<メッセージノート>

2013/3/3 使徒言行録5:12-26
あなたは誰とともにいるのですか?

A 神様に対する様々な態度

1) 心を一つにして神様に従う人々 (12,14)

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。(12-14)



2) イエス様をどうしても受け入れられない人々 (13)

ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。


3) 迷信的に使徒たちをあがめる人々 (15,16)

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。



4) 迫害し神様に従うことをやめさせようとする人々 (17,18)

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。


B 神様とともにいる人を誰も留めることはできない

1) 神様が直接介入されることもある (19-24)

ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。(19-24)
  

2) 良い知らせを伝える声は絶えない (25,26)

そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。(25,26)


メッセージのポイント
イエス様があなたの主、神様ですと紹介され、その力の現れを見ても、人の受け取り方は様々です。その紹介の言葉通りに受け取り、そうした人々とともに心を合わせて主に従う人は幸いです。なぜなら神様は、神様とともに歩む人を全力でサポートしてくださるからです。神様は、私たちが自分ではどうにもならないことには直接介入してくださいます。だから私たちは、「神様はあなたを愛しています。私たちも神様に従うことによって変わらない平安を得ることができます。」という「良い知らせ」を伝え続けることが出来るのです。

話し合いのために
1) 迷信的に使徒たちをあがめるとはどういうことですか?
2) あなたは今でもこのような不思議が起こることを信じていますか?

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<メッセージ全文>

2013/3/3 使徒言行録5:12-26
あなたは誰とともにいるのですか?

A 神様に対する様々な態度

1) 心を一つにして神様に従う人々 (12,14)

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。(12-14)


人々が癒される、神様を欺こうとする人の心が見透かされるといった、理屈では説明できないけれど確かに神様がそこに働いておられると確信させられるような出来事が、弟子たちによって人々の中で次々と行われていました。キーワードは「心を一つにして」です。今日のテキストが私達に問いかけているのは、「あなたは誰とともにいるのですか?」そして勧めているのは、 「心を一つにして神様に従う人々とともに歩みなさい」ということです。心を一つにして共に神様に従う人々のうちに、神様もまた共にいてくださり、しるし、不思議、奇蹟が起こるのです。しかし、しるし、不思議、奇蹟を起こすことが私たちの目的ではありません。目的は、すべての人がイエス様に出会い、愛されていることを知って、もっと愛することが出来るようになることです。そのために必要な奇蹟なら、神様は今でも起こしてくださいます。でも最大の奇蹟は、人が神様の愛に気づき、愛する人に変えられることです。これは人にはできないことです。イエス様を信じますと口でいわせることはできても、その人の心を癒して変えることの出来るのは神様だけだからです。私達ができることは、そのことのために心を合わせてイエス様について行くだけなのです。私が「礼拝の心」といえるような大切なことを教えられた教会がヴィンヤードです。ヴィンヤードチャーチは、今でこそ世界中に何百もの教会を持つ大きなグループとなりましたが、35年くらい前にメンバーの家の居間で数人が心を合わせて祈るところから始まりました。それは、自分たちの弱さを痛感して、神様の力があらわれることを切に求める祈りでした。神様は祈りに応えられ、しるしと不思議な業を見せられました。病の癒しや、困難からの奇跡的な解放を通して多くの人々がイエス様に従いました。またジョン・ウィンバー牧師には先週お話ししたペトロのように、神様が特別な情報を教えて下さるようなことが起こり始めました。例えば、飛行機でたまたま隣り合わせになった人の不倫を教えられて、それを指摘して罪を悔い改めるように勧めなさい、と心に神様の声を聞いたのです。(ジョンは勇気を出して男に話しかけ、実はその関係を悩んでいた男は罪を悔いて立ち直ることができ、主に従う人になりました。) こうして数年のうちに数千人の人々がイエス様に従い、多くの教会が誕生し、このムーヴメントを通して世界中に、イエス様に従う人々が増えているのです。それは、心を一つにして、祈り、従った結果です。私たちにも、どうすることもできないような悩みや問題はたくさんあります。だから私たちも、「心を一つにして」祈り求めましょう。神様が私たちの願いに誠実に応えてくださる方であることを、多くの人が知り、神様の目的が、私たちを通しても達成されるように「心を一つにして」祈り、求め、従いましょう。


2) イエス様をどうしても受け入れられない人々 (13)

ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。

ここに書かれている「ほかの者」とはどのような人々だったのでしょうか?信じた人々の群れを、好意を持って見てはいても、自分から進んでイエス様に従いたいとは考えない人々です。そこには、すでに仲間に加わった人の家族や友達もいたことでしょう。不思議なのは、心を一つとした仲間のことと(12節)と好意を受け、そこから多くの男女が加わったこと(14節)に挟まれて、このような言葉が記録されていることです。先週触れましたが、イエス様は「私に従ってきなさい」と個人的に呼びかけて、弟子となるように招きます。私たちが人の心を変えることはできません。この人々については神様にお任せすればよいのです。それは私たちの神様に対する信頼のレッスンでもあり、その人が信じようが信じまいが、私たちがすることはその人を愛することだけです。

3) 迷信的に使徒たちをあがめる人々 (15,16)

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

彼らの中には、癒されることを通して、イエス様に従ってゆく決心をした人もいたはずです。しかし大多数は、癒されて満足して、自分の日常に帰っていったのです。福音書の中には、イエス様御自身に癒していただいた人々が大勢いましたが、イエス様の受難が近づくと、大多数はイエス様から離れていってしまいました。癒しを求めることは決して悪いことではありません。イエス様にまでは心が行かないで、使徒たちの“超能力”でただ癒されたいと思った人々も、癒していただけたのです。しかし私たちの本当の問題は病気ではないのです。身体が健康であっても、心は癒されてはいないのです。心が健康であるためには、その時その時の平安や健康を求めるだけでは足りません。それを得るためには、私はどこから来てどこへゆくのか?なんのために生きているのか?という問いの答えを知る必要があります。聖書はイエス様の言葉を紹介して、その答えを持っているのは、イエス・キリストただお一人だと断言しています。「私は道であり真理であり命である。私を通らなければ、誰も父のもとにゆくことはできません。」(ヨハネによる福音書14:6) 癒されること、しるしと不思議があらわれることを期待しましょう。しかし同時に、癒しやしるし不思議を見ることが、わたしたちの目的ではないということを忘れないでいましょう。


4) 迫害し神様に従うことをやめさせようとする人々 (17,18)

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。

彼らは元々、宗教的な儀式や教えをすることによって人々と神様をつなぐチャンネルと考えられていた人々です。人々が、弟子たちの勧めによってイエス様に従う者となり神様との関係を取り戻せば、自分たちは無用なものになってしまう。妬みは、自分思っていないものを持っている人、自分にできないことが出来る人に対する感情です。前回の逮捕の表向きの理由は「死者の復活は可能か」という神学的なものでしたが、その正体は「ねたみ」でした。ねたみに燃えてとありますが、ねたみは、怒りと同様に燃え上がる感情です。くすぶっているうちなら何とか出来るのですが、火がついてしまえば手が付けられなくなり、人にも自分にも大きな害を与え、時には命を奪う事にもなるのです。もしあなたが、「ねたみ」をコントロールしたいなら、イエス様に従う人になることをお勧めします。イエス様に従えば、イエス様の愛はあなたの心の内に満ち、自分が十分に豊かな者であることに気付きます。人は、目に見えるものや、地位、名誉をあなたから奪うことができますが、イエス様のくださる愛をあなたから取り去ることができる者はいません。


B 神様とともにいる人を誰も留めることはできない

1) 神様が直接介入されることもある (19-24)

ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。(19-24)

あなたが神様の側にいるのならば、あなたは誰も恐れる必要はありません。あなたに必要なことは、神様のタイミングで、人には不可能であるかのような方法によってでも満たされます。あなたは天使の存在を信じますか?私は信じますが、信じない聖書の教師もいます。そのような人は、「看守の中にイエス様を信じる人がいて、その人々が秘密の出口から逃した」と説明します。どちらでもいいのです。どちらとも証明できるわけではないし事の本質ではないからです。事の本質は「神様が直接的に介入された」ということです。 
  

2) 良い知らせを伝える声は絶えない (25,26)

そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。(25,26)

神様はなぜ直接介入されたのでしょう。それは、彼らに与えた働きを継続させるためであり。「私は彼らとともにいる!」というデモンストレーションでした。過酷な迫害によっても、イエス様による神さまとの和解を告げ知らせる声を絶やすことは誰も成功したことがありません。彼らはまた捕まってしまいましたが、それにも神様の計画がありました。詳しくは来週話しますが、神さまにはまだ、使徒たちの口を通して指導者たちに言っておきたいことがあったからでした。イエス様は、すべての人に良い知らせを宣べ伝えなさいと命じられました。使徒たちはそれに従って、時には迫害されながら伝え続けました。そして現代でも、良い知らせは語り継がれて私たちのところに届きました。最後にもう一度、最初の質問を繰り返します。「あなたは誰とともにいるのですか?」「どうかイエス様に従う人とともに歩み始めて下さい。歩み続けて下さい」イエス様とともに歩んでいることこそ、幸せの基本です。どうか誰よりもあなたを愛しているイエス様にあなたの生涯をゆだねて、煩いから解放されて下さい。


メッセージのポイント
イエス様があなたの主、神様ですと紹介され、その力の現れを見ても、人の受け取り方は様々です。その紹介の言葉通りに受け取り、そうした人々とともに心を合わせて主に従う人は幸いです。なぜなら神様は、神様とともに歩む人を全力でサポートしてくださるからです。神様は、私たちが自分ではどうにもならないことには直接介入してくださいます。だから私たちは、「神様はあなたを愛しています。私たちも神様に従うことによって変わらない平安を得ることができます。」という「良い知らせ」を伝え続けることが出来るのです。

話し合いのために
1) 迷信的に使徒たちをあがめるとはどういうことですか?
2) あなたは今でもこのような不思議が起こることを信じていますか?