<メッセージノート>
ガマリエルの法則
A 良いものが非難され、悪いものが称賛される時には
1)人間に従うより神に従う (27-29)
彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(27-29)
2) 与えられた確信を保ち続ける (30-33)
わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。(30-33)
B それは神から出たものか?
1) 神から出たものには逆らえない、人から出たものなら滅びる(34-40)
ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。(34-40)
2) 自分の周囲の人間関係に適用しよう (41,42)
それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。(41,42)
メッセージのポイント
なぜ正義を愛される神様が、悪の支配を許されるのか、と思うような出来事が起こります。大祭司たちは自分たちの側に正義があると思い込んでいました。弟子たちは民衆には受け入れられていましたが、大祭司らに捕らえられ殺される危険が続いていました。私たちは、大祭司のように間違っているのに自分の義を疑わなかったり、反対に弟子たちのように正しくても悪いと非難されることがあります。相手であれ、自分であれ間違うことはあるのです。そこで考えなければならないことは、イエス様ならどう考え、どう言い、どう行動されるかということです。そして確信が与えられたなら、時がよくても悪くても、それを保ち伝え続けましょう。ガマリエルが主張したように、神様から出てきたのか、人の思いから出てきたものなのかは、私たちが裁こうとしなくても、やがて神様が明らかにしてくださいます。ただ私たちは神様の意思が注意深く聞きながら、忍耐する力も与えられて歩み続けましょう。
話し合いのために
1) どうしたら人に従わず神様に従うことができますか?
2) 自分の身の回りのことでガマリエルの法則を適用しなければならないことがありますか?
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<メッセージ全文>
ガマリエルの法則
A 良いものが非難され、悪いものが称賛される時には
1)人間に従うより神に従う (27-29)
彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(27-29)
何度、宗教指導者や権力者たちに脅されても、イエス・キリストこそ信じ従うべき唯一の方だと人々に語り続けました。投獄されても、天使の助けによって牢を出てまた語り続ける弟子たちは、また再び逮捕されてしまいました。大祭司が質問しているように、彼らは弟子たちが自分勝手な新しい教えを広めようとしている、と見ていました。イエス様を殺しその血を流したことが何の解決にもならないばかりか、間違ったことをしたという非難が、ペトロたちの教えや起きている不思議、しるしによって強くなっていることが、彼らを苛立たせていました。「なぜ、逮捕されたり、処刑されたりする危険を犯してまでイエス様の名を伝えようとするのか?」 この答えは、多くの神学的知識を持っているのに、自分を守ることしか考えていない宗教家たちには不可解なことでした。しかし、学問的知識はないけれど、イエス・キリストを知っている弟子たちにとっては簡単な答えでした。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」 私たちにも向けられている言葉です。私たちが行動するにあたって、最も基本的な原則です。神様を信じている人なら何となく分かるものです。しかし多くの人が誤解をしています。それは、ここで言われている「人間」が、自分に反対する誰かのこととだけ考えてしまうという傾向です。本当は、神様ではない「人間」、自分も含まれた人間と考えるべきです。実は神様に従わない人のほとんどは他の誰かではなく、自分自身に従っています。他の誰か従わなければならない状態よりはずっとましですが、「自分」が一番厄介な「人間」だということを知っておかなければなりません。どうしたら、この厄介な私たちが「自分ではなく、神様に従うことが出来るのでしょうか?次の部分にヒントがあります。
2) 与えられた確信を保ち続ける (30-33)
わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。(30-33)
神様に従うとは、イエス様によれば、自分を捨てることも同時に意味しています。宗教家たちは自分を捨ててはいませんでした。それどころか、神様に従うことを自分たちに服従することと同一視していました。彼らも弟子たちに同じように言い返すこともできたのです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」 カルト的な宗教団体の指導者も「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と言って、神様ではなく自分に従わせようとするのです。見極める目が必要です。自分が騙されないように、人を騙したりしないようにするために必要なことは、自分もまた祭司長たちとともにイエス様の血の責任を負っていることを認めることです。たまたま違う時代、国にいるだけであって、本質的には、祭司団の中か「殺せ、殺せと」声を張り上げていた群衆の中にいたであろうことを認めることです。イエス・キリストの中に自分を捨てたら、イエス様に生かされるだけです。捨ててしまった自分に従うことはできませんが、自分をその中において、だれよりもよく生かして下さるイエス様に従うことができるようになるのです。ペトロたちは、祭司長たちがまた逆上することを承知のうえで「聖霊とともに私たちは、あなたがたが木につけて殺したイエス様が復活したことの証人です」と言いました。この確信が確かに神様から出たものだったので、彼らは生涯、証人として生き続けられたのです。そして多くは殉教の死を迎えたのです。その証言が、今私達に届いているのです。私たちもこの確信を保ちつづけましょう。
B それは神から出たものか?
1) 神から出たものには逆らえない、人から出たものなら滅びる(34-40)
ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。(34-40)
ついに宗教指導者たちの中にも、自分たちが本当に神様に従っているのかどうか疑問を持つ人が現れました。ガマリエルは、本当はペトロたちのほうが、神様に従っているかもしれない、と感じたのです。そして、彼の提案には説得力がありました。「神から出たものには逆らえない、人から出たものなら滅びる、神から出たものに逆らえば神に逆らうものになる」 これがガマリエルの法則です。人間は神様より気が短いので、自分で裁いてしまおうとします。間違う場合もあるわけです。イエス様を十字架につけて殺してしまった上に、弟子たちをも殺してしまいそうな勢いだった人々も、自分たちの行動に確信があったわけではなかったのです。彼らが、ねたみに燃えて激しく怒り、手を下そうとしたその時、神様は彼らの中の一人の心に冷静な思いと判断力を与えました。「ガマリエルの法則」を知っていれば、人をすぐに裁いて失敗することを防ぐことができます。こうしてペトロたちは釈放され再び、イエス様を紹介し始めました。
2) 自分の周囲の人間関係に適用しよう (41,42)
それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。(41,42)
彼らは、自分たちが人々を恐れてイエス様を見捨てた者たちであることに、心を痛めていました。けれども、復活されたイエス様に会い、聖霊に満たされる経験をしたあと、大胆にイエス様を告げ知らせる者と変えられました。このことを通して、彼らはイエス様が本当に彼らを赦し、聖霊として共にいてくださることを確信することができました。私たちも自分のことを考えるなら、胸を張って私はイエス様の弟子ですと言いづらいところがたくさんあります。自分自身では使徒たちのように大胆にはなれないと感じています。しかし弟子たちは、何か特別な修行をしてそうなったのではありません。イエス様と共に歩み、聖霊に満たされていたのでできたことです。神様は、それが必要なときには、知恵も勇気も与えてくださいます。今それがないことを悩む必要はありません。するべきではないこと、しなくてもいいことについて、出来るかできないかで悩むのは意味がありません。それよりも、わからないこと、不確かなことは神様に任せて、むしろ、今積極的にするべきことを行いましょう。
メッセージのポイント
なぜ正義を愛される神様が、悪の支配を許されるのか、と思うような出来事が起こります。大祭司たちは自分たちの側に正義があると思い込んでいました。弟子たちは民衆には受け入れられていましたが、大祭司らに捕らえられ殺される危険が続いていました。私たちは、大祭司のように間違っているのに自分の義を疑わなかったり、反対に弟子たちのように正しくても悪いと非難されることがあります。相手であれ、自分であれ間違うことはあるのです。そこで考えなければならないことは、イエス様ならどう考え、どう言い、どう行動されるかということです。そして確信が与えられたなら、時がよくても悪くても、それを保ち伝え続けましょう。ガマリエルが主張したように、神様から出てきたのか、人の思いから出てきたものなのかは、私たちが裁こうとしなくても、やがて神様が明らかにしてくださいます。ただ私たちは神様の意思が注意深く聞きながら、忍耐する力も与えられて歩み続けましょう。
話し合いのために
1) どうしたら人に従わず神様に従うことができますか?
2) 自分の身の回りのことでガマリエルの法則を適用しなければならないことがありますか?