<メッセージノート>

 2013/2/24 使徒言行録5:1-11
「恐れ」から「畏れ」へ  

1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。

7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。


A 彼らはなぜこのようなことをしたのか?

1) 様々な欲望のミックス


2) 仲間がいると心強い


B 畏れるべき方を知れば、恐れるものは何もない。

1) 神様との関係を見つめ直す

2) 人間関係を見つめ直す


メッセージのポイント
神様への畏れ(畏敬)は、神様を認めない者にとっては恐れ(恐怖)と区別がつきません。「愛」という神様の本質に触れなければ、保身や利己心、様々な欲によって人を欺くことを悪いとは思えません。しかし、その無感覚はときに、知らず知らずのうちに、神様を欺こうとさえしてしまいます。悪いことはしないに越したことはありませんが、神様は、ただ罰を恐れて悪を行わないということを私たちに期待されているのではありません。神様の深い愛と不義に対する厳しさの両方を知って、心から喜んで従うことを願っておられます。

話し合いのために
1) この話から何を学びましたか?
2) この夫婦はなぜこのようなことをしようと思ったのでしょうか?

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<メッセージ全文>

 2013/2/24 使徒言行録5:1-11
「恐れ」から「畏れ」へ  

1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。

7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。


A 彼らはなぜこのようなことをしたのか?

1) 様々な欲望のミックス
使徒言行録はこの時代の教会を理想化せず、良いことも悪いこともそのまま記録しています。先週お話した直前の部分では、よく助けあいがなされていて信者の中には貧しい者は一人もいなかったこと、周りの人々からは非常に好意を持たれていたことが記録されていましたが、程なくこのようなスキャンダルが起きてしまったのです。二人はなぜこのようなことをしてしまったのか?ペトロは尋ねました。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 ペトロには二人の直接の動機はわかりませんでしたが、サタンに心を奪われたこととその結果、神様を欺くという行為に及んでしまった、ということは分かっていました。この夫婦がどのような思いからこのようなことをしたのか、私たちも聞いておきたかったと思いますが、残念ながら神様はアナニアに発言するチャンスを与えませんでした。けれども、彼らの心の動きは容易に想像することができます。それは、よく私たちの心にも働くサタンの誘惑でもあるからです。このお金持ちの夫婦は、他の金持ちたちが気前よく、貧しい人々のために献げているのを見て複雑な気持ちになったのです。その心の中には、自分たちも気前のいい夫婦と見られたいという気持ちと、あまり財産を減らしたくないという気持ちが同居していました。困っている人の力になりたいという気持ちもなかったわけではないでしょう。しかし、財産の一部を寄付してくれた人という評判では十分ではないと思えたのです。すべてを献げてしまった人と比べてケチだと思われるのは嫌だったのです。結局彼らは、自分たちの欲望のミックスに従って、土地を売った金を全部献げますと申告して、実は手元にも残しました。このように人を欺くことで自分の欲求をすべて満足させることができたはずだったのです。しかし、そのようにはなりませんでした。ペトロが鋭く指摘しています。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 私たちは人間関係の中にだけ生きているのではなく、神様との関係において生かされているということを忘れがちです。それまでの生き方を反省してイエス様に従って再出発した者が再び神様を欺こうとすることはひどい裏切りとなることを憶えていましょう。神様の名においてなされることに参加しようとする時、私たちは注意しなければなりません。自分の欲望に従うことで、神様を欺くことになってしまうかもしれないからです。


2) 仲間がいると心強い
私たち人間は一人ぼっちで生きてゆくようにデザインされてはいません。 夫婦は、アダムとエヴァのときから最も基本的な人間関係として神様が与えてくださったものです。しかし、アダムとエヴァの時から二人で共謀して神様にそむく存在でもありました。神様は私たちに友人も与えてくださいます。仲間なしに良い仕事をすることはできません。しかし、仲間がいることで悪に向かうことへのブレーキが効かなくなることもあるのです。集団の力は一人ではコントロール出来ないほどに大きいものですが、その力は悪にも向かうのです。アナニアとサフィラは二人で示し合わせてこのことをしてしまったのです。サフィラにはアナニアを諌めるチャンスもあったのです(サフィラが最初に言い出したのかもしれませんが)。夫婦や、家族、仲間の力をあわせて一人ではできないことに立ち向かうように、私たちは創られています。これが良い方向に向かうかどうかは、一人一人が神様とどれほど良い関係を保っているかにかかっています。一人だけがGPSを持っているのではなく、皆が神様との位置関係を測れる God’s Positioning System を持っていれば、神様を欺くようなことをしないで済むのです。教会も同じです。そこで次に考えたいことは、このGPSを持つには、その精度を保つにはどうしたら良いかということです。


B 畏れるべき方を知れば、恐れるものは何もない。

1) 神様との関係を見つめ直す
この出来事を目の当たりにして、人々は大変恐れたと11節にあります。本当に衝撃的な出来事だったのです。ペトロ自身も驚き悲しんだことでしょう。できたばかりの教会のメンバーの最初の死がこのようなことで起こったのです。夫婦で神様を欺こうとした人が現れたということも、夫婦が偶然とはいえないような仕方で突然死を遂げたことも、どちらも驚くべきことでした。ペトロは夫人の時には同じ事が起こると直感したのでしょう。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」 と告げています。その昔、モーセを通して十戒を与えられた民でしたが、長い時代を経て人々と神様の関係は緩みきっていました。生も死も神様の手にあることも、神様に対する恐れという感覚も忘れられていました。この感覚は私たちにとっても弱いものになっています。社会全体にも「死」ということをなるべく考えないように、子供からは遠ざけるようにしているようです。死に至る可能性の高い病を得た人にはそれを隠すことも多いのです。受け入れがたいことだと考えられているからでしょう。しかし、死は神様の手の内にあるということを知っておくべきでしょう。それは、命というものがこの世限りのものではないということ、肉体の死がすべての終わりではないということと合わせて知っておくべきことです。そうすれば、このことは神様の嫌われる悪いことをすれば殺されるかもしれないという「恐れ」ではなく、神様の手の内に、自分にとって最もふさわしい人生と永遠の命が用意されているという、喜びと感謝を伴う「畏れ」となるからです。この世の命がなくなることは恐ろしいことではありますが、究極的なことではないのです。自分の死が神様の手の内にあるということは理不尽なことではありません。むしろ全てをお任せして、自分は時が良くても悪くても、その時のベストを尽くして歩んでゆけば良いということです。

2) 人間関係を見つめ直す
イエス様に従おうという決心は個人的なものですが、イエス様に従って歩むことは、個人的なことではありません。あなたが無人島に流れ着いて一人で暮らしているとしても、世界中に祈りでつながっている人がいるのです。イエス様に従って歩むことは、キリストの体に連なっている者同士のティームプレイです。このティームでは、自分を人と比べる必要はありません。赦し合うことができます。そのままの自分でいられるのです。だから、心配を神様に委ねて良い人間関係を作ることができます。ところが誰にとっても、アナニアとサフィラのように、イエス様なしに生きてきた時の習慣から抜け出すことは容易ではありません。時間をかけて、失敗もしながら新しい習慣を身につけるしかないのです。けれどもこのことは、教会の中で必要なことではありません。なぜなら神様はすべての人がそのような関係で結ばれることを望んでおられるからです。イエス様に従う者が皆、GPSを持つことの大切さを先にお話しましたが、私達が担っている神様の働きというのは、すべての人がこのGPSを持つことを目指すものでもあるのです。それはただイエス・キリストが救い主だということを認めてもらうだけでは足りません。それは入り口にすぎないのです。一人一人がどこにいようと、どんな境遇に置かれていようと、その時自分に与えられている、目に見える教会につながり、仲間と力を合わせて、自分も成長し、人の成長を助け、まだイエス様を知らない人にイエス様を紹介して、成長を始めることを勧める。それが、私たちのしている仕事です。言うまでもなく、その成長とは愛するということにおいての成長です。神様に愛されていることを知れば、神様を愛することが出来るようになります。神様に愛されていることを知れば、自分を愛し、人々を愛することができるようになります。愛には恐れがありません。愛が支配する所では、自分を自分ではない者のように見せる必要も、人と自分を比べて優越感を持つことも、劣等感を持つことも必要ないのです。


メッセージのポイント
神様への畏れ(畏敬)は、神様を認めない者にとっては恐れ(恐怖)と区別がつきません。「愛」という神様の本質に触れなければ、保身や利己心、様々な欲によって人を欺くことを悪いとは思えません。しかし、その無感覚はときに、知らず知らずのうちに、神様を欺こうとさえしてしまいます。悪いことはしないに越したことはありませんが、神様は、ただ罰を恐れて悪を行わないということを私たちに期待されているのではありません。神様の深い愛と不義に対する厳しさの両方を知って、心から喜んで従うことを願っておられます。

話し合いのために
1) この話から何を学びましたか?
2) この夫婦はなぜこのようなことをしようと思ったのでしょうか?