<メッセージノート>

2013/01/13 使徒言行録 3:1-10  
あなたが人にあげられるもの

A. 世界に送られた主に従う者の役割

1) 誰もが様々な生まれつきの不自由から解放されたい (1-3)


ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。


2) 私たちを見なさいと言おう (4)

ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。


B. ナザレ人イエス・キリストの名

1) 私達が持っているもの (5,6)

その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」



2) 感謝と喜びで心を満たすもの (7-10)

そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。


メッセージのポイント

この人はペトロたちがお金を恵んでくれることを期待していました。しかし神様は、この人にお金以上のものを与えてくださいました。それはこの人がとうの昔に諦めて願うこともしていなかった、不自由な足のいやしでした。ペトロはこの事をイエスの名によって行いました。イエスの確かな権威によって立ちなさいと命じたのです。主イエスの名に力があります。人の本当のニーズを見出し、それを与えてくださるのがイエス様です。けれどもイエス様は、この箇所にあるように、ペトロのような信じて従う者を通して人々の必要に答えてくださいます。あなたは信じて従う者ですか?そうであれば神様は、あなたを通して人々の必要を満たしてくださいます。

話し合いのために
1) ペトロが持っていたものとは何ですか?
2) あなたはイエス・キリストの名をどう用いますか?

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<メッセージ全文>

2013/01/13 使徒言行録 3:1-10  
あなたが人にあげられるもの

A. 世界に送られた主に従う者の役割
1) 誰もが様々な生まれつきの不自由から解放されたい (1-3)


ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。

身体に不自由があれば、今以上に苦しい生活を強いられる時代でした。生きてゆくためには、人の憐れみにより頼むしかありません。しかも、彼は物乞いをするにも誰かに運んでもらい道端においてもらうしかなかったのです。ある人はそんな目に合うくらいなら死んでしまったほうがましだと思うかもしれません。しかし彼は生まれつきそうだったのです。皆さんはこれを、自分とはかけ離れた哀れな境遇の男の物語だと考えますか?最初にはっきりとしておきたいと思いますが、これは「あなた」の物語です。確かにここには、肉体的に、経済的に彼ほど過酷な境遇にある人はいません。しかし聖書は私たちの心の奥をはっきりと照らします。人からは、立派な人、豊かな人、賢い人、地位や学歴が高い人、あるいは優しい人、いい人と見られても、それが自分の本性ではないことを私たちは知っています。だから誰でも自分について悩み、人と比べ、少しでも自分が優れている点があれば安心し、自分より優れた者を妬みます。神様の目から見るなら、私達は皆、この人と変わりないのです。もしかすると、この人よりもっと困った状況にいるかもしれません。この人は数十年この環境で生き抜いてきたし、彼をそこにおいてくれる家族か友を持っているのですから。
 
そんな彼の前に現れたのが、ペトロとヨハネでした。神殿に礼拝に向かう人なら、気前よく施してくれることが期待できます。彼は、すかさずペトロとヨハネに声をかけます。


2) 私たちを見なさいと言おう (4)

彼はびっくりしたことでしょう。施しを請われても、殆どの人は足早に通り過ぎ、立ち止まったとしても、黙って小銭を渡し足早に立ち去る人がほとんどでしょう。ところがペトロは こういったのです。

ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。

「わたしたちを見なさい」 全く想定外の言葉です。、私達はあなたに必要な物を持っていて与えることが出来るという自信に満ちた言葉です。殆どの人々は 「あなたが幸せになるためには全く足りないとは思いますが、私ができる精一杯です。私も豊かなわけではありませんから。」 そんなふうに、施すにしても多少後ろめたい気持ちでさっと立ち去るのが普通です。またペトロが私を見なさいと言った言葉の背後には、「自分は持っている」という自信だけではなく「私たちとあなたの関係は、乞うものと施すものという一方通行の関係ではなく、同じように神様に創られ、愛されている者なのです。」というメッセージが込められています。ペトロは、一番大切なものを、単にあげようというだけでなく共有しましょうと言っているのです。
イエス様がとらえられた2ヶ月前には、人の目を恐れて隠れていた彼らでした。しかし復活したイエス様と出会い、聖霊に満たされた二人は、もはや以前の二人ではありませんでした。もちろん彼らもこの人が特に喜ぶほどに施せるようなお金を持っていたわけではありません。それは彼らもまたイエス様に与えられるまでは持ってはいなかったものです。ペトロ、ヨハネと同様に、イエス様と出会い、彼に従って歩んでいる人なら、「私を見なさい」と言う資格があります。そのようにして人を不自由から救い出すことが出来るのです。この確信の根拠はどこにあるのでしょうか?それは次の5,6節に書かれています。

B. ナザレ人イエス・キリストの名

1) 私達が持っているもの (5,6)

その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

ここにいる多くの人々は、二人に会った男と同じように、誰かに私を見なさいと呼びかけられて人生が変わりました。二人が持っていたものと同じものを与えられて変えられたのです。今度は皆さんが誰かに私を見なさいという番なのです。私を見なさいという自信がありますか?もちろん外見についての自信を問われているのではありません。地位、学歴、財産、才能についての自信でもありません。それは「イエス・キリストの名」です。ここで間違えないでほしいことは、彼らが一番伝えたかったことは「癒す能力」ではないということです。もちろん彼らは、聖霊に満たされて、癒す賜物が与えられていたことは確かです。しかし彼らが本当に彼らの内に見出して信じてほしいと思っていたことは「イエス・キリストの名」です。

現代では、名は他と区別するために実体に便宜上つけられたもの 、実体を指し示すにすぎないもの、実体とかけ離れていることもあるものだと思われています。「名より実をとる」と言われたりするように、軽く見られています。しかし聖書の時代には、名は実体、本質を指し示すだけのものではなく、実体、本質の切り離せない一部分のように考えられていました。だから、イエス・キリストの名によってと言うとき、語る者はそこに実際にイエス様がおられて力を発揮されることを信じているのです。 私たちはイエス・キリストの名によって、不自由から解放された、救われた者です。そして誰かに、そのすばらしさを知ってもらい「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と勧めることが出来るのです。「私を見なさい」それは傲慢な言葉ではありません。自分を頼る自信というよりも、神様に対する信頼のことばです。私達自身の弱さや愚かさは、誰もそれほど変わるわけではありません。決定的な違いは「イエス・キリストの名によって」生かされているかどうかということです。それを私たちは持っていて、分け与えることが出来るのです。それだけを根拠に私たちは「私を見なさい」「持っているものをあげよう」と言うのです。


2) 感謝と喜びで心を満たすもの (7-10)

そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

あなたがまだこれを持っていないなら、 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩き始めなさい」とお勧めします。 自分のあらゆる不自由の元が、神様との断絶にあることを認め、この関係回復のために十字架にかけられ、あなたを赦すために苦しんだイエス・キリストを主と信じ、彼に従って新しい人生を歩みだしてくださいということです。 あなたは足は不自由ではないでしょう。しかし、私たちは皆体のすべての部分に不自由がなくても、依然として自分が自由ではないことを知っています。だからこうお勧めするのです。

イエス・キリストの他に、人間には完全な救いの道はないと聖書は宣言しています。この救いがもたらすのは、感謝と喜びです。イエス・キリストの名は、わたしたちの心に感謝と喜びをもたらします。この方が私とともにいてくださるという喜びです。それは日々感謝せずにはいられないほどの確かなものなのです。だから私達の生活の中心は礼拝と賛美にならざるをえないのです。そしてこの喜びを日常生活の中で表して生きることこそ、もっとも優れた伝道、宣教です。誰が、心に喜びのない人から誰が喜びを得ようと思うのでしょうか?愛している人にイエス様を知ってほしい人にとって一番重要なことは、その人自身がイエス・キリストの名によって感謝と喜びに満たされていることです。感謝している、満たされているふりをすることは無意味です。無意味どころか自分にも人にも害を与えることになるでしょう。ふりをする、無理をするのではなく、これからのワーシップタイムの中で、聖霊が働いて、今までわからなかったことを教えられ、癒され、喜びに満たしていただけることを期待して、主に向かって歌いましょう。

メッセージのポイント

この人はペトロたちがお金を恵んでくれることを期待していました。しかし神様は、この人にお金以上のものを与えてくださいました。それはこの人がとうの昔に諦めて願うこともしていなかった、不自由な足のいやしでした。ペトロはこの事をイエスの名によって行いました。イエスの確かな権威によって立ちなさいと命じたのです。主イエスの名に力があります。人の本当のニーズを見出し、それを与えてくださるのがイエス様です。けれどもイエス様は、この箇所にあるように、ペトロのような信じて従う者を通して人々の必要に答えてくださいます。あなたは信じて従う者ですか?そうであれば神様は、あなたを通して人々の必要を満たしてくださいます。

話し合いのために
1) ペトロが持っていたものとは何ですか?
2) あなたはイエス・キリストの名をどう用いますか?