<メッセージノート>
2013/02/17 使徒言行録4:23-37
もっと大胆に求めよう!
A 力を求める祈りをしよう (23-31)
1) 人や、人のすることを恐れる必要はない (23-28)
さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。(23-28)
2) 力を求める祈りの目的 (29-31)
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(29-31)
B 私達が愛し合っていないなら、愛を伝えることはできない (32-37)
1) 信仰の一致がもたらすもの (32,33)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。(32,33)
2) 一人も貧しい者のいない教会になるためには? (34-37)
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。(34-37)
メッセージのポイント
弟子たちが起こす奇蹟によって、教会は注目を集めていました。神様は、今までの宗教指導者たちではなく、彼らが迫害しているイエス様の弟子たちと共にいるのではないかと人々は思い始めていました。弟子たちは、さらにイエス様のことを大胆に伝えることが出来るように、そのしるしとしての癒しや奇跡が起こることを期待して祈っています。その一方で、彼らは互いに愛し合うことを具体的に行なっていました。互いに愛し合っていなければ、神様を愛している事にはならないし、人を愛することもできません。私たちも、イエス様を伝えることと、互いに愛し合う事とを別々のものとは考えず、どちらの面でもイエス様に喜んでいただけるように、大胆に必要な知恵や力を祈り求めましょう。
話し合いのために
1) 今、神様に何を祈り求めたいですか?
2) 私たちに求められていることは?
もっと大胆に求めよう!
A 力を求める祈りをしよう (23-31)
1) 人や、人のすることを恐れる必要はない (23-28)
さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。(23-28)
2) 力を求める祈りの目的 (29-31)
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(29-31)
B 私達が愛し合っていないなら、愛を伝えることはできない (32-37)
1) 信仰の一致がもたらすもの (32,33)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。(32,33)
2) 一人も貧しい者のいない教会になるためには? (34-37)
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。(34-37)
メッセージのポイント
弟子たちが起こす奇蹟によって、教会は注目を集めていました。神様は、今までの宗教指導者たちではなく、彼らが迫害しているイエス様の弟子たちと共にいるのではないかと人々は思い始めていました。弟子たちは、さらにイエス様のことを大胆に伝えることが出来るように、そのしるしとしての癒しや奇跡が起こることを期待して祈っています。その一方で、彼らは互いに愛し合うことを具体的に行なっていました。互いに愛し合っていなければ、神様を愛している事にはならないし、人を愛することもできません。私たちも、イエス様を伝えることと、互いに愛し合う事とを別々のものとは考えず、どちらの面でもイエス様に喜んでいただけるように、大胆に必要な知恵や力を祈り求めましょう。
話し合いのために
1) 今、神様に何を祈り求めたいですか?
2) 私たちに求められていることは?
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<メッセージ全文>
2013/02/17 使徒言行録4:23-37
もっと大胆に求めよう!
A 力を求める祈りをしよう (23-31)
1) 人や、人のすることを恐れる必要はない (23-28)
さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。(23-28)
「詩編でダビデが歌った通りのことが起きた!」 釈放されたペトロたちの言葉を聞いてイエスに従うことへの人々の確信は更に強くなりました。何の力も権威もない自分たちを聖霊が支えてくださり、語るべき言葉を語るなら、王や権力者も何も言うことができず、ペトロとヨハネを釈放するしかありませんでした。しかし彼らは自分たちが強く賢くなったと勘違いすることはありませんでした。政治の世界でも、スポーツの世界でもこのような勘違いから、いいところまで登ったのに転落する人がいます。信仰の世界でも同じです。政治やスポーツなら、ただ地位やタイトルを失うだけのことですが、信仰の場合には下手をすると、地上での命を終えてイエス様がすみかを用意して下さると思って、そこに入ろうとすると、イエス様に止められて「あなたのことを私は知らない」と言われてしまう危険もあるので、自分はイエス様に従っていると思っている人は、時々自分を点検してみなければなりません。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ 7:21-23)
彼らは、自分たちが偉大だと勘違いはせずに、偉大な神様の手が弱い自分たちを通して働いていることを喜んだのです。昔からの神様の計画通りに進んでいると神様に向かって感謝の声を上げたのです。人より小さいこと、弱いこと、貧しいことは悪いことではありません。神様はそのような者に栄光を現して下さるのです。強い人を恐れることはありません。自分を誇るものは、切実に神様に求めようとはしません。しかし弱いことを自覚しているものは、力を与えてくださいと祈るのです。これは簡単な計算です。強い者が100なのに対して、あなたは0.1だとします。強い者は自分には助けが必要だとは思えません。100+0=100です。しかし弱いあなたは無限大の力を持つ神様に助けを求めます。0.1+∞=∞。
あなたが弱くても、強いものを恐れる必要はありません。必要なのは無限大の力を持つ神様に大胆に祈り求めることです。彼らがどう祈ったか、次の部分を読んでみましょう。
2) 力を求める祈りの目的 (29-31)
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(29-31)
ここまででも彼らはかなり大胆に振舞ってきたいるように見えますが、内心はビクビクしていたのでしょう。イエス様のしもべとして、彼らの脅しに対して屈することなく思い切って、大胆に御言葉を語ることが出来るようにして下さい。あなたが手を伸ばしてイエスの名によって癒しとしるしと不思議な業が現れるようにして下さいと祈りました。すると神様の霊は、祈りに応えて、人々を満たし、場所は揺れ動き、人々は大胆に語りはじめたのです。2章に書かれていたペンテコステの時とほぼ同様な状態が再現しています。
ここで大切なことは、彼らがどのようなことを願って力を求めて祈ったか?ということです。それは自分たちの利益のため、繁栄のためではありませんでした。全ては人々が救い主イエス様に気づき、自分の神、主と認めることが出来るようになるためでした。動機が不純なら得られる結果もそれに応じたものでしかありません。私たちも同じ事を、同じ事のために大胆に祈り求めましょう。
B 私達が愛し合っていないなら、愛を伝えることはできない (32-37)
1) 信仰の一致がもたらすもの (32,33)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。(32,33)
彼らは自分の利益を求めるどころか、不足している人に与えようとしていました。最初の教会にいた者の中には、日々の食事に事欠く者もいれば、金持ちもいたのでっす。魂の飢え渇きは、持っているお金の多寡には関係ありません。しかし魂の渇きを癒された、お金持ちたちは、同じ恵みを受けながら、お腹をすかせている人々が底にいることには耐えられなかったのです。だから、助けてあげられる余裕のある人々は喜んで、必要な人に与えていたのです。心も思いも一つになるために平等を強制することは意味がありません。それぞれが自分の与えられるものすべてを必要な人に喜んで与えようとする意志です。このことが実現していたので、イエス様のことは大胆に伝えられ、信じるものが増し加わり、人々からは好意を持たれていたのです。心も思いも一つにすることは、掛け声では実現しません。これも大胆に祈るべきことなのです。
2) 一人も貧しい者のいない教会になるためには? (34-37)
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。(34-37)
自分たちの生活には十分である以上の土地や畑を持っていた人々は、それらを処分して持ち寄り、基本的な生活に困る人々に分け与えられました。リーダーに強制されてそうしたわけではありません。当時は、イエス様の再臨がとても差し迫っていると考えられていたこと、福祉政策が今のようではなかったこともこのようなことが行われた理由だと考えられています。今の私たちの状況を見るなら、困っている人とは、単にお金のことだけを指しているのではないようです。それだけなら、私達は胸を張って私たちは使徒言行録の教会のように一人も貧しいものがいませんといえるはずです。しかし、互いに与え合うべきなのは、お金だけではありません。私達に不足しがちなのは、共に時を過ごすこと、祈ってくれる人、相談に乗ってくれる人、慰めてくれる人。一緒に笑ってくれる人、泣いてくれる人です。そしてこれらのことなら、それほどお金持ちではない私達にも出来るはずです。ミニチャーチがあるのはこの事のためでもあるのです。
メッセージのポイント
弟子たちが起こす奇蹟によって、教会は注目を集めていました。神様は、今までの宗教指導者たちではなく、彼らが迫害しているイエス様の弟子たちと共にいるのではないかと人々は思い始めていました。弟子たちは、さらにイエス様のことを大胆に伝えることが出来るように、そのしるしとしての癒しや奇跡が起こることを期待して祈っています。その一方で、彼らは互いに愛し合うことを具体的に行なっていました。互いに愛し合っていなければ、神様を愛している事にはならないし、人を愛することもできません。私たちも、イエス様を伝えることと、互いに愛し合う事とを別々のものとは考えず、どちらの面でもイエス様に喜んでいただけるように、大胆に必要な知恵や力を祈り求めましょう。
話し合いのために
1) 今、神様に何を祈り求めたいですか?
2) 私たちに求められていることは?
もっと大胆に求めよう!
A 力を求める祈りをしよう (23-31)
1) 人や、人のすることを恐れる必要はない (23-28)
さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。(23-28)
「詩編でダビデが歌った通りのことが起きた!」 釈放されたペトロたちの言葉を聞いてイエスに従うことへの人々の確信は更に強くなりました。何の力も権威もない自分たちを聖霊が支えてくださり、語るべき言葉を語るなら、王や権力者も何も言うことができず、ペトロとヨハネを釈放するしかありませんでした。しかし彼らは自分たちが強く賢くなったと勘違いすることはありませんでした。政治の世界でも、スポーツの世界でもこのような勘違いから、いいところまで登ったのに転落する人がいます。信仰の世界でも同じです。政治やスポーツなら、ただ地位やタイトルを失うだけのことですが、信仰の場合には下手をすると、地上での命を終えてイエス様がすみかを用意して下さると思って、そこに入ろうとすると、イエス様に止められて「あなたのことを私は知らない」と言われてしまう危険もあるので、自分はイエス様に従っていると思っている人は、時々自分を点検してみなければなりません。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ 7:21-23)
彼らは、自分たちが偉大だと勘違いはせずに、偉大な神様の手が弱い自分たちを通して働いていることを喜んだのです。昔からの神様の計画通りに進んでいると神様に向かって感謝の声を上げたのです。人より小さいこと、弱いこと、貧しいことは悪いことではありません。神様はそのような者に栄光を現して下さるのです。強い人を恐れることはありません。自分を誇るものは、切実に神様に求めようとはしません。しかし弱いことを自覚しているものは、力を与えてくださいと祈るのです。これは簡単な計算です。強い者が100なのに対して、あなたは0.1だとします。強い者は自分には助けが必要だとは思えません。100+0=100です。しかし弱いあなたは無限大の力を持つ神様に助けを求めます。0.1+∞=∞。
あなたが弱くても、強いものを恐れる必要はありません。必要なのは無限大の力を持つ神様に大胆に祈り求めることです。彼らがどう祈ったか、次の部分を読んでみましょう。
2) 力を求める祈りの目的 (29-31)
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(29-31)
ここまででも彼らはかなり大胆に振舞ってきたいるように見えますが、内心はビクビクしていたのでしょう。イエス様のしもべとして、彼らの脅しに対して屈することなく思い切って、大胆に御言葉を語ることが出来るようにして下さい。あなたが手を伸ばしてイエスの名によって癒しとしるしと不思議な業が現れるようにして下さいと祈りました。すると神様の霊は、祈りに応えて、人々を満たし、場所は揺れ動き、人々は大胆に語りはじめたのです。2章に書かれていたペンテコステの時とほぼ同様な状態が再現しています。
ここで大切なことは、彼らがどのようなことを願って力を求めて祈ったか?ということです。それは自分たちの利益のため、繁栄のためではありませんでした。全ては人々が救い主イエス様に気づき、自分の神、主と認めることが出来るようになるためでした。動機が不純なら得られる結果もそれに応じたものでしかありません。私たちも同じ事を、同じ事のために大胆に祈り求めましょう。
B 私達が愛し合っていないなら、愛を伝えることはできない (32-37)
1) 信仰の一致がもたらすもの (32,33)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。(32,33)
彼らは自分の利益を求めるどころか、不足している人に与えようとしていました。最初の教会にいた者の中には、日々の食事に事欠く者もいれば、金持ちもいたのでっす。魂の飢え渇きは、持っているお金の多寡には関係ありません。しかし魂の渇きを癒された、お金持ちたちは、同じ恵みを受けながら、お腹をすかせている人々が底にいることには耐えられなかったのです。だから、助けてあげられる余裕のある人々は喜んで、必要な人に与えていたのです。心も思いも一つになるために平等を強制することは意味がありません。それぞれが自分の与えられるものすべてを必要な人に喜んで与えようとする意志です。このことが実現していたので、イエス様のことは大胆に伝えられ、信じるものが増し加わり、人々からは好意を持たれていたのです。心も思いも一つにすることは、掛け声では実現しません。これも大胆に祈るべきことなのです。
2) 一人も貧しい者のいない教会になるためには? (34-37)
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。(34-37)
自分たちの生活には十分である以上の土地や畑を持っていた人々は、それらを処分して持ち寄り、基本的な生活に困る人々に分け与えられました。リーダーに強制されてそうしたわけではありません。当時は、イエス様の再臨がとても差し迫っていると考えられていたこと、福祉政策が今のようではなかったこともこのようなことが行われた理由だと考えられています。今の私たちの状況を見るなら、困っている人とは、単にお金のことだけを指しているのではないようです。それだけなら、私達は胸を張って私たちは使徒言行録の教会のように一人も貧しいものがいませんといえるはずです。しかし、互いに与え合うべきなのは、お金だけではありません。私達に不足しがちなのは、共に時を過ごすこと、祈ってくれる人、相談に乗ってくれる人、慰めてくれる人。一緒に笑ってくれる人、泣いてくれる人です。そしてこれらのことなら、それほどお金持ちではない私達にも出来るはずです。ミニチャーチがあるのはこの事のためでもあるのです。
メッセージのポイント
弟子たちが起こす奇蹟によって、教会は注目を集めていました。神様は、今までの宗教指導者たちではなく、彼らが迫害しているイエス様の弟子たちと共にいるのではないかと人々は思い始めていました。弟子たちは、さらにイエス様のことを大胆に伝えることが出来るように、そのしるしとしての癒しや奇跡が起こることを期待して祈っています。その一方で、彼らは互いに愛し合うことを具体的に行なっていました。互いに愛し合っていなければ、神様を愛している事にはならないし、人を愛することもできません。私たちも、イエス様を伝えることと、互いに愛し合う事とを別々のものとは考えず、どちらの面でもイエス様に喜んでいただけるように、大胆に必要な知恵や力を祈り求めましょう。
話し合いのために
1) 今、神様に何を祈り求めたいですか?
2) 私たちに求められていることは?