇の本質 (5, 創世記1:1-5)
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
B. あなたにも必要なまことの光)
1) 光ではなく、光を証しする者 (6-8)
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
2) すべての人のまことの光 (9)
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
メッセージのポイント
創世記の1章が世界の始まりについて教えているように、ヨハネによる福音書の1章は、新しいあなたの始まりを告げています。神様は闇と光を創られたのではなく、光を何もない状態:闇の中に生じさせたのです。わたしたちを不安にさせ、悪い思いを抱かせる心の闇とは、本当の光の届かない虚無な状態です。私たちの体が光を求めるように心もまた光を求めますが、自己中心的になりがちな私たちの心は、まことの光には従い難く偽りの光に目を向けてしまいます。けれども、まことの光りに照らされない限り心の満足を得ることはできません。イエス・キリストはあなたを照らすまことの光です。
話し合いのために
1) なぜ闇は今も多くの人々の心を支配しているのでしょう?
2) 偽りの光とはどのようなものですか?
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<メッセージ全文>
2012/12/23 クリスマス礼拝
すべての人を照らすまことの光 (ヨハネによる福音書1:1-9, 創世記1:1-5)
A. 心の闇を追い払う光
1) まことの光 - キリストの命 (1-4)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
キリスト教会の重要な役割の一つはイエスキリストを紹介することです。イエスキリストとは何者なのか?私とどのような関わりがあるのか?彼を知ることにどのような意味があるのか?をお知らせするということです。聖書はキリスト教の経典ですから、そこにはイエスキリストが紹介されている本だと言ってもよいのです。ただ聖書は、イエスキリストを知った上で、どのように生きてゆくのかとといったことにまで立ち入っているので、膨大で難解で、世界で一番売れていると同時に「積ん読率」も一番の書物です。しかしその中には、俳句のように短いフレーズでイエスキリストの本質を的確に紹介している箇所があります。今日読んでいるヨハネによる福音書の1章もそのような箇所の一つです。ここで、ヨハネはイエスキリストを「言」と表現した上で、彼が最初から存在した、神と共にあった、神であった、世界の全ては彼によって創られた、彼の命が人間を照らす光なのだ、というのです。言とは伝えるための表現です。私たちには想像の及ばない神様が、御自身をイエスという一人の人として、私はこういうものだと語りかけていてくださるということです。22章からなる著作の最初の5行とは思えない大胆で濃縮された書き出しです。私たちの体は太陽の光がなければ健康を保つことができません。日照不足は鬱病の要因の一つです。聖書は、体よりももっと深刻な「魂の光不足」を警告しているのです。
私たちは皆、光のない状態の不安を、実際の生活でも、心の状態でも、経験して知っています。何とか心の闇を埋めようと様々な光を手に入れようと努めます。しかし手にいれてみたら本物ではなかったとか、どうしても手に入れられそうなものに憧れ続けているとか、本当の解決を得られてはいないのではないでしょうか?その原因の大きな部分は、追い払わなければならない「闇」が何かということを知らないからです。5節を読んでみましょう。
2) 闇の本質 (5, 創世記1:1-5)
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
イエスキリストは世界に来られて輝いているのに、世界は彼のことを手に入れるべき光だと気づいてはいない、ということです。闇は世界の現状です。苦しいこと、悲しいこと、悪いことがあって、そんなことなければいいのに、せめて見たり知ったりしなくてすめばいいのにと思うものです。そして闇は私たちの心の中にも深く入り込んでいるようです。理解し難い犯罪に手を染める人の心に私たちは闇を感じますが、多かれ少なかれ闇は誰の心の中にも存在します。もし人に知られたら困るほどの、ひどいこと、悪いことを思って、慌てて打ち消したりするのです。闇の正体は何か?本当のところは、闇という悪いものがあるのではありません。聖書の一番最初のページを紹介させて下さい。今読んでいる箇所と似た雰囲気のあるところです。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
ここに神様が最初に発せられた言葉が記されています。「光あれ」。それ以前のことについて地は混沌であったとしています。言葉は神様の意思です。光から始められて六日目の人間に至るまで説明されていますが、闇は創られたものではありません。創造以前の空っぽの状態なのです。闇はそれ自体があるのではなく、光のない状態なのです。それは私たちの心のこととしても同様に説明できます。心が空虚なら自然といろいろなものが入り込んできます。しかしそれを選別しないなら、本当の光ではないものが入り込み、心は満たされない、闇のままなのです。先に、世界の闇は心の中にも入り込んでいるようだ、と表現しましたが、実は一人一人の心の闇の総体が世界を覆う闇なのです。「世界が悪い、社会が悪い」と言いながら、自分には責任を感じないなら、それは海が汚いと嘆きながら、そこに流れ込む川を平気で汚しているようなものです。自分を取り巻く世界をすぐに変えることはできませんが、そこに流れ込む70億の川の一つを変えることはできます。それは心の空虚、闇をどう満たすのかという課題です。正しさを求めて、光が差し込むことを願うのか?暗いことをいいことに人の目を盗んで、自分の欲望を満たそうとするのか?自分自身のためにも、家族のためにも、友達のためにも、そして社会、世界のためにも、あなたの心に闇を締め出す、まことの光を迎えて下さい。
B. あなたにも必要なまことの光)
1) 光ではなく、光を証しする者 (6-8)
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
このヨハネとは、この本を書いた人のことではありません。イエス様の誕生直前に生まれた預言者です。この人はイエス様よりも前に活動を始め、人々に悪から離れ神に立ち帰ることを人々に説きました。そしてイエス様が彼の前に現れると「この人こそ、誰もが信じ従うべき方だ」と人々に伝えた人です。このヨハネが人々にイエス様を紹介したように、私たちは皆、誰かに紹介されてイエス様を知るようになりました。あなたが今日はじめてここに来て下さったのなら、あなたを誘ってくれた方はあなたにとってこのヨハネのような存在です。なぜ私たちは誰かにイエス様を紹介したいのでしょう?それは私たちが、愛する人々に本当の光を知ってほしいからです。
あなたにも光が必要です!しかしどんな光でもよいのではありません。本物でなければあなたの心の渇きを満たすことはできません。私たちは様々な光によって、心を励まされますが、渇きは必ずまたやってきます。必要なのは一時的に心を満たす光ではなく心の中にわき上がる、決して枯れることのない泉のような光です。「あなたは私にとって、太陽の光です」という歌があるように、ある人は恋人が自分の最高の光と考えています。しかし太陽のような人と結ばれたのに、その光は色褪せて、韓流のスターや、趣味や、自分の子供に新しい光を見出すことになったりするのです。
2) すべての人のまことの光 (9)
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
今年のクリスマスは終わります。最近は日本でも相当気合の入ったクリスマスデコレーションが街を飾っていますが、クリスマス当日には、イエス様の誕生日は見事に無視されて、クリスマス以上に気合の入ったお正月飾りが街を飾ります。ちょっとだけ、イエス様の誕生のお話に、耳を傾けた人も、その多くは、その大切な価値に気付かないまま、クリスマスの光は、片付けられたツリーやオーナメントとともに来年までお蔵入りとなるのです
創世記の1章が世界の始まりについて教えているように、ヨハネによる福音書の1章は、新しいあなたの始まりを告げています。神様は闇と光を創られたのではなく、光を何もない状態:闇の中に生じさせたのです。あなたを不安にさせ、悪い思いを抱かせる心の闇とは、本当の光の届かない虚無な状態です。私たちの体が光を求めるように心もまた光を求めますが、自己中心的になりがちな私たちの心は、「私に従ってきなさい」と命じる、まことの光には従い難く、より魅力的に見える偽りの光に目を向けてしまいます。けれども、まことの光りに照らされない限り、決して乾くことのないような本当の満足を得ることはできません。イエス・キリストはあなたを照らすまことの光です。
メッセージのポイント
創世記の1章が世界の始まりについて教えているように、ヨハネによる福音書の1章は、新しいあなたの始まりを告げています。神様は闇と光を創られたのではなく、光を何もない状態:闇の中に生じさせたのです。わたしたちを不安にさせ、悪い思いを抱かせる心の闇とは、本当の光の届かない虚無な状態です。私たちの体が光を求めるように心もまた光を求めますが、自己中心的になりがちな私たちの心は、まことの光には従い難く偽りの光に目を向けてしまいます。けれども、まことの光りに照らされない限り心の満足を得ることはできません。イエス・キリストはあなたを照らすまことの光です。
話し合いのために
1) なぜ闇は今も多くの人々の心を支配しているのでしょう?
2) 偽りの光とはどのようなものですか?