<メッセージノート>

2013/03/17 使徒言行録6:1-7
"奉仕者"の誕生

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。 (使徒言行録 6:1-6)

A 教会が健康であるために必要なもの

1)
よいコミュニケーション



2) よいリーダー達



B エルサレム教会から学ぶこと

1) 私達に求められていることと求められていないことを知る


2) 効果的に働きを行うための工夫と協力


メッセージのポイント
イエス・キリストの歩みに従い、彼の働きに加わることが弟子になるということです。その働きは「神の国と神の義を求める」と一言で言い表せることですが、実際の働きとしては様々な形で行われるので、担うべき責任を分担しなければ、十分に働くことはできません。キリストという頭を持つ体は一つでも、様々な教派があり、それぞれの教派につながる人々が、様々な地域に目に見える教会として存在しているのはそのためです。エルサレムに誕生したキリスト教会も最初は、私たちのように目に見える一つの集まりだったのです。しかし彼らはすぐに、様々な働きを効果的に勧めてゆくためには、働きを効果的に分担する工夫をしなければなりませんでした。私達が考え、するべきことは何でしょう?


話し合いのために
1) ユアチャーチに求められている(いない)働きとは?
2) どうしたら私たちのコミュニケーションはもっと良くなりますか?

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<メッセージ全文>

2013/03/17 使徒言行録6:1-7
"奉仕者"の誕生

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。 (使徒言行録 6:1-6)

A 教会が健康であるために必要なもの

1)
よいコミュニケーション

今、世界各地に広がった教会も2000年前、小さな一つのグループとして始まりました。人の数が少なければ、互いに思いやり、必要を満たし合うことも容易ですが、一方でイエス様はすべての民に御自身の福音を伝えなさいと命じられていたので、弟子たちはそれに従い、人々は増えてゆきました。問題はすぐに起こりました。日々分け合っていた食べ物のことで不公平な状態が生じたのです。エルサレムの教会のメンバーはほとんどがユダヤ人でしたが、その中には、ギリシャ語圏のユダヤ人コミューンで育ってエルサレムに帰ってきていた人々もいました。この人々の言葉のハンディキャップによるコミュニケーションの不足と、外国育ちで言葉や風習の違いから社会の中で軽蔑されていた風潮が教会の中でも消えていなかった差別意識が原因で起こったことです。コミュニケーションが大切で、それが不足すれば問題が生ずるのは、家庭でも、学校のクラスでも、職場でも同じです。けれども、このことを一番しっかりと考えなければならないのは教会なのです。なぜなら、様々な人々を誰でも積極的に仲間に招き入れることをイエス様に命じられているからです。会社のように最大の利益を生むために組織に役に立つ人だけを選んで仲間に加えるわけではありません。家族のように最初から気心が知れているわけでもないのです。私たちは習慣や肌の色や言葉で似ている人々といる方が心地が良いのです。教会は、「誰にでも開かれていて誰もがわたしの場所と思えるグループとなる」という困難な相反する課題を与えられているのです。励まされるのは、私たちもまたエルサレムの教会のように一つの言葉だけを用いる教会ではないということです。小さな教会ですが、集まっている人の国籍の数からいえば、ユアチャーチほど多くの国籍を持つ人が共に礼拝している教会はそう多くはありません。問題がないわけではありませんが、日本人だけ日本語だけの教会でもコミュニケーション不足による問題が起こることを考えると、皆さんはよくやっています。ユアチャーチという名前に誇りを持って下さい。私たちが教会の名を尋ねられるとき、私たちは「イエス様の」教会です、そして誰に対しても、わたしではなく「あなたの」教会です、と答えているのです。それは、イエス様との、そして、あなたとのコミュニケーションを大切にしています。ということです。このことを忘れなければ、私たちは健康でいられます。この家族に加わりたいと思う人が起こされ続けます


2) よいリーダー達

とはいえ問題が起きることを避けることはできません。私達は皆、罪の性質を残す不完全な存在だからです。健康な教会の基準は、問題が起こるか起こらないかではなく、問題が生じた時にどう対処するかによるのです。そのためにはリーダーの資質が問われます。エルサレムの教会に起こったこの出来事に対して、リーダーたちは、今までのリーダーシップの在り方では対応しきれないことをすぐに悟りました。そこでこのような提案をしたのです。使徒と呼ばれていた12人は、祈ること、イエス様の言葉を解き明かすことに専念できるように、後に「奉仕者」「執事」と呼ばれるようになるリーダーを七人選出してそれ以外の働きを任せました。それは必ずしも、食事の分配にとどまるものではなくなっていきました。英語の
Deaconはギリシャ語のδιάκονος (奉仕者、給仕、仕え人) から来ています。不思議なことに、ここで選ばれたのは皆、ギリシャ名のギリシャ語を話す人々です。極端といえば極端です。わたしなら、起こった問題の性質からいえば、ギリシャ語系、アラム語系半々ぐらいがいいのではなどと考えてしまいます。ちなみに使徒たちはアラム語系ではありますが田舎産まれ、田舎育ち、エルサレム在住の人から見ればギリシャ語系と同じくらいCoolではない人たちです。理由は書かれていませんが、神様は、エルサレム人に強く残っていたユダヤ教の影響を懸念されていたのかもしれません。とにかく彼らは、リーダーを文化的なバランスで選びませんでした。彼らの基準は“霊”と知恵に満ちた評判の良い人です。その結果が、ギリシャ語を話す7人だったのです。私たちもこのような基準からリーダーを選んできました。最初は牧師が、そして今ではリーダーたちが話しあって、必要に応じて加わってもらっています。ユアチャーチではリーダーの人選について牧師が最終的にその責任を負うべきだと考えています。ユアチャーチには自分がリーダーになりたいと思ってリーダーになった人はいません。使徒という言葉も奉仕者という言葉も,仕える者、僕という意味の言葉であって、支配者、権力者ということではないのです。 人に仕えられたい、自分の考えを反映させたい、人の上に立ちたいと思う人は、キリストの体にあっては最もリーダーとなる資格のない人です。


B エルサレム教会から学ぶこと

1) 私達に求められていることと求められていないことを知る

始まったばかりのエルサレムの教会では、共同体が貧しいやもめを助けるという、ユダヤ教から受け継いだ習慣が大切にされていました。しかし、彼らの働きの本質は神様の言葉を伝えることだと認識していました。だから、それぞれのできることに応じて役割を分担することにしたのです。当時はまだ、イエス様の言葉をメッセージとして伝えることができたのはペトロを中心とする数人の弟子に過ぎませんでした。だからこの人達までもが、それ以外の働きに時間をとられるわけにはいかなかったのです。
祈りと御言葉の奉仕があらゆる働きの中心であること、それは今の教会にもいえることです。このことがなければ教会とはいえません。祈りと御言葉の奉仕は人々の心に入り、愛を行うこととして現れるためになされます。それが実際に現れていなければ、どんなに愛の教えがなされていたとしても教会とは言えないでしょう。愛しなさいと教えながら、そこに愛が無ければ説得力がありません。マイノリティーの貧しいやもめが守られていることは、正しく祈りと御言葉の奉仕がなされているというしるしです。だから彼らは、新しい人事制度を作ってまで、このことを守ろうとしたのです。しかし、今私達にこのような仕組みは必要かといえば、そうではありません。教会の機能は時代によっても、置かれている場所によっても異なるのです。また同じ教会であっても、成すべきことは変わってゆきます。神さまとの関係を最も重要だと考えているので礼拝することを最優先にすることは決して変わることはありませんが、誰もが取り残されることなく霊的な成長を遂げられるように、するべきこと、しなくても良いことを見極めてゆかなければなりません。どうぞ牧師のために、リーダーたちのために祈って下さい。アイディアがあれば教えて下さい。


2) 効果的に働きを行うための工夫と協力

私たちが委ねられている働き、それはイエス様をできるだけ多くの人々に紹介し、一人でも多くの人がイエス様に従って生きるという幸せを発見してもらうことです。このことを効果的に行うためには、一人一人が、私たちのしようとしていること、向おうとしているところをよく知っていること。そのために自分がどのような働きを担っているかを知っているということが大切です。 そのために、私たちのコミュニケーションをもっと活性化させる必要があります。ハドルやミニチャーチはそのためにも重要です。是非参加して下さい。


メッセージのポイント
イエス・キリストの歩みに従い、彼の働きに加わることが弟子になるということです。その働きは「神の国と神の義を求める」と一言で言い表せることですが、実際の働きとしては様々な形で行われるので、担うべき責任を分担しなければ、十分に働くことはできません。キリストという頭を持つ体は一つでも、様々な教派があり、それぞれの教派につながる人々が、様々な地域に目に見える教会として存在しているのはそのためです。エルサレムに誕生したキリスト教会も最初は、私たちのように目に見える一つの集まりだったのです。しかし彼らはすぐに、様々な働きを効果的に勧めてゆくためには、働きを効果的に分担する工夫をしなければなりませんでした。私達が考え、するべきことは何でしょう?


話し合いのために
1) ユアチャーチに求められている(いない)働きとは?
2) どうしたら私たちのコミュニケーションはもっと良くなりますか?